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螺鈿10:螺鈿の歴史

おはようございます。
今日は空全体に雲がかかり今にも雨が降り出しそうな天気。天気予報では既に雨が降り出していて夕方まで雨が続きそうな感じ。

螺鈿の素材や作られ方を見てきたところで、そうした技法がいつ頃生まれ、どの様に受け継がれてきたのか歴史を見ていきたい。

螺鈿の起こり

螺鈿の起源については、まだ明らかにはされていない。当初は
少なくとも古代エジプトの初期(紀元前3500年ごろ)には、当時の遺跡からは、螺鈿細工をほどこした装身具や調度品などが発掘されていて、王族が権力を誇示するために使用していたものと考えられている。
加工技術が地中海沿岸に伝来し、少しずつ発展して諸国に波及していった。

アジアへの伝来

東洋では古代王朝・殷代(紀元前1700年~紀元前1046年)に確認されたとも言われてきたが、ササン朝ペルシアなどの西方の国々から、シルクロードを経て唐(西暦618~907年)に流入したことが確実とされている。

日本での歴史

螺鈿技術と日本との出会いは、そこからほどなくのことでした。
奈良時代、日本は唐に遣唐使を派遣。持ち帰った中に螺鈿技術をあしらった品々があり、このとき歴史の教科書にもよく載っている「螺鈿紫檀五弦琵琶(らでんしたんのごげんびわ)」などが日本に伝来。後に正倉院宝物の中に収められている。
正倉院宝物は、聖武天皇・光明皇后ゆかりの品々で構成されており、螺鈿技術をあしらった品々がどれほど重宝されていたかを物語る。
作り始めたばかりの頃は琥珀や鼈甲(べっこう)と組み合わせながら、上の琵琶の様に楽器の装飾に多く使われていたそう。

その後、螺鈿技術は日本において独自の進化を遂げていく。
平安時代には唐風の木地螺鈿から漆地螺鈿へと主流が転換。当時は藤原道長の時代であり、国風文化の影響が多分にあったと考えられます。螺鈿技術は貴族の室内調度品(家具)にも使用され、硯箱や唐櫃などにも施されていった。

鎌倉時代には、日本の螺鈿技術はさらに発展。平面だけでなく不整形の局面にも絵画的な文様を施すことが可能に。室町時代には一時期低迷しますが、明国から薄貝を用いた技術が伝来し、後に蒔絵と併用して使われる様になる。こうして、螺鈿が巷で流行になるほど人気が高まり、馬の背中に乗せる鞍の装飾に用いられることが増える。当時は馬での移動が主流だったため、煌びやかな鞍を乗せてオシャレを楽しんでいたようです。

桃山時代に入ると李氏朝鮮から割貝法や青貝法が伝わり、茶人・織田有楽斎(おだうらくさい:信長の弟)が考案した明月椀にも応用されました。

中国の元明螺鈿や朝鮮半島の高麗・李朝螺鈿の輸入もあり「唐物」と称された。
16世紀半ばにはヨーロッパとの交易の影響を受けて、ヨーロッパ風の模様の漆芸品が作られたり、彼らの注文に応じて大量に漆芸品が輸出され、南蛮漆芸(南蛮漆器)と呼ばれている。これらの品物はヨーロッパでは一つのステータス・シンボルとなる高級品として非常に人気があった。

螺鈿技術が最も花開いたのが江戸時代。
江戸時代に入ると、貝を好みの色に染色して使うようになる。貝を染色することにより作品作りの表現の幅が広がり、それまで以上にさまざまな作品が作られるようになった。こうして江戸時代になっても螺鈿は引き続き人気を博したものの、鎖国政策によってヨーロッパとの貿易は大幅に縮小されたため、螺鈿職人は必然的に日本向けの商品に集中することとなった。

尾形光琳は鮑の厚貝を用いて独特の表現を追求。杣田光正は薄貝でモザイク文様を表すことに成功し、その兄弟の芝山仙蔵はより細密な螺鈿技術に挑戦。彫刻した貝を嵌め込んだ作品を完成させるなど江戸時代には名高い螺鈿職人が生まれた。

こうした技術が職人たちの手によって現代まで脈々と受け継がれている。そのお陰で美術館で文化財として数百年前の螺鈿が楽しめる一方で、現代の生活にも楽しめる様なアクセサリーといった身近なものでもその美しさを楽しむことができる。
僕の場合は漆塗りのお箸にワンポイントで螺鈿が入っているものを愛用させてもらって、日々その輝きに癒されている。(タイトル画像)


*上記の情報は以下のリンクからまとめています。



僕は幸せになると決めた。
今日もきっといい日になる。
一歩一歩、着実に歩もう。


皆様も、良い一日を。

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