自分が大変な時に救われた言葉たち
生きていれば、楽しいこと、辛いこと、色々ありますよね。私も29歳ながらに、「人生もうどん底だ…..」と思って自分の殻に閉じこもったことがかれこれ2回くらいありました。
そんな時に、私が目に触れて、救われた言葉たちを紹介します。
この言葉が誰かに届いて、少しでも心があったかくなったらいいなあ、と思います。
糸井重里『ふたつめのボールのようなことば。』
糸井さんの、ボールのようなことば。シリーズが大好きです。
特に好きな言葉がこちら。
当時、自分がどれだけ頑張っても手に届かない世界があると知って、かなり落ち込んだことがありました。自分は、この人にはなれない、と。
そんな時にこの言葉に出会って、ああ、私は今ものすごいものを間近で見させてもらっているんだな、この落ち込みはきっと一生忘れないだろうな、と思いました。
今でも「あの人なら、きっとここまでするだろう」と想像しながら仕事や大学院に向き合っています。これから先も、きっと落ち込むこともあると思いますが、それが自分の基準になると思えば、落ち込むことはとても大事な経験な気がします。
ものすごいものを見たときに「すごいなあ」と思って終わるのではなく、落ち込む、ということは、自分もそうなれるはずだと信じているということだと思います。
若松英輔『弱さのちから』
一番好きな随筆家は誰か、と聞かれたら私は若松英輔さんを挙げます。若松さんは、「悲しみ」や「痛み」を知っている人だと思います。若松さんの言葉を見る度に、こんなに美しい日本語があったのか、と衝撃を受けます。
そんな若松さんの言葉で、救われたのがこちら。
自分の心や弱っていて涙がとまらず、布団の中にうずくまっている時にこの詩に出会いました。この詩に出会ったときに、「あ、私このままでいいんだ」とホッとした気持ちになったことを覚えています。
強くあること、乗り越えること、泣かないこと、凛としていること、意志を強く持ち続けること。そんなことを求められている気がして、でもそうなれない自分がいて、なんて自分は弱いんだろう、と思っていました。
でも、そんな弱さがあるから、人の痛みや悲しみに寄り添える。敏感になれる。必要な時に、誰かに一言、声をかけることができる。
「この人になら、わかってもらえる」と安心して本音を話せるかどうかは、私は「悲しみ」や「痛み」を経験したことがある人かどうか、を瞬時に察知しているなと思います。
弱いままでいい。弱いままがいい。若松さんの言葉は、いつもそっと背中に手をあててもらっているような感覚があります。
岡本太郎『自分の中に毒を持て』
岡本太郎も、影響を受けました。自分という存在をただただ本能のままに生き抜いている。そんな人を私は岡本太郎以外あまり見たことがないなと思います。(なぜか岡本太郎だけ呼び捨て)
ニートの時に、これから何をしたいかも、何ができるかもわからず迷っている時にこの言葉に出会いました。
この言葉に出会った時、何かができなければならない、何かを残さないといけない、価値あることを、と思っていた自分に気づき、「そうか、自分は未熟であるという前提を持っていればいいんだ」とハッとしたことを覚えています。
むしろ、未熟だからこそ人は美しい。完璧が本当に美しいのだろうか、と岡本太郎は言っていて、自分の欠けているところを面白がって、愛して、受け入れている岡本太郎がもっと好きになりました。
平気で生きる、という言葉も好きです。未熟であることを悲観するでも、喜ぶでもなく、ただ平気に生きる。あたかも当たり前かのようにいる。
くすぶっている自分を突き上げてくれるのが、岡本太郎だなと思います。
以上が、自分が大変な時に救ってくれた言葉たちです。心に響く言葉があると、いつもその言葉が胸にいてくれていて、励ましてくれる感じがあります。言葉の力って、すごい。人を励ましたり、勇気づけるために、私も言葉を発していきたいし、この365日noteも更新していきたいと思います。(2024年4月1日より365日noteを更新することにチャレンジ中です)
皆さんはどんな言葉に救われてきましたか。
よければまた、どこかで教えてください。