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ボッティチェッリの栄華と最期

前回ご紹介したオンニサンティ教会には、ボッティチェッリのお墓もあります。


ボッティチェッリのお墓。教会に入って右手にある。


教会の側にはボッティチェッリが暮らしていました。



彼は本名をアレッサンドロ・フィリペーピといいますが、次第にボッティチェッリと呼ばれるようになります。
兄弟のアントニオが樽(botte ボッテ)の様な体型だった、または宝石職人だった兄弟のジョヴァンニに関連付けているとも言われます。フィレンツェでは宝石職人をバッティローロ、バッティジェッロと呼んでいたからです。
いずれにせよ、これらいずれかの言葉が訛り、ボッティチェッリと称されるようになりました。



当初は宝石職人として歩み始めたものの、工房に通う内に画家との出会いを重ね、作画に興味を持つようになります。画僧フィリッポ・リッピの弟子として、歩み始めました。


師フィリッポ・リッピの「聖母子」 1465年頃ウフィツィ美術館



そして、近所に住んでいたアメリゴ・ヴェスプッチ(アメリカの発見者)を通してメディチ家と出会い、彼のキャリアは頂点を迎えます。



ウフィツィ美術館にある「春」や「ヴィーナスの誕生」は、メディチ家の婚礼のために発注された作品です。

ボッティチェッリ 「春」1480年頃 ウフィツィ美術館
ボッティチェッリ 「ヴィーナス誕生」 1485年頃 ウフィツィ美術館


しかし、ボッティチェッリの顧客だったロレンツォ・デ・メディチ豪華王が亡くなり、息子ピエロが失脚してから、彼のキャリアに影が指し始めます。一族もろともフィレンツェから逃亡したため、ボッティチェッリは顧客を失ったからです。



更にカリスマ的な僧サヴォナローラがメディチ家を批判し、贅沢を止め、信仰に立ち戻る様に民衆を扇動しだします。その影響か、画風は暗くなり、神話を扱った作品を作らなくなりました。

ボッティチェッリ 「誣告」 1494年頃 ウフィツィ美術館


それに、かなり持っていた不動産などの資産も手放し、最後は乞食の様に亡くなったそうです。



才能ある画家がそんな最期を迎えた事は非常に残念ですが、彼が残した作品の感動は永遠です。



フィレンツェにいらした時の参考になさってみてください。

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