陶磁器41:日本の焼き物(沖縄県:壺屋焼)
おはようございます。
今日は薄雲が張り詰めるグレーの空、気温もちょうど良くてとても気持ちがいい朝。
さて、日本各地の焼き物の名産地をピックアップしたところで、具体的に1つずつ見ていこう。
33回目の最後を飾るのは、沖縄県の壺屋焼。
壺屋焼(陶器)
壺屋焼は沖縄県那覇市壺屋地区で主に生産されている陶器。
焼物(やちむん)とも呼ばれ、沖縄を代表する陶器の一つとなっている。これらの地域には良質の粘土層があるため、陶土にも恵まれています。素朴で力強く、どっしりぽってりとした存在感あふれる佇まいが魅力。
壺屋焼の特徴は、沖縄特有の釉薬を用いた色とりどりの力強い絵付け。庶民が用いる器でありながら装飾性に豊み、様々な技法を駆使した意匠は、大正時代の民芸運動家である柳宗悦(やなぎむねよし)らによって広く紹介され世に知られるようになった。
壺屋焼は荒焼(あらやち)、上焼(じょうやち)と呼ばれる2種類に分かれ、主に酒や水の瓶などに使われた簡素な荒焼に比べ、上焼は様々な種類の釉薬を使い分け1200度の高温で焼締める。現在おもにつくられているのは上焼で、こうして焼かれた壺屋焼はどっしりとした重量感と風格があり、沖縄の豊かな自然風土を写し取った焼物と称される。
使用される釉薬の中でも特に白釉は、消石灰とモミ灰に沖縄の土である具志頭白土と喜瀬粘土を混ぜた壺屋焼特有のもので、壺屋焼の特徴である温かみの表現に重要な役割を担っている。
また、はけ目、象嵌(器の表面を削り掘った部分に粘土をはめ込み、模様を付けたあと、釉薬をかけて本焼き)、印花(イングァー、沖縄独自の竹を使った道具作品で印(スタンプ)を押して模様をつける技法)、掻き落とし(陶器の表面を削って異なる色を出し模様にする技法)、線彫、飛びカンナなどの装飾を施すことも。
歴史
沖縄の焼物(やちむん)の起源は、14世紀~16世紀頃に大陸からもたらされた高麗瓦が由来とされている。この頃、琉球王朝は中国や東南アジア諸国と盛んに交易を行っており、壺屋焼の一種である荒焼(あらやち)もこの頃に技術が伝えられたとされている。酒がめや水がめ類などの大型焼き物が多い『荒焼』は別名南蛮焼と呼ばれ、釉薬をかけずに1120℃で焼き上げる素朴な質感が魅力。沖縄本島で採れる南部の土、泥釉、マンガン釉などが使われていて、魔除けで知られているシーサーも荒焼が主流。
17世紀に入って琉球王朝は江戸幕府薩摩藩の支配下となり、それまで盛んに行われていた外国との貿易も影を潜めるようになりました。このため、1682年(天和2年)に王府の工芸産業振興政策の一環として、分散されていた3つの窯『美里の知花窯(ちばな)、首里の宝口窯(ほうぐち)、那覇の湧田窯(わくた)』を那覇市の牧志の南(壺屋)に統合。壺屋は良質な粘土があるだけでなく、焼き物に欠かせない水場もあり、登り窯にふさわしい邱陸地でありながらさらに燃料として使う薪を運ぶ港が近いこと、首里城と那覇の中間という好立地な条件もそろった理想的な立地だった。そこで当時の琉球王、尚寧王は朝鮮から陶工を呼び寄せ窯を開き、朝鮮の作陶技術を積極的に取り入れた焼物を作るように推奨。こうして、壺屋焼の元となる上焼(じょうやち)が沖縄で焼かれるようになり、これが現在へ続く壺屋焼の始まりとなる。
明治以降になると、いったん壺屋焼は安価な焼物の大量生産に押されて生産が下火となります。しかし大正時代に入ると民芸運動の高まりとともに注目されるようになり、さらに戦後は米兵土産としての需要が高まり、『やむちんブーム』も起きた。また、白釉・黒釉・緑釉薬・飴釉・呉須・乳濁釉など色彩豊かな釉薬が使われる魅力も評価され、遂には1985年(昭和60年)、陶芸家の金城次郎が沖縄県で初めて人間国宝に認定され、壺屋焼は沖縄を代表する伝統工芸品として広く知られる様になった。
