あの日見た夢
岬に建つガラス張りの建物の中から、海の方を眺めていた。
空恐ろしくなるような晴天の午後、海はきらきらと光っていた。
三機の透明な飛行機がやってきて、遠くに見える街を爆撃した。
わたしは青い空を見ながら、ぼんやりと
「今日、戦争が始まった。」
と、やけに確信を持ってそう思っていた。
これは、20年以上前に見たわたしの夢の話です。とても印象的で今でもハッキリとその情景を脳内再生することができます。
新年が明けて最初の土曜日、「WWⅢ」がTwitterトレンドの世界のトップになりました。日本でも「第三次世界大戦」がトップに。
アメリカがイランの革命防衛隊の司令官らを乗せた車列を空爆して、同司令官を殺害したというのです。新年早々何てニュース。
そんなわけで、冒頭の夢が再び脳内で再生されたのですが、あの夢の中で怖かったのは飛行機でも爆撃でもなく、自分自身です。
まるでスクリーンの中の出来事を見るように、当事者意識が欠けた状態でわたしはそれを眺めていたのでした。
そして半ば諦めに近い気分で、わたしはそれを受け入れてしまったのです。
戦争が良いものだと思ったことなど一度もないし、憎んでもいるのに、あの夢の中でわたしはそれをただ受け入れた。そのことがとても怖かったのでした。
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フランスの人類学者・社会学者であるロジェ・カイヨワは、人間とその社会の本質に、どうしようもない「戦争への傾き」があると考え、それを見つめて人類の行方を考えようとしました。
著書の「戦争論」の中で
戦争は「破壊のための組織的企て」であると云っています。
前置きしておきますが、わたしは「戦争論」を読んでいなくて、昨年NHKで放送された、「100分de名著」の戦争論の回をたまたま見たに過ぎません。
とても興味深かったので後からテキストを購入してみました。著者は哲学者の西谷修氏です。
https://www.amazon.co.jp/ロジェ・カイヨワ『戦争論』-2019年8月-NHK100分de名著-西谷-修/dp/4142231022/
このテキストから抜粋しますと、
人間が制御しようのない巨大な惰性によって課されたもので、現代の戦争には人間的な意味での原因ではなく、計り難いほどの厖大な物質の、ゆっくりとした、しかし抗し難い、仮借なき運動により、運ばれてゆくかに見える。一旦その動きがはじまってしまうと、もうその動きを止めることはできない。(略)
この戦争は、一種の至上権をもっている。なぜならそれは、現代社会の組織・管理を可能にする無数の機構の、その重みとその硬直さ以外の何物でもないからである。
人間に奉仕するこの巨大な機構(国家のこと)は目に見えないいろいろな方法により、人間に奉仕しながら人間を服従させている。これに対処する方法となると、物事をその基本において捉えること、すなわち人間の問題として、人間の教育から始めることが必要である。
このような遅々とした歩みにより、あの急速に進んでいく絶対戦争を追い越さねばならぬのかと思うと、わたくしは恐怖から抜け出すことができないのだ。
カイヨワはこんな風に結びを締めくくっていて、具体的な処方を示すことはできませんでした。
西谷氏によると、戦争の神であるマルスとベローナのうち、ベローナをカイヨワか原題に入れていることを意味深いものと捉えて、これを「戦争の見てはいけない部分を正視することの比喩」であると教えてくれています。
勇ましい軍神マルスに象徴されるような、文明の無制約の進歩を勝ち誇る姿を見るのではなく、ベローナが示す血や肉が飛び散り生身の戦いのリアルで残酷な側面を見るように、戦争の汚辱にまみれ、醜くおぞましい、生々しくリアルな禍々しいその姿を直視して、そこから目を逸らしてはいけない、と。
これからの世界がどうなっていくのか、誰にもわからないけれど、誰もが血の通った生身の人間であることを常に意識しておかないと、わたしも大きな潮流に巻き込まれて、つっかい棒を差し込むこともできなくなってしまう、と思うのでした。
新年早々、重たいテーマになってしまいました。ボストンでは大きな戦争反対デモが起こっている中、日本では報道も少なく、知らない間に自衛隊が派遣されていたり、不安なことばかりです。
どうか平和な世界であって欲しい、と祈らずにはいられません。