![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/145438732/rectangle_large_type_2_56bbdc8c80dc9eab9606e6f1bd3e23e7.png?width=1200)
真珠4:真珠の養殖
おはようございます。
今日も薄雲に覆われているけれど、涼しくて過ごしやすい。
さて、今日は真珠に関して、昨日2では作られる過程と組成を見てきた。今日はいわゆる宝石として扱われる真珠の生産方法による種類を確認していこう。
養殖の始まり
真珠養殖の歴史は古く、中国大陸で1167年の文昌雑録に真珠養殖の記事があり、13世紀には仏像真珠という例がある。ただしこれらは貝殻の内側を利用する(いわゆる丸い真珠ではなく)貝付き真珠である。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、フランスのルイ・ブータン、イギリス人ザビル・ケントなど各国で養殖真珠の研究が行われていた。
日本では、1893年(明治26年)に東大三崎臨海実験所箕作佳吉の指導をうけた御木本幸吉が英虞湾神明浦で養殖アコヤガイの半円真珠の生産に成功した。 また、1905年(明治38年)に御木本幸吉は英虞湾の多徳島で半円の核を持つ球状真珠を採取したことが知られている。
日本では御木本幸吉が1888年(明治21年)頃からアコヤガイにガラス,貝殻などで作った半球形の核を挿入して養殖試験を行い,5年後にようやく5個の半円真珠を得る。
真円真珠の発明者は、日本では西川藤吉・見瀬辰平の2人があげられる。
1907年(明治40年)見瀬辰平が、はじめて真円真珠に関し「介類の外套膜内に真珠被着用核を挿入する針」として特許権を獲得した。この特許願の中で見瀬は,核を挿入する際に外套膜の上皮細胞をいっしょに挿入することが真円真珠を作るために重要であると述べ,真珠の形成にとって真珠袋を作らせる細胞が必要なことを明確にしている。
同じころ,御木本幸吉の次女の夫である西川藤吉も一連の特許出願を行い,その中で外套膜の1片を切り取り真珠袋を作らせるという,現在の挿核技術の基本をなす原理を述べている。続けて西川藤吉が真円真珠生産に関し真珠形成法の特許を出願する。 また1916年(大正5年)および1917年(大正6年)に西川藤吉の特許が4件登録された。
この一部が前述の見瀬辰平の特許権に抵触するとして紛争が起こる。調停の結果、西川籐吉の名義で登録し特許は共有とすることとなった。この真珠養殖の特許技術は日本国外では「Mise-Nishikawa Method」として知られている。現在の真珠養殖の技術は西川藤吉のこれらの技術に負うところが多い(西川藤吉は御木本幸吉の次女の夫である)
見瀬辰平の方法を誘導式,西川藤吉のそれをピース式と呼ぶ。このように明治末期から大正初期にようやく半円真珠の技術を越えて真円真珠生産の技術が確立した。一方,養殖技術もそれまでの地まき式方法から,10年藤田昌世による垂下式養殖法が考案されて以来,急速な発展をみた。38年に第2次大戦前の真珠養殖としては最高の1088万個の生産量をあげ,戦後では67年に3900万もんめ(〈もんめ〉は真珠の重さの国際単位で,1もんめ=3.75g)に達してピークを迎えた。しかし,その直後に生産過剰による不況に陥り,現在は各種の生産調整が行われている。
*上記の情報は以下のリンクからまとめています。
https://kotobank.jp/word/%E7%9C%9F%E7%8F%A0-81887#goog_rewarded
僕は幸せになると決めた。
今日もきっといい日になる。
一歩一歩、着実に歩もう。
皆様も、良い一日を。