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短編小説「海辺の番人」

 その日は空に厚い雲が垂れ込め、真夏の八月にしては珍しく薄暗い、妙に肌寒い日だった。夏休みの最中だった僕は、近くの海辺まで歩いて行くと、着ていた服とサンダルを脱いで水着一枚になった。家には親戚らが少しずつ集まり始めていて妙に落ち着かなかったので、一人で海へ泳ぎに来たところだ。
 体を伸ばして準備運動をしていると、目前に広がる海の波間にぷっかり浮き上がっている大きな影を見付けた。目を凝らし、よくよく見てみると、その影には二つのぎょろりとした大きな目玉が付いていて、僕と同じ様にこちらを伺っている様子だった。
 気味が悪い、と思った僕がその影から目を反らして準備運動を続けていると、

「おい、お前。何をしにここへ来た?」

 と不意に尋ねられた。驚いた僕は辺りを見渡したが、どうやらその声の主は大きな目玉を持つ海の影であったようだ。

「泳ぎに来たんだよ、君は誰だい?」

 と訊ね返すと、

「この海には入るな。ここは俺の縄張りだ。海に入ればひと思いに俺がお前を食っちまうぞ」

 と海の影は言った。上空でひゅるりと輪を描く風の音が聞こえた。

「君の縄張りなんか知ったことじゃないよ。海は皆のものだ。僕は今とても泳ぎたいんだから、邪魔するなよ」

 そう言い返すと、

「それなら俺に食われるまでさ」

 と海の影も負けじと言った。

「僕はまずいと思うよ。爪の先なら痛くないから試しに食べてみるかい?」

「いらん、さっさと家に帰れ」

 海の影は吐き捨てる様にそう言った。僕はしばらく腕を組んで海の影と睨みあった後、少し場所を移動することにした。しかし、ぎょろりとした目玉を持つ海の影は僕の後について来た。

「あっちに行けよ、しつこいぞ」

 と僕が喚いて見せると、

「ダメなものはダメだ」

 と海の影が言ったので、とうとう堪忍袋の緒が切れた僕は「勝手にしろよ」と言って、ざぶざぶと波が押し寄せる海の中へと入って行った。
 するとその瞬間、海の影は恐ろしい形相となり、ざぶりと巨大な体を持ち上げて辺り一面に大きな波を起こした。僕がその波に足を取られて倒れ込んだ時、ぎょろりとした目玉の影は大きな口を開けて恐ろしい速さで僕に向かって来た。

「うわっ、やめろ!」

 と叫んだ時には既に手遅れ。
 僕はあっという間に海の影の大きな口の中に飲み込まれてしまった。

◇◇§◇◇

 俺が網に身を絡ませてしまったのは、遠い昔の話だ。
 まだ俺は幼い稚魚で、全くの世間知らずだった。潮の流れが変わる時期に兄弟達からはぐれてしまった俺は、小さな海辺に迷い込んでしまった。腹を透かして小エビを追う内に、いつの間にか投げ込まれた漁師の網に絡み取られてしまった。必死で逃れようとしたが、背ビレに絡んだ網から自力で抜け出すことは出来なかった。成す術もなく引き上げられた俺は目蓋を閉じ、漁師に捉えられて自らの死を迎えることを覚悟した。
 しかし、

「あれ、爺ちゃん。この魚、まだとても小さいよ」

 と言う声が聞こえた。

「まだ稚魚なのかもしれんな」

 そんな萎れた声も聞こえた。俺はゆっくり目蓋を開いてみた。そこには、小さな人間の男の子と年老いた漁師の姿があった。男の子は俺を掴む前に海の水で手を冷やし、優しく俺の体を包み込んだ。俺は恐怖を覚えて少し身じろいだが、男の子は、

「ちょっと我慢してね、今外してあげるから」

 と言って、網に絡んだ俺の背ビレをゆっくりと外してくれたのだった。
 とぷりと再び海に戻された俺は、水面に浮かんだまま男の子の方を振り返った。彼は優しい笑みを浮かべつつこちらに手を振って、

「次からは気を付けるんだよ」

 と言った。再び海に帰れた安堵感と、逃がして貰えたという喜びで、俺はその男の子のことが大好きになった。迷い込んだ海辺は小さくてあまり餌になる小エビは居なかったが、あの男の子が時折漁師の爺さんと遊びに来ていたので、俺はいつの間にかこの小さな海辺に住み着いてしまっていた。

 そうして三ヶ月が過ぎる頃、空に灰色の分厚い雲が垂れ込め、真夏にしては肌寒い日があった。その日、何故か海の様子が薄暗くて、テトラポッドの影に潜んでいた俺は海の中を泳ぐ不気味な影を幾つも目撃した。奴らは蠢く潮の流れにふらふらと漂いながら、浅瀬と沖を行ったり来たりしている。クラゲの様にも見えたが、彼らには比べ物にならない程の悍ましい気配をまとっていた。

 その時ふと、海辺に一人で近付く人影があることに気付いた。それは俺をあの日網から助け出してくれた優しい男の子だった。彼は服を脱ぎ、水着一枚になってそのまま海辺に近付き始めた。なんとなく嫌な予感がした俺は、急いで浜の方へ向かった。

 今、海に入ってはいけない

 しかし小さな俺のひれでは間に合わない程に浜が離れていたので、とうとう男の子は海に入って泳ぎ始めてしまった。すると、さっきまでゆらゆら漂うだけだった不気味な影達が、一斉に男の子の方へ向かって進み始めた。気付く様子もなくじゃぶじゃぶと一人で泳ぐ男の子。
 俺は必死で彼に「逃げろ!」と叫んでいたが、彼に俺の声が届く筈もなく、気付けば男の子の姿は暗い波間に飲み込まれて消えてしまっていた。