地理
壺屋焼が作られている沖縄県那覇市壺屋地区は、沖縄本島の南部に位置し、那覇空港と首里城を結んだちょうど中間地点にある。観光地としても知られる国際通りにもほぼ直結する形で壺屋やちむん通りというのが通っており、ゆいレールの牧志駅からも500m程度とその立地の良さが際立っている。確かにこうしたところで登窯だったとしても薪で焼き物を作っていたら周りの住人から(いかにおおらかな沖縄人とは言えど)文句も言われてしまうかもしれない(作陶の方が先にあった訳でそれを知った上で暮らし始めていたはずだけど)。
海からも河口からも1km以内というロケーションで、作陶においてもやはり効率の良い立地が窺い知ることができる。
作り方
陶土の採掘 沖縄特有の赤土(島尻マージ)と白土などを採掘し、恩納村にある工場で製土。作陶する種類によって土を混合し、ろ過した後、攪拌する。プレス機でフィルターに通し、土のきめを整えたあと土練機でしっかりと練っていく。昔はすべての作業を手作業で行っていたため、土練りは大変な重労働だった。
成形 器や壺などを作る際にはろくろを使用する。ろくろには電動のものと足を使ってろくろを回す蹴ろくろがある。また、押し型を使って携帯用の泡盛入れ、抱瓶(だちびん)や小型のシーサーが作られます。これとは別に大きなシーサーは手びねりという技法で作られます。手で形作っていくので、一つ一つ表情の違うシーサーが出来る。木型を使った成形方法は、沖縄で昔用いられていた遺骨を納める厨子甕(ずしがめ)を作るときに用いられる。
化粧がけ 成形を行い乾燥させたあと、「ナブー」と呼ばれる化粧土をかけて赤土の表面を覆う。「ナブー」には壺屋焼特有の具志頭(ぐしとう)白土を水に溶かしたものが使用されます。化粧がけの作業は「ジーガキー」と言い、壺屋焼独特の厚みのある優しい風合いの白色となる。
加飾 釉薬をかけた後、壺屋焼の本骨頂である加飾を行う。釉薬が半乾きのうちに素地に線彫りを行う。また、盛土を施し彫刻のような厚みを持たせたりと様々な技法が用いられる。素地に大胆に掘られた文様は壺屋焼の大きな特徴。本焼きの後には赤絵が更に施される。赤い色が施された壺屋焼は上等品として扱われ特に珍重された。
上薬(釉薬) 最後に上薬をかけて焼物に艶を出す。上薬も沖縄らしい素材が用いられており、サンゴ石灰岩やもみ殻が使われる。上薬の色も様々あり、白土を用いた「シログスイ」(透明釉)や、飴色の「アカーグアー」、黒っぽい「クログスイ」など作陶の意匠に合わせて使い分けられている。
焼成 焼物の最終工程である焼成は、通常二度焼きするが、壺屋焼では加飾までの行程を終えてから一度の焼成のみ行う。一度火入れすると休みなく10時間以上も火を燃やし続ける重要な作業。古くは伝統的な登窯で薪を焚いて焼成を行っていたが、壺屋の周辺が住宅地に発展し煙害の問題が出てきたことから、壺屋での薪窯の使用が制限されるように。現在では、壺屋ではガス窯を用いて焼成を行っている。ガス窯のメリットは、温度の調整がし易く品質を統一しやすいこと。薪窯にこだわる陶工達は読谷村に窯を移した為、読谷村でも壺屋焼の伝統を引き継ぐ焼物が作られるようになりました。
*上記の情報は以下のリンクからまとめています。
https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/tokonameyaki/
https://journal.thebecos.com/yakimono-type/
僕は幸せになると決めた。
今日もきっといい日になる。
一歩一歩、着実に歩もう。
皆様も、良い一日を。