お茶の葉19:日本茶の歴史
おはようございます。
今日は晴れていてオレンジ色の朝陽が気持ちいいけど放射冷却か冷え込みが厳しい。
昨日までは、チャノキの葉を使った茶葉の種類から、それぞれに含まれる成分や効能などを一通り見てきた。個人的に今まで飲んできた日本茶、中国茶、紅茶の製造法から異なる違いが学んできた。
最後にお茶の歴史を振り返っていきたい。
そもそもチャノキの葉っぱが解毒作用のある薬として飲まれるようになった経緯を見た後中国茶の歴史を見たので、今日は日本茶。
日本茶の歴史
奈良~平安時代 (710-1192)
お茶は、日本が中国の進んだ制度や文化を学び、取り入れようとしていた奈良・平安時代に、遣唐使や留学僧によってもたらされたと言われている。
平安初期(815年)の『日本後記』には、「嵯峨天皇に大僧都永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されていて、これがわが国における日本茶の喫茶に関する最初の記述と言われている。お茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などの限られた人々だけが口にすることができました。中国で唐の時代に当たるこの時代のお茶の製法は、「茶経」にある餅茶のスタイルだった。
鎌倉~南北朝時代 (1192-1392)
日本の臨済宗(禅宗の一派)の開祖である栄西(1141-1215)は、二度、宋に渡って禅宗を学び、禅院で飲茶が盛んに行われているのを見聞きする。そして、帰国後栄西は日本初の茶の専門書「喫茶養生記」を著しお茶の効能を説いた。1214年、栄西は深酒の癖のある将軍源実朝に、良薬としての茶に添えて本書を献上したと「吾妻鏡」に記されている。
「喫茶養生記」は、製茶法についても記述がありますが、これは宋時代に作られていた蒸し製の散茶であり、碾茶(てん茶)の原型とも言えます。碾茶とは、新芽に覆いをして栽培、摘採後に蒸した葉を揉まないで造られるお茶のことを指し、煎茶のような渋みは弱く旨味が強調された深いまろやかな味が特徴。この碾茶を茶臼で挽いて微粉末になったものが抹茶です。
当時もこれを粉砕し、お湯を注ぎ、茶筅で泡立てて飲んでいたようだ。
華厳宗の僧である明恵上人(1173-1232)は、京都栂尾(とがのお)の高山寺に茶を植え、茶を奨励しました。ここが最古の茶園とされ、栂尾のお茶を「本茶」とし他のお茶と区別しました。鎌倉末期から南北朝にかけては、寺院を中核とした茶園は京都からさらに広がり、伊勢、伊賀、駿河、武蔵でも栽培されるようになる。
鎌倉時代には、禅宗寺院に喫茶が広がると共に、社交の道具として武士階級にも喫茶が浸透していきました。さらに南北朝時代(1336〜1392年)になると、茶を飲み比べ、産地を当てる「闘茶」が行われる様に。
室町~安土桃山時代 (1336-1603)
足利義満(1358-1408)は、宇治茶に特別の庇護を与え、これは豊臣秀吉(1537-1598)にも受け継がれ、宇治茶のブランドが形成されていく。安土桃山時代には、宇治で覆下栽培も始まり、高級な碾茶が生産されました。
15世紀後半に村田珠光(1423~1502)は「侘茶」を創出し、これを受け継いだ武野紹鴎(1502~1555)、千利休(1522~1591)らによって「茶の湯」が完成、豪商や武士たちに浸透していった。
江戸時代 (1603-1868)
茶の湯は江戸幕府の儀礼に正式に取り入れられ、武家社会に欠かせないものに。一方、江戸時代では一般庶民にも飲料としてのお茶が浸透していったが、庶民に飲まれていたお茶は抹茶ではなく、簡単な製法で加工した茶葉を煎じた(煮だした)ものだった。
1738年、宇治田原郷の永谷宗円は、製茶方法を丁寧な方法に改めて、優良な煎茶の製法を編み出した。このため宗円は煎茶の祖と呼ばれている。宗円が生み出した製法は宇治製法と呼ばれ、これまでにない緑色の水色と甘味、味わい深い豊かな香りは江戸市民を含め幅広く愛された。そして18世紀後半以降全国の茶園に広がり、日本茶の主流となっていく。また、より高級な煎茶を開発しようと、碾茶に用いられていた覆下栽培を煎茶に応用する試みが行われ、1835年、山本嘉兵衛により玉露の製法が生み出されたとされている。
