晩秋の哲学もどき
得意なことを伸ばそう。
なんて言われても、わたしに得意なことなんてあっただろうか、と思うんですよね。
あるのは、苦手なことと、苦手じゃないこと。
あとは好きなことと、嫌いなこと。
どこからのラインを得意というのか、分かりませんでした。器用貧乏で、どれもそこそこ中途半端にできて、抜きんでたものはなかったから。
もう人生も後半戦だしここまで大きなトラブルなく生きてきたのだから、まあいいか、と自らを納得させてしまうことは簡単ですが、未だに
何者でもない感じ
に、ふと足をすくわれるような気がすることがあります。
肩書きが欲しいというわけではなくて、
そもそも何者かになりたいと思って生きてこなかったことに、少しだけ胸が痛むのです。
本質主義とか実存主義という哲学の言葉で考えると、わたしは実存主義的な考え方を支持していた筈なのに、心の奥のほうにある本質主義的なものに囚われていたような気がします。
何者でもないから、何者にでもなれる。
と思えるのが実存主義だとして、そのためには何者かになろうとしなければならなかったんです。
ところが、どうせ私なんてダメだから、って持って生まれたもののせいにして、最初から諦めてしまうことばかりでした。
振り返ってみると、とても本質主義的だったと思うのです。
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得意なことを伸ばそう、なんて思わなきゃよかったんじゃないか、と最近思います。
自分が何者になりたいんだろう、ってことの方がずっと大事だったんじゃないかって。
本質主義的な自分探しより、実存主義的になりたい自分に憧れ続けてたらよかったのかもしれません。
でも
多分それも苦しいことよね、
と思うわけで
人間は自由の刑に処せられている。
というサルトルの名言が、この歳になってやっと少し理解できてきたような気がします。
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遠くの山の木の葉が色付いてくると、久しぶりに哲学の本を読んでみようか、というような気持ちになるから不思議です。秋と哲学の相性なのかしら。
とはいえ、最近の哲学本は自己啓発本的なのが多くて、思考実験的なのが好きなわたしにはしっくりくるものが少ないんですよね。でもニーチェの比喩とかは末人のわたしには難解で、やはり解説本に頼ってしまうんですけど。
でもね、きっと最後に思っちゃうんですよ。
「うだうだ考えていないで、外へ出て生産的な活動をしたまえ。」って。
向いてないのかな。哲学。
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