繊維の種類18:大麻(ヘンプ)の歴史:前編

おはようございます。
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布の素材として靭皮繊維の代表とされる麻の中で衣服の素材となる以下の3つに関してみているところ。

  • 亜麻(あま) Linen  リネン  亜麻科

  • 苧麻(ちょま)Ramie ラミー  葦麻科

  • 大麻(たいま)Hemp ヘンプ  桑科

リネン・ラミーに関して、見てきたところで最後の大麻(ヘンプ)に関して見ていこう。
まず『大麻』が、素材として大麻(おおあさ/たいま、ヘンプ)と違法の大麻(たいま)との違いを明確にしたところで、日本では実に縁のある素材であることを振り返っていきたい。

大麻の歴史

原産地はチベットや中央アジアとされ、日本では約1万2,000年前から暮らしの中で利用されてきた。
人類が大麻を暮らしに取り入れ始めたのは遅くても紀元前1万年前とされている。この時期、どの地域においても大麻の主な使用方法は繊維や食品・薬だったが、紀元前7000~2000年頃のアジアの一部(中国・インドほか)や、紀元前1500年頃の中東諸国では、宗教上の理由などによって嗜好品のように広く親しまれている様になった。
特にイスラム圏でははじめは繊維づくりの際に燃やす大麻をお香として楽しみ、次第にパイプに入れて煙を吸うようになり、西欧には紀元前400年までに伝わったとされ、繊維と食品利用だけでなく煙草のように吸引し嗜好品としても楽しまれた。

古代

日本においては、最古の麻の使用例は縄文時代草創期(1万2000年前)の鳥浜貝塚遺跡(福井県三方町)で出土した大麻製の縄で、この縄の原料に、大麻が使われていることが確認されている。
また、千葉県の沖ノ島遺跡では約1万年ほど前の地層から麻の実が出土しており、当時は縄を繊維や魚を取る網や釣り糸などに使う以外にも、実を絞った油を接着剤や伝統的なランプや料理油に活用されていたのではないかと考えられている。そもそも「縄文」という言葉は「縄の模様」を意味しており、その縄こそ麻から作られていた。
弥生時代の布はほとんどが麻製であることがわかっている。『魏志倭人伝』では、紵麻が育てられていると記され、苧麻を意味する紵を分けるのか議論が分かれるが、『後漢書倭伝』では、麻紵と記され、一般に分けて読まれる。

飛鳥・奈良・平安時代

大化の改新後の律令国家では、唐にならい敷かれた租庸調の税制において、麻や麻布が諸国の産物をおさめる「調」の対象となり、国家の財源として重要な位置を占める。7世紀後半から8世紀にかけて成立した『万葉集』にも麻(大麻もしくは苧麻)の収穫の情景を詠んだものや麻糸、麻布にまつわる歌が多く収録されている。また、奈良時代に起源を持つ東大寺の「正倉院宝物」の中にも、靴や袋、衣装など麻の繊維を用いた品が残されており、国内で作られた麻製の宝物の大半は大麻か苧麻製であることが分かっている。

大麻は罪穢れを祓う聖なる植物として、お札や御幣、神社の鈴縄、注連縄(しめなわ)、巫女の髪紐、狩衣、お盆の迎え火など、神事と関連してあらゆる場面で利用された。伊勢神宮の神札も神宮大麻と呼ぶ由来となった植物であり、神道とも深い歴史的な関わりを持っている。大相撲の横綱の化粧まわし、下駄の鼻緒、凧揚げの糸や弓弦、花火の火薬などの形で大麻はわが国の伝統文化にも見られる。
大麻には強い生命力があり、天皇家は大麻を魂の象徴、神の依り代として稲と並ぶ重要な植物と位置づけられた。古代から皇室祭祀の一翼を担った忌部氏は神事執行のための空間や道具を創造し、麁服(あらたえ)という大麻繊維で作った神衣を織る役割は今も続いており、3日間かけて儀式は行われる。
このように、大麻は天皇家や日本人の暮らしと不即不離の関係であり、日本人の生活に密着した繊維でだったのだ。

和幣(にぎて、にぎたえ)とは、栲や古くは穀による帛(布)、あるいは麻や絹の織物を指すが、『古事記』の天岩戸(あまのいわと)の伝承の中で、真榊の上枝に八尺勾魂(やさかのまがたま)、中枝に八咫鏡(やたのかがみ)、下枝に白丹寸手(しろにぎて)と青丹寸手(あおにぎて)をつけ、布刀御幣(ふとみてぐら)として捧げ、祝詞を唱え、踊りを踊ったところ、天照大神が顔を出し世が再び明るくなった。
また、『古語拾遺』によれば、麻によって青和幣(あおにぎて)を、穀によって白和幣(しろにぎて)を作ったと記されている。神に捧げられた布をさす「ぬさ」に麻が使われたことから麻の字が当てられたのである。儀式が形式化され、祓い具の大麻(おおぬさ)が生まれた。
『万葉集』に、「夏麻(なつそ)ひく」という枕詞があり、「なつそをひいて績(う)む」と、麻の皮を剥いで糸をつむぐなどという意味で使われている。
『延喜式』では阿波忌部(あわいんべ)が天皇即位の大嘗祭に際して、神服(かむみそ)としての麻で織った麁服(あらたえ)を調進することと定められている。また、他にも上総国(かずさのくに)の望陀(もうだ)郡、現在の千葉県木更津市や袖ケ浦市辺りの、麻織物の望陀布は最高級品であり大嘗祭や遣唐使の貢納の品に使われた。徳島県木屋平村の三木家に伝わる古文書では、1260年(文王元年)の亀山天皇の践祚大嘗祭にて麁服(あらたえ)を進上したことが記されており、それ以前からこの役を担っていたと考えられている。

和紙としての麻紙(まし)は、正倉院の文書をはじめ古くから用いられており、その献物帳では757年(天平勝実8年)6月では白麻紙、7月は緑麻紙、天平実字2年6月では碧麻紙であり、赤・黄など様々に残っている。奈良時代から平安末期にかけて写経が流行し、おびただしい数が今日まで残存する。穀紙が登場すると麻紙は上質な紙としての位置づけを残しつつ主流ではなくなったが、写経においては重要視され上質の紙として使われた。『延喜式』には麻紙は麻を材料としたものと、麻を材料とした布を材料としているものに大きく分かれると書かれている。

掘り下げれば掘り下げるほど面白くなってくるので、今日は歴史の前編として、明日は後半を見ていこう。


こちらの文章は以下のリンクを参考文献として使用しています。


僕は幸せになると決めた。
今日もきっといい日になる。
一歩一歩、着実に歩もう。


皆様も、良い一日を。

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