 それから俺は必死で探し回ったが、男の子の姿を見付けることは出来なかった。彼を探し回って一週間が経つ頃、大きな花束が静かな海辺に投げ込まれた。水面に浮かんで浜の方を見やると、そこには大勢の人間達が集まり、皆で涙を流しながら両手を合わせていた。その中には膝を付いて項垂れる漁師の爺さんの姿もあった。俺はその時に悟ってしまった。あの男の子はもういなくなってしまったんだと。

 俺は悲しみのあまり意味もなく海辺を何周も何周も泳ぎ回った。溢れ出る涙は海水に溶けていき、未だに海辺をうろうろしていたあの不気味な影達を俺は怒りのままに食い尽くしていった。何の味もしない。何の慰めにもならない。唯々悲しくて、唯々虚しくて、俺は精根尽き果てるまで小さな海辺を泳ぎ回っていた。

 いつしか気を失って水面に浮かんでいると、ぎらぎらと照り付ける太陽の光に俺は目を覚ました。重怠い体を何とか立て直し、腹も好いたので小エビでも捕らえようと沖に続く浅瀬を泳いだ。

 すると俺の姿を見た魚や甲殻類達は、一目散に何処かへと逃げて行ってしまった。何をこんな小魚に怯えているんだ、と思っていると、岩陰に潜んでいた一匹のウツボが、

「あんた何者だい?」

 と訊ねて来た。
 俺は首を傾げた後に「クエの子供さ」と答えると、ウツボは、

「そうは見えないな。あんた、とんでもない化物だぜ」

 と言った。うっすらと陽が差し込む浅瀬に映る自分の影を見てみると、そこには途轍もなく大きな魚影が落ちていた。

 それからしばらくあの小さな海辺を離れて、俺は近くの海原を旅した。俺の姿を見た者は皆一目散に逃げていく。それは同じ海の生物に向けられる視線ではなかった。

 そんなある日、ある一匹の年老いたウミガメに遭遇した。彼は俺を恐れる様子もなく、ただ静かに隣を泳いでいてくれた。殆ど何も語らない彼であったが、ある時ふと、

「お前さん、亡霊を取り込んでしまったみたいだな」

 と言った。

「・・・亡霊?」

 俺が問い返すと、年老いたウミガメはゆっくりと瞬きをして、

「人間が定めた時節の、八月と呼ばれる月の中頃、『地獄の窯の蓋が開く』と言う。地獄から逃げようとする亡霊が沢山出て来て、隙あらば生きた者を引きずり込もうとするのさ。特にその時期の海は危険だ。海水温も下がり、潮の流れも変わる。それを知らずに海辺で泳ぐ人間を引きずり込むのは、造作もないことだろうよ」

 彼の話を聞いてすっかり黙り込んでしまった俺に、ウミガメは物憂げな目をして、

「お前さんからも、なぜかその亡霊のにおいがする。お前さん、何か悲しいことでもあったのかい?」

 と言った。俺はあの日、あの男の子に何が起きたのか、漸く全てを理解することができた。
 俺は急いで踵を返すと、ヒレが引きちぎれんばかりに身をくねらせてあの海辺へと続く海路を泳いで行った。いつしかぎょろりと大きくなった瞳から涙が零れる。冷たい海流、渦を巻く魚群、遠い海底からクジラ達の歌う声が聞こえていた。

 息を切らして辿り着いた海辺では、多くの人間達が泳いでいた。快晴の空から降り注ぐ陽光はじりじりと暑く、波の穏やかな海辺には浮き輪で浮かぶ子供達や楽し気に泳ぐ若者達、浜辺には日光浴をしている大人達もいた。
 俺は遠くから彼らの様子を眺め見て、沸き立つ様な思いを腹の底から感じていた。

「もう二度と、あんな悲しいことは・・・」

◇◇§◇◇

 浜辺に打ち寄せる波の音で、僕はゆっくり目を覚ました。咳込みながら横を見ると、僕の隣で苦しそうに打ち上げられた巨大な魚がえらを動かしていた。

「もしかして海を見張っていたのは、誰も溺れない様にするためかい?」

 僕がそう問うと、巨大な魚は静かに目をぎょろりと動かした。
 魚の腹の中で意識朦朧とする中、僕は不思議な夢を見ていた。そしてこの魚に潜む底知れない悲しみが、痛い程僕の中に流れ込んで来るのを感じた。

 苦しそうにはくはくと鰓を動かす巨大な魚を、僕は必死に海へと引き摺って行き、彼が自ら泳ぎ出せる所まで連れて行った。魚はばしゃりと尾ひれで水面を叩いた後、再び海辺の浅瀬にぷっかりと浮き上がり、誰も海に入らないよう見張りを始めた。
 僕は暫く彼の姿を見詰めた後に、

「ありがとう」

 と聞こえる様に言った。彼はもう二度とこちらを見てはくれなかったが、僕には彼がとても愛おしく思えた。

 その後、僕は市に相談して立て札を立てて貰ったり、広報を利用して『お盆の時期にこの海辺で泳がない様に』ということを触れ回って貰った。かつて溺れて亡くなった男の子がいたにも関わらず、全く対策が取られていなかった海辺に、漸く遊泳禁止期間を設けることが出来たのだった。それからというもの、この海辺で起こる水難事故の報告は一件も無くなったという。


 あれから20年が経った今も、夏に里帰りした時にはいつもあの巨大な魚の姿を見ようと僕は海辺に降りてみる。そこには、彼が今でも揺れる波間に浮かんでジッと海辺の様子を見守っていた。

「ただいま」

 そう声を掛けても彼は何も答えないが、僕は微笑みを浮かべつつ、彼の姿をいつまでもいつまでも見つめているのだった。


〈 終わり 〉

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