みんなに光が当たりますように。希望がもてるラストに好感「朝が来る」鑑賞。
カンヌ国際映画祭正式出品、
河瀨直美監督「朝が来る」をNetflixにて鑑賞。
養子縁組で養子を迎えた夫婦がいろいろトラブルを乗り越える話かと思っていたら、まったく違った。
※以下、ネタバレのレビューなので、ご注意、納得の上お読みください
しっかりした理念で運営されているNPO法人の組織によって、収入も心構えも問題ない夫婦のもとにやってきた男の子の赤ちゃん。愛情をたっぷり注ぎ、何不自由なく過ごし、幼稚園生だ。養子であることを明かすのが縁組の条件で、おかあさんが2人いる、と本人に伝えていて、養子でもらわれてきたことでグレたりモメたりという話ではない。(幼稚園児の設定なので、ぐれる年齢でもないが)
それよりもスポットが当たっているのが、その子を産んだ母親、というか、中学生の少女だ。広島の田舎で、ピュアな恋愛をして甘い青春する。自転車に二人乗りしたり、公園で話したり、もう瑞々しくてたまらない。そして、その流れで、ちょっと早い気もするが体験をしてしまう。
少女はまだ初潮も迎えていなかったのだが妊娠。生理が来ないことに不思議もなかったため、かなり遅れての妊娠発覚で今さら中絶の道も薄い。泣き崩れる母親。優秀な姉と比較され、とにかく受験でよい学校に行かせることに必死で、この妊娠をなかったことにしようとする家族。相手の男はどうした?と思うが、泣いて謝ってそのまま。結局、彼女の気持ちを置き去りにしたまま、周りが「なかったこと」にしてしまったのだろう。
なんといっても中学生なので、ある程度仕方ない部分もあるかもしれないが、育てたいとかどうしたいとか、彼女の気持ちは一切聞かれないまま、事情があって育てられない母親と、養子を迎えたい夫婦をつなぐ活動をしているところに預けられ、そこで出産する。その子を迎えたのが、はじめに出てきた永作博美と井浦新演じる夫婦だ。
赤ちゃんを引き渡すときに、産みの親である少女は、嗚咽しながら「よろしくお願いします」と夫婦に頭を下げた。その1シーンだけでも、彼女が断腸の思いが伝わってくる。
好きな人と自分の子どもを「中学生だから」という理由で奪われてしまう。無知でしてしまったことだろうし、男と遊びまわっていたわけでもない。相手の男性もイケてる風ではあったが、普通の学生だ。ものすごく悪いことをしたかというとそうは思えない。単に「無知」なまま行為に及んでしまったような気がする。この作品の中での彼女をめちゃくちゃに責める気にはなれないが、もし自分ごとなら、やはりおおごとになるだろう。
わが子は息子だが、同じ中学生の子供を持つ母親としては、やはり「生んで育てよう!」とポジティブにはなれない、かなりキツイ問題だと思うし、結論を出すには時間がほしいが、お腹の子は待ってくれない。とりあえず陰キャでオクテで女子関係のことは今のところ皆無そうな息子に「もしそういうことがあったら、避妊だけはしろ。若すぎる妊娠はやはり人生が狂いやすい」と助言だけは折に触れてしている。
けれどやはり、いちばん割を食うのは妊娠してしまった中学生の少女だ。世間体がすべての家族からは怒鳴られ、泣かれ、妊娠を隠して姉と同じ進学校に進めと言われる。彼女が一番不安で、苦しくて、泣きたいだろうに、それに寄り添う人はこの家族にはいない。それどころか彼女の妊娠を誰にも言うなと口封じした母親が、あろうことか親戚連中には妊娠の事実を伝えており、親戚にも色眼鏡で見られる。
映画の中では、男性側の親も出てこず、フォーカスされていないのでここはさておき、一番味方になってほしいはずの家族がこれでは、少女は絶望するしかないだろう。と、傍目からは思う。だが自分ごとになったら、そんな余裕が持てるかどうかはわからない。自分がパニックになってしまうと、当人の気持ちを考える余裕もなくなるのかもしれない。
