’Girl With a Pearl Earring’『真珠の耳飾りの少女』を読む
’Girl With a Pearl Earring’『真珠の耳飾りの少女』を読み返した。10年くらい前に読んだはずであるし、映画も見た記憶があるのに、内容をあまりよく覚えていなかった。本を読んで、それをベースにした映画を見てしまうと、印象がぼやけてしまうということがあるのかもしれない。この本は、ケント州のとある小さな美術館の片隅に売られていた古本で、フェルメールの《真珠の耳飾りの少女》と《デルフトの眺望》が、ブロンズっぽいゴールドの背景でまとめられた装丁の美しい本である。
著者であるトレイシー・シュヴァリエ(Tracey Chevalier)曰はく、「姉(もしくは妹)の家には何年もこの絵が飾ってあったのだが、ある日この絵を見てふと思った。フェルメールは《真珠の耳飾りの少女》が投げかける表情とどんな関係があるだろうか。」と思ったそうだ。その問いがインスピレーションとなり、小説『真珠の耳飾りの少女』が書かれたのである。
このいきさつは、この古本の中にきちんと折りたたまれて挟んであった、新聞の切り抜きに書かれていた情報である。紙の新聞を切り抜いたりして、スクラップブックなど作っていた世代のかたが持っていた本なのであろう。人を経由したものは、ちょっとしたものでも想像の余地があって面白い。
実は今回この本を読み始めたのは、真に物語に興味があったというよりは、テスト勉強のためになるかも、などという不純な動機からであった。だから、内容よりも言葉の技法や文章構成など、作者の言葉や構成の意図などに注目しながら読み始めた。こう言うと、なんだかあまりストーリーに集中していないような印象を与えそうなのだけれども、ある意味理解力が増し、途中からは逆にその内容に引き込まれることになった。
画家フェルメールの家のメイドとして働き始めたグリート(Griet)は16歳。この本は彼女の視点で見た世界を描いている。16歳までずっと両親と兄弟と過ごしていた女の子が、ある日突然住み込みのメイドとして一家のために稼がねばならなくなった。しかも職場での彼女の扱いはなかなかとげとげしいもので、ある意味敵の中に放り込まれたようなものである。そういう中で、メイドとしての役割を果たし、家族をまもりながらも、自分も押し殺しすぎない方法をたくましく模索していくのである。家族に守られていた時の自分を彼女はこう表現する。
以前は家族に守られた安全な環境に守られ、新しい経験にはゆっくりと慣れていけばよかった。それが靴下を繕うという比喩でとても分かりやすく伝わってくる。ほかの場面でも、グリートが表現する直喩「~のような」の表現がとてもしっくりくる場面がたくさん出てくる。
トレイシー・シュヴァリエの文章に関して特に感銘を受けるのは、’Show, not tell(説明せずに、示す)’ という、「登場人物の感情や状況を説明してしまうのではなく、具体的な行動や状況を書くことで読者にそれを理解させるテクニック」を見せてくれる点である。
例えば、フェルメールの妻、カタリナが洗濯物を干しているグリートのもとにやってきて、話しかけようとしている場面がある。
グリートが洗濯物を干していると、カタリナがグリートに近づいてくる。カタリナは普段は雇用主である自分と、雇われる側であるグリータの身分の違いを強調し、同席に着くことを拒んでいるので、このカタリナの行為は、グリートにとっては異例の行動だ。カタリナは目を閉じたりため息をついたりしていかも何かあるそぶりを見せてくる。グリートは、通常雇用主カタリナのほうから話しかけるまで待つように言われているため、気に留めないふりをしているが、顎が自然に引き締まり、「なにごとなのか?」という不安に駆られている。このようなことが彼女たちの行動描写の中から伺える。今まであまり意識したことがなかったけれど、そもそも小説を含め、広い意味でのアートというのは「説明せずに、示す」ものだということに今更気づく。
《真珠の耳飾りの少女》がメイドであるのはセンセーショナルなことである。真珠の耳飾りは高価なものであって、通常メイドが身に着けるものではないからだ。通常あり得ないこの組み合わせが描かれたいきさつが、物語の中で語られていく。歴史的フィクションというジャンルは不思議なもので、いったん入り込んでしまうと、何がフィクション部分だったかを忘れそうになる。
色に対して優れた感性を持つことを見抜かれ、フェルメールに雇われることになったグリータは、生活の端々でアーティストらしい繊細さとこだわりを見せていく。彼女でなければ気づけない光景の細部を読者は楽しむことができるし、フェルメールは、彼のほかの家族が持ち合わせない彼女の感性に共感する。
グリートはプロテスタントの家庭で育ったため、カトリックのフェルメール家で宗教画を見つけて恐怖を感じたり、フェルメールにプロテスタントとカトリックの絵の違いについて尋ねたりする。崇拝する対象をビジュアル化するにせよ、それを禁止するにせよ、どちらにもそれなりのロジックがあり、フェルメールはそれを分かりやすく説明してくれる。
フェルメールのパトロン、ファン・ライフェン(Van Ruijven)がグリートの肖像画をフェルメールに描かせるだけだったとしたら、《真珠の耳飾りの少女》は生まれなかった。完璧な絵を目指すフェルメールと、その完璧なゴールを希望するグリートの献身的な努力があって、《真珠の耳飾りの少女》が描かれた。そこには一般的な恋愛ではなく、完璧な表現を目指す共犯的な執着のようなものがある。グリートとフェルメールは響き合う感性を持ち合わせており、犠牲を伴っても最高の作品を作らねばならなかったようだ。
どんな本を読んでいても、その時心に留まるものは、読者が生きる社会や生活を反映していると思う。今回心に残ったことの一つに、フェルメールの友人として登場するファン・レーウェンフック(Van Leeuwenhoek)の存在がある。彼は物語の中で時々フェルメールを訪れるのだが、歴史上「初めて顕微鏡により微生物を観察した人」であり、フェルメールの死後、彼の遺産管財人となった人である。この物語の中に出てくる大人の中では、一番冷静でしっかりした大人の印象である。特に物語が佳境に入るあたりで、ファン・レーウェンフックはグリートに、「フェルメールとファン・ライフェン(パトロン)がグリートに対して燃やす炎にグリートが焼かれてしまわないか心配である。フェルメールの目的は最高の作品を作ることであって、必ずしもグリートに目が向いているわけではないのだ。そしてグリータが自分を見失わないようにすることがとても大切だ。」ということを伝えるのである。それはグリートにとって、自分の今後の選択するにあたり、とても重要なアドバイスになったのではないかと想像する。これを考えると、たった一人でも、子供を守る大人がいることの重要さが分かる。17世紀のグリートが生きた時代から400年も経った現代、子供にとって安心な世界はまだまだ程遠い。そういうことを思い知らされた2023年であったから、彼のような存在が際立ったのだと思う。ルーブル美術館に所蔵されている'L'Astronome'《天文学者》はファン・レーウェンフックがモデルではないかといわれているそうである。
とても楽しめたので、トレイシー・シュヴァリエの別の本を早速注文した。’Burning Bright’という18世紀が舞台のWilliam Blakeがらみの歴史フィクションだ。面白そうなものがたくさんあって、選ぶのが難しい。彼女のウェブサイトを貼っておく。