近世になると流通機構がより発達し、茶町と呼ばれる流通の拠点で茶株仲間(江戸の消費地問屋)や茶仲間(地方都市の産地問屋、荷主)と呼ばれる人々が許可制で茶の取引を行うようになる。
こうした組織だった販売経路の確立により、江戸幕府が1858年アメリカと結んだ日米修好通商条約を皮切りに、1859年長崎、横浜、函館の開港を機に生糸とならぶ重要な輸出品として茶181トンが輸出された記録が残っている。
明治時代~昭和初期(1868-)
明治維新後も、茶の輸出量は政府の援助によりアメリカを中心に増加し、明治20年(1887)まで輸出総額の15-20%を占めていました。
明治初期、士族授産事業(廃藩置県・徴兵令・秩禄処分などで失職,困窮した士族に対して、開墾・農工商への就業奨励・起業資金貸付など新たな職業斡旋を図った政府の施策)などを契機に、茶畑作りが進められる。現在ではお茶の一大生産地として知られる静岡県中西部の牧の原台地などの平坦な土地に集団茶園が形成されたのだ。しかし、茶園開拓した士族たちは、茶の輸出価格の下落や、茶園造成に莫大な費用がかかったことが原因で次第に離散していき、かわりに農民が茶園を継承していく。
集団茶園の形成は、茶園の形成だけに留まらず、流通の発展、茶商、仲買人、茶問屋などの育成、各種機械の発明など茶業を中心とした関連産業の成立に影響を与えました。高林謙三(1832-1901)による茶葉揉葉機の発明をはじめ明治期には、機械化が急速に進んでいき、省力化と共に品質の安定化に寄与した。
明治中期まで、花形輸出品として発展してきた日本茶も、インド、セイロン紅茶の台頭で輸出は次第に停滞していく。代わりに国内の消費が増え、お茶は国内向け嗜好飲料に変わっていった。お茶が日本人の生活に根付いたのは、大正末期から昭和初期と言われ、予想外に新しい。
1950 年代後半~60年代にかけて、コーラなどの炭酸飲料、缶コーヒーをはじめとする缶飲料の発売、その後、70年代はファーストフード、コンビニエンスストア、自動販売機の誕生、普及によって食の多様化、洋風化とともに、“飲料の多様化、洋風化”も急激に進んだ。急須でいれるという手間のかかる緑茶は、若い世代を中心に日本人の生活から次第に遠ざかっていき、1975年頃から緑茶(リーフ)市場そのものが、急激に勢いを失っていった。
こうした中、伊藤園が脂っこい食べ物と一緒に飲みやすい烏龍茶の販売を手がけ、その過程で烏龍茶の缶での販売を1980年に開始。その技術を活かして煎茶でも1985年に缶での販売を開始する。
それまで家庭で急須でいれて飲むというインドア飲料だった緑茶を“いつでもどこでも飲みたいときに飲める”という簡便性や携帯性を備えたアウトドア飲料として世に送り出し、その後の日本の食文化に大きな影響を与えました。
平成(1989-2019)から令和(2019~)
1990年に大容量の、1996年に500mlサイズの小容量のペットボトル入り緑茶飲料が登場すると、キャップができるというペットボトルの利便性により飲用シーンが広がり、緑茶飲料の主要容器は缶からペットボトルに移行。
ペットボトル入り緑茶飲料が普及につれ、特に夏季の緑茶飲料の消費量が拡大。一方で、当時温かい緑茶飲料の主流は缶だったが熱くなりすぎて飲みづらかった。そこで伊藤園が温めることができるペットボトルを開発し、2000年にそのまま温めることができるペットボトル入り緑茶飲料を発売しました。
*上記の情報は以下のリンクからまとめています。
https://www.ocha.tv/history/japanese_tea_history/
割と昔から幅広く飲まれていたものと思っていたけれど、当初はやはり中国同様に限られた人たちの嗜みだったお茶。生産地や生産方法、販売流通網などが整えられることで外貨獲得のための国策としての一大事業を経て、市民に広がっていったのはドラマティックで、一方飲まれ方の変遷もとても理に適っている。
そう思いつつ今日も美味しいお茶を頂こう。
僕は幸せになると決めた。
今日もきっといい日になる。
一歩一歩、着実に歩もう。
皆様も、良い一日を。
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