唯一心を許せたのは、妊娠中に出産を待つNPO法人の共同生活の家で、似たような境遇の妊婦たち。みないろんな事情で子を育てられないけど、生むしかない。でもまだ養子として育ててもらえる組織につながっているのは幸いなのかもしれない。誰にも言えずに自分でトイレで産んで、そのまま放置してしまう事件が後を絶たないのだから。
居場所をなくした少女は、必死で働くが、それでも仲良しだと思っていた友人に裏切られたりと、とことんついてない。踏んだり蹴ったりな状態で、養子縁組先の夫婦を脅迫しようと試みるところまで行ってしまう。
夫婦からしたら、養子とはいえ幸せな生活を送っているのに、いきなりヤンキー化した不審な女が「母親です」と訪ねてきたら恐ろしいだろう。事情があって子どもが授からず選んだ養子縁組だったわけだが、やはりまだ養子縁組が一般的ではないこの日本においては、今後の育児も何もないわけじゃないという不安と紙一重で生活していたと思う。
泣きながら子供を託したピュアな少女のはずが、母親を名乗る目の前にいる女は、スカジャンに汚い金髪。同一人物とは思えないくらい変わり果てた彼女は、わが子が愛情たっぷりに育てられている間、ずっとずっとしんどい人生だった。この夫婦が知らない、真面目でまっすぐな彼女を知っている私たちは、彼女を責める言葉が見つからない。
赤ちゃんを引き渡すときにわたした少女の手紙から、彼女の心の叫びを知った育ての母によって、最後は一筋の光を感じさせ、救いのあるラストでほっとした。
産む性は、どうしても割を食う。
男と女、2人いないと子どもができないのに、結局産む側がどうにかする話になってしまう。どうにかならないか。考え込んでしまう。
そして事情があって子どもを育てられない母親たちは、養子に赤ちゃんを迎える人たちに対して、「よい生活をして、お金もあるのに、まだ子どもも欲しいの?」と欲張りに感じる気持ちもあるようだ。
やはり子どもを育てられない事情は、家庭環境はもちろん、金銭的な事情が一番大きいだろうし、お金があるのに子どもも欲しいのか?と思ってしまう気持ちも分からなくもない。
それぞれの事情があって、いまがある。家庭の事情から無知のまま育ってしまい、救いを求めるすべを知らなくて、余計に悪いほうを選んでしまったりする。負の連鎖をできるだけ止めたいし、こんなしんどいことは、できるだけなければいいのに、と思う。
では今、非力なわたしができることは何か?と考えたときに
とにかくその人の立場を、背景を想像してみる、ということかなと思う。
他人のことなど、わかり切れるはずもないが、基本みな一生懸命生きていると思うし、できれば幸せになりたいと思っていると思う。でもその人の背景だったり環境だったり、はたまた価値観だったりで、なぜかそっち方向にいかないということは多い。
理解はできなくても、理解できない人をこちらの常識で断罪することはできるだけ避けたいと思う。一番深くかかわるであろう自分の子どもに対しても、微妙なお年頃でこれからいろいろあると思うが、できるだけ本人なりの事情や気持ちを聞いてから話せたらよいなと思う。
わたし自身の育った家庭も、家の中でなかなか自分のことを理解してもらえず、居場所のなさを感じて育ってきたから、ただひたすら寄り添って、まずは気持ちを聞いてほしい。それから間違っていることは間違っているよと伝えてほしいし、自分もできるだけ息子にはそうしていきたい。
本作の登場人物たちも、それぞれの事情、思い、精いっぱい生きている姿が痛くもあり、力強くもあった。
主人公の少女が「ひかり」、養子にもらわれた息子は「あさと」
ひかりが働いていたのは新聞配達。
わが子に対面し、朝の光が差すラストは、泣けて泣けて仕方なかった。
みんなに光が当たりますように。
わたしにも、息子にも、まだ光が当たっていない人にも。