どんなに優れた才能よりも、いつも笑い助け合える仲間がいる方が幸せ
タイトルの言葉は、2年前(小6)の私が学校で「座右の銘の作文」で書いたものだ。正しくは座右の銘は「持つべきものは仲間である」と書いたのだが、その座右の銘の説明にこの言葉が書いてあった。
今日、久しぶりにこの言葉を読んだとき、凄い胸に刺さった。自分が書いた言葉なのに。でも、我ながらよい言葉だと思う。才能より仲間はずーっと必要だし、人生をよりよくできる。でも、この言葉が簡単に実現するだろうか。そう思ってしまった。
小学校の時の自分は純粋過ぎたなと、最近よく思う。まさにこの言葉。小学校の頃は、新しく始まる中学校生活に憧れしか抱いていなかったが、実際は「協力」なんて言葉はなかった。世界はこんなことを思えるほど綺麗ではなかった。そんな風に思える「仲間」なんて数多くいない。皆様の周りにそんな人はいますか?多分、なかなかいないと思う。最近できた特に大事な人は…中1からの親友だけ?いや、なんだかんだ毎日笑っているし、色んな人に助けてもらっている気がする。でも小学校の時の方が恵まれていた気がする。小学校と中学校を比べちゃいけないが。
また、当時の私は「誰かの役に立つ人」そんな人をずーっと目指していた。これが自分の道標だった。もちろん今も。まぁなぜこれが道標なのかは今度話すとして、この「誰かの役に立つ人」も今思えばただの綺麗事だと思う。後、自己満。今も初心を忘れないために道標にはしているが、やはりやりすぎはただの「お節介の過ぎる目立ちがりや」になる。「誰かの役に立つ」の意味を信じすぎたらただのやばい人になる。そう、タイトルの言葉と同じように、そんなに世界は甘くない。
でも、確かに小学校の時は、お節介だったとは思うが、理想の人になれていた思う。あの環境が好きだった。でも、あれは小学校だったから通用した。給食の配膳を当番でもないのにして、配りものをして、周りからみればでしゃばりだった部分がある行動を毎日して。もちろん、それは中学校では通用しなかった。小学校と同じことをする前に、雰囲気がもうダメだった。その時本当の世の中を知った気がする。綺麗事は通用しない世の中を。というか、でしゃばりを綺麗に変えるための理由だったのかもしれない、あの言葉は。
中学校に入って、世の中の醜さを知った。というか、現実をみた。小学校の自分が言っていたのは、綺麗事に過ぎないと。タイトルのような言葉は簡単に語れないと。
分からない、自分の中学がたまたまやばい人たちが集まっているだけで、受験頑張って今より環境のいい高校行けば、また小学校の時みたいになれるだろうか。あの幸せに、また浸ってみたいなと思う。いや、そんなことはないな。やはり小学校はあの言葉を過信していた。自己満に浸りすぎていた。やはり、もうこの年にもなってあの言葉をそのまま信じるのは愚かだ。
高校は、ちゃんと地に足をつけた上で、小学校の時の「言葉」を信じて生きていこう。そっと人を支えられるような、そんな人になるために。いや、今日からだな。信じるものは救われる。
また、新しく「いつも笑い助け合える仲間」に出会えるように。