昔 あけぼの シンデレラ 令和落窪物語 第一話 第一章
はじめに・・・
今から千年以上昔のこと、それはこの国に律令国家が築かれた頃、『平安時代』と呼ばれておりました。
帝が国を治められ、貴族達による王朝文化が花開いた雅な時代でございます。
我が国はシルクロードの東の終点として、あけぼのからお隣の中国や朝鮮半島を通じて生活技術や法、統治機構を学び、遠くは地中海のほとりの文化までもがこの国に流入して、不思議な融合を果たしたのです。
そして花開いたのが、我が国特有の王朝文化。
折りしも先んじた文明国、お手本であった中国が群雄割拠の戦国時代へと突入します。
国交は絶えましたが、日本は独り立ちを始めて世界でも稀有な文化を紡ぎはじめます。それが我が国独自の風土をみつめる文化の始まりとなりました。
我が国には美しい四季があります。
春夏秋冬、その表情はそれぞれに趣があり、改めてこの固有の風土が見直されたのが平安時代の特色です。
こうした機運によって隆興した文化は「国風文化」と呼ばれました。
平安の都は唐の長安を模倣い、初期の頃には人々は唐衣という現在の洋服に近いような筒型の衣服を着用しておりました。
それが中期にもなると色を重ねて衣を襲ねて、他の文明にも類を見ない色目の豊かな装束・十二単衣が誕生したのです。
平安貴族は花鳥風月を愛で、歌を詠み、ちょっとした事にも心を大きく揺さぶられる情緒の豊かな人たちでした。
そんな平安の時代に深く愛された物語があります。
いうなれば平安のシンデレラ。
世界各地に似た話はありますが、ことさらに我が国色のシンデレラは独特なものです。
そんなお話を知っていただきたく、語ることと致しましょう。
「おちくぼ」と呼ばれる姫(1)
それは昔、平安の御世のこと。
この時代は現在の我々とはあらゆる面で異なったところがあります。
まず身分制度というものがありました。
国の9割は農民で、ほんのひと握りの貴族たちが国を治める、という律令制度が整ったばかりの頃のことです。
貴族に生まれたならば、ピラミッドの下の者達には望むべくもない、食べるのにも困らぬ幸運とそれを享受するべきではありますが、人の欲は深く、もっと上りたいというのは人の業。
出世、そこは己の才覚をもって為すのもひとつの手。
また、優れた娘を帝の元へ入内させ(嫁がせること)、あわよくば皇子に恵まれれば外祖父として政権を掌握することもあったのです。
後者はやはり財力も必要とされるので、よほどの家柄に生まれなければなかなか巡ってくる幸運ではありません。
しかしながら、平安の貴族と生まれたならば朝廷の中枢にありたい、というのが男の浪漫であったでしょう。
ここにも一人、娘を多く持つ源中納言忠頼(げんのちゅうなごんただより)という人がおりました。
正妻である北の方との間に大君(おおいきみ・長女)、中の君(なかのきみ・次女)、三の君(さんのきみ・三女)、四の君(しのきみ・四女)と四人も姫を持っております。
これだけ娘が生まれれば格上の家柄との婚姻によって、うまくゆけば男子をもうけて家が栄える夢を描くのも仕方ありません。
加えて中納言の北の方はたいそう野心家で、色々と目端の利く、賢い女性だったので、中納言は家内全般にこの人を頼っておりました。
さて、中納言邸には今一人の姫君があったのですが、北の方の実の子ではないので、「おちくぼ姫」と呼ばれ、蔑まれておりました。
変な名前かと思われるでしょうが、邸の隅の使用人たちの部屋に近く、粗末で床が一段落ち窪んでいた部屋に住まわれていたことからつけられた名前なのでした。
お察しの通り、この「おちくぼ姫」こそが平安のシンデレラなのです。
ここで平安貴族の姫たちについて触れましょう。
平安貴族の姫君というものは、邸の一番奥深いところでかしずかれ、屏風(びょうぶ)や几帳(きちょう・布で作られた間仕切り)で遮られた空間に寝起きしていたもので、顔を晒すということはありませんでした。
それどころか顔を見られるということは、嗜みがないとされていたのです。
そして女房と呼ばれる召使いの侍女たちが姫の世話を任されておりました。季節にそぐった着物を選び、香を焚き染め、長い髪を梳いてまめやかに世話をするのです。
そうしてかしずかれた姫君は貴族の殿方と結婚し、家の礎となってゆくのです。
平安時代の婚姻形態は「通い婚(かよいこん)」というスタイルでした。それは男性が女性の元へ三日通って夫婦と為す、というものです。
貴族たちは娘に婿を通わせ、婿が一人前になるまでの生活全般を娘親がみるのが当たり前でした。そして子供が生まれればこちらも母方の邸で養育されることになるのです。
平安時代は典型的な母系社会であったといえましょう。
そうなりますと娘を多く持つ親ほど大変なものはありません。
よくある話ではありますが、継母が自分の子ではない者をかわいがるなどは聞かぬもので、おちくぼ姫がどのように扱われていたかは想像に難くないでしょう。
中納言の北の方腹の四人の姫君たちは、贅沢な着物と食べ物を与えられ、深窓の姫君らしく大切にかしずかれておりましたが、おちくぼ姫の部屋には几帳の一つもありません。粗末な夜具と手回りの品を収めた箱、それから筝(しそう)の琴だけです。
琴を習っていたのは母君が生きておられた7、8歳までのこと。
それでもおちくぼ姫は上手に奏でられるのでした。
ケチな、もとい倹約家の北の方は姫に最低限のものだけを与え、琴を手元に置くのを許したのは、十歳になる息子の三郎君(三男・おちくぼ姫には腹違いの弟)に手ほどきさせるためで、姫を思ってのことではありませんでした。
大君(長女)、中の君(次女)はすでに婿を取り、寝殿の西と東の対で悠々自適な生活を送っております。
おちくぼ姫も成人を迎えて結婚してもおかしくない年齢ではありましたが、北の方は姫を表に出す気などはさらさらなく、召使同様に扱って一生邸に縛り付ける腹積もりなので、成人の裳着(もぎ)の儀式もさせずにいるのでした。
姫君たちのなかでもっとも美しく高貴な血筋のおちくぼ姫は日々食べる物にも事欠いた哀れな境遇に置かれ、世に知られぬ存在ゆえにじっと息を潜めるように暮らしていたのです。