「離散の軌跡」展で考えるジェンダーと人道主義 @The Whitworth Centre、マンチェスター、イギリス 2023年4月7日– 2024年5月 #TracesOfDisplacement #マイベスト展覧会2023
「離散の軌跡」展で考えるジェンダーと人道主義
世界中の難民問題を扱った「離散の軌跡」展のレポート。今回はジェンダーと人道主義という枠で集められた作品について理解を深めていきたいと考えている。一つ一つの作品の背景のは奥が深く、おそらくこれをスタート地点として、ことあるごとに理解を深めていく予定である。2024年4月まで開催なので、もう一回は行っておきたいと考えている。
前回の投稿。
「離散の軌跡」展では、難民問題を、ジェンダーと人道主義という観点から考えていくために、いくつかの作品が紹介されている。アートは時に戦略的に利用され、鑑賞者にどんな効果をもたらすことになったのだろうか。
ウィリアム・ストラング《ベルギーの農家の少女》1914 William Strang ’A Belgian Peasant Girl’ 1914
1914年、ドイツはベルギーに侵攻し、この出来事が第一次世界大戦(1914-18)の引き金となった。それは前例のない規模のヨーロッパ人道危機をもたらし、大量の難民を生みだした。
ベルギーからの難民が増えている状況の中で、ウィリアム・ストラングは一人のベルギー移民の少女をモデルにして 《ベルギーの農家の少女》という作品を描いた。その絵が社会に与えた影響は次の通りである。
ストラングが難民の少女を描いた理由は、人道的な目的であったのか、ジャーナリズム的な精神があったのか、純粋に対象を描くことに情熱があったのか、それともポピュラーな題材を用いて名声をあげようとしたのか、あるいはそのいくつかの組み合わせか、その真意は分からない。いずれにしてもその題材と描き方ゆえに絵がその価値を認められ、美術館のパブリックコレクションに入れられるということは画家として大きな成功を収めたことになる。だが、ベルギー難民に対しての民衆の同情的な見方が数年後には正反対の感情に変わってしまったということは、衝撃的である。いや、本当に衝撃的だろうか。私たちは往々にして世界で起こる様々な事件に対して一時的な情熱を抱き、そしてしばらくすれば無関心になる、ということを繰り返し表してきたのではないだろうか。
サー・フランク・ブランウィン 《スペイン女性と子供のための総合救済基金》1936 Sir Frank Brangwyn ’Spain General Relief Fund for Women & Children in Spain’ c1936
ブランウィンは他の芸術家たちと共に、スペイン内戦から逃れる人々のための資金を集めるための芸術作品を制作した(1936-39)。この作品はカトリックの聖母子像からインスピレーションを得ており、母親が背後の燃える建物から子供たちを守っている様子を描いている。
展覧会の説明書きには、次のように記載されている。
紙媒体で複数作られたポスターの影響は、映像を伝えるメディアやSNSがない時代に、狭いエリア内であれ、同等の影響力があったのではないかと想像する。そして「人気」という表現に現在に通じるような熱狂と無関心が繰り返されるような、似たような香りがする。
ウィリアム・B・キング《彼らが滅びることなく》1915
William B. King ’Lest They Perish’ 1915
エセル・フランクリン・ベッツ・ベインズ《我々が滅びることなく》1915
Ethel Franklin Betts Bains ’Lest We Perish’ 1915
これら、アルメニア人難民への募金を募るポスターが制作されたいきさつについて、展覧会の説明書きを読んでみる。
絵画やポスターが鑑賞者与えた影響と、民衆の反応について自分なりに整理してみたい。
1.難民に対するをサポート(募金など)を得るために、戦略的に「救うべき理想的な難民像」が作られ、それは民衆に意図する効果をもたらした。ただしそれは根本的な理解を促したというよりは、一時的な同情を得られたにすぎないものであったり、別のネガティブな効果を生み出したりもした。(募金で支えられた側が自立を奪われることになるケースがあった。)
