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高山右近と金沢とトマス伊地智


 前回の記事で、高山右近が人生の後半生を加賀前田家で過ごしたことを少し書いた。↓

 キリシタン研究で著名なチースリク師の『高山右近史話』(聖母文庫、2016年)を読んでいたら、右近のいる金沢に、トマス伊地智(本文ではトマス伊智地になっている)が派遣されていたと書いてあって驚いた。個人的な興味から、小西行長に仕えた大坂のキリシタン伊地智(知)文太夫の息子たちの行方を追っていて、このnoteでも彼らの記事を書いたことがあるが、トマス伊地智とは、この伊地智文太夫の息子の一人なのである。伊地智文太夫には三人の息子(マンショ、シモン、トマス)がおり、三人ともイエズス会の神学校に入学したが、そのうちマンショは1592年に亡くなり、シモンかトマスが二代目 伊地知文大夫になったといわれている。(二代目 伊地知文大夫は、のちに加藤清正の正妻の実兄である水野勝成に仕え、その娘は、肥後加藤家の重臣・飯田角兵衛家と婚姻関係を結んだ。)

 では、トマスと金沢の関係について見ていこう。右近らの影響で、加賀藩内で増えたキリシタンたちのために、1605年頃から、イエズス会の神父と日本人修道士が金沢に常駐するようになり、チースリク師の記述によれば、トマス伊地智は、1611年、ジェロニモ・ロドリゲス神父と入れ替わりで金沢に赴任することになったバルタザル・トレス神父といっしょに金沢に入った。しかし、右近が国外追放された1614年頃、このトマス伊地智はイエズス会を脱退したらしい。

 右近の追放とほぼ同じくして大坂の陣がはじまるが、大坂の陣のあと、伊地々分大夫とその息子と弟が豊後の境で見つかったとする書状があって、(その書状の全文は、こちらに載せた。)↓

この書状に出てくる弟がトマスで、伊地々分大夫はシモンで、このシモンがすなわち大坂の陣で豊臣方として戦った二代目 伊地知文大夫なのではないかと、以前、推測したが、1607年の時点でイエズス会の修練士になっていたトマスが、1615年頃、兄と一緒にいたことが解せないでいた。しかし、トマスが1614年にイエズス会を脱退していたとなれば、兄と行動を共にしていてもおかしくはない。イエズス会を脱退したトマスは、兄同様、豊臣方として戦ったのだろうか?

 『日本キリシタン史の研究』(五野井隆史著、吉川弘文館)に載せられた「イエズス会日本人イルマンの名簿」(注:イルマンとは修道士のこと)には、伊地智マンショと伊地智トマスの名があり、こちらでは、トマスは「1613.2:1614.2 脱会カ」と書いてある。この名簿には、112名の日本人名が載せられているが、最後までイエズス会に在籍したのは、46名とのことで、脱会した人数の方が多い。よって、トマス伊地智がイエズス会を脱会したことは、イエズス会内でとりわけ変わった身の処し方というわけではなさそうだ。

 さて、トマスの兄シモンの名は、上の名簿にも、日本人司祭の名簿の中にも見えない。シモンは、早死にしたマンショと共に安土の神学校に入学したものの、やはり、父親の亡くなった1589年頃には、二代目 伊地知文大夫となっていたのではないだろうか。


(参考文献
①『高山右近史話』チースリク著、聖母文庫、2016年
②「付録 キリシタン宣教師についての覚書ー宣教師についての数的考察ー」『日本キリシタン史の研究』五野井隆史著、吉川弘文館、2016年
③小谷利明「河内キリシタン 進士氏と鵤氏」『戦国河内キリシタンの世界』神田宏大、大石一久、小林義孝、摂河泉地域文化研究所編、批評社、2016年)


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