2.女性や子供が描かれたポスターや絵画などが多く描かれ、それらはのイメージは理想的な難民像として民衆の心に確立されてしまうことになった。反対に、男性は受け入れる国の側には脅威となるというような印象に紐づけられているというジェンダーごとのステレオタイプも生み出した。
3.難民の出身地によって不平等に受け入れたいかどうかの意見が変わるということ。それには何が影響しているのか。見た目が自分と大きく違うこと、言語が違うこと、習慣が違うこと、信念が違うことなど、様々な理由で人々が思い描く不信感。自分が今まで関わったことがない人たちに対する作られたイメージが大きく影響しているということはないだろうか。一旦知らないものへの抽象化が確立してしまうと、何も知らないまま避けてしまう傾向が私たちにはあると思う。それは最近の国際情勢を見ていても顕著である。直近で大きく報道される大事件が影響して受け入れることになった難民に対しては同情が高まる傾向もあると思われる。
これら全ての項目が、まさに現在進行形で起きていることである。
美術展のキュレーションが日々のニュースで語られない視点を提示することは非常に大切で、無意識のうちに消費してしまっているニュースがその意図を理解しないまま印象を刷り込まれてしまうということに気づかされる。性別の不平等そして受け入れる側の難民の出身地に対する不平等、受け入れる側のムードの変化など、様々な問題を考えさせるまさに現在進行形の視点である。改めて、人道的とはどういうことなのか、考え続ける必要がある。一時的に人を受け入れて募金を募ることは一時しのぎとはなるが、解決策にはならない、ということをこれらの作品から学ぶことができる。1915年から何一つ解決していない。
ジェームズ・マクベイ《 アルメニア難民がフライネットを製作する様子》 1917 James McBey 'Armenian Refugees making Fly-nets' 1917
アルメニアについての資料をあと数点紹介する。
第一次世界大戦(1914-18)中に公式戦争画家として任命されたマクベイは、アルメニア人のジェノサイド(150万人の犠牲者)の余波の中、エジプトのポートサイドにいた。この作品は、イギリス軍のために重要な軍事技術である飛行網を製作するアルメニアの女性たちを描いている。
ベビーのニードルレースの帽子 約1900-15年 アルメニア製
Baby's needle lace cap c.1900-15 Made in Arrnenia
縁の断片 約1900-24 アルメニア製
Fragments of a border c1900-24 Made in Armenia
アルメニアジェノサイド(1915-16)によって引き起こされた損失と離散の規模は巨大であったが、今日になっても増え続けている。その理由は、それがジェノサイドであったと公式に認知されることが難しいからだ説明されている。そのため、破壊された公式および個人のアーカイブを保存できていない。そのため、家庭の中にある物は新たな重要性を帯びている。ここでは、刺繍の断片が世代を通じて伝えられた文化のアイデンティティを示す重要な遺産となっている。
過去のオリジナルの遺産が破壊され、仮に残っているとしても、それにアクセスできない状況。あってもないことになっている。事件が起きてもなかったことになっている。存在しているのに、いないことになっている。
展示されているベビーキャップやテキスタイルの破片に見られるような技術が、多くの生き延びたアルメニア人の難民にとって、収入源となっていたり、その作業がセラピーにもなっているということである。工芸の技術が引き継がれることは残されているものを保存できない現状を考えれば、非常に重要なことだと思う。
布の断片へのフォーカスグループメンバーからの詩が詠まれていたので紹介する。
終わりに
今回の投稿はここまでにしておく。やるせない気持ちを落ち着かせ、自分にできることは何なのか考えてみる。やはり、興味を持ち続けることなんじゃないかな。そう思っていたらアマゾンでとても素敵な装丁の本を見つけた。次の給料日にはこれを買おう。「離散の軌跡」展のレポートはまだまだ続きます。
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