【続】『学力は「ごめんなさい」にあらわれる』【基礎教養部】
本記事は,J LAB図書委員会の活動の一環で作成されたものです。
また、以下の記事の続きとなります。
全く関係ないどうでもいい話
僕は「塾講師」としてアルバイトをしていたのだが、よく生徒には「先生」と呼ばれていた。
初めは先生と呼ばれることにホクホクしていたのだが、よく考えると僕は「先生」ではないのだ、と思うようになった。
僕が「先生」と聞いてイメージするものは、学校で教育している者のことである。小学校、中学校、高校、大学で教える人である。そして特に「先生」感が強いのは小中高の先生である。
「先生」と呼ばれる者は他にもお医者さんや政治家などはいることは知っているが、僕にとっての先生は学校の先生である。
「先生」という言葉の通り「先に生まれた人」であり、人生の先輩として深イイ話をしてくれる、カッコいい生き方を見せてくれる、そうして生徒は学び、憧れをもつ。これが僕のイメージする(そして理想の)「先生」である(このイメージは医者や政治家には当てはまらない。特に政治家、しっかりしてくれ)。
一方で僕は塾「講師」である。「講師」はもともと寺で説教をする僧を意味していたそうだが、宗教の教えを生き方として伝えるという点では先生的な側面もあったのだろうが、僕にとっての「講師」は予備校講師である。
つまり教科指導のプロであり、それ以上でも以下でもない。僕はプロではないが教科指導しかしておらず、カッチョイイ生き方を見せていたわけでも教えていたわけでもない。
こういう意味で、僕は先生と呼ばれるたびに違和感を覚えているのである。ホクホクしている場合ではない。
以上無駄話おわり。
本題
本書の6章では「算数ができない子」について語られている。私はちょっと前まで塾講バイトをやっていて「数々の数学ができない子(主に高校生)」を見てきたので、その経験から6章を考察してみる。
とはいえ小学算数と高校数学では大きな隔たりがあると思う。学生の成熟度、思考経験の差、学習内容の具体性と抽象性、など。
学力の低い高校生を見てきた経験から、「小学校のうちにこれは学んでおかなければならなかったんじゃないか」と思うことについて述べられたらと思う。
6章まとめ
本書は、初等教育において、「言葉」の学び方が学力に反映されるとして、これまでに「聞く」「話す」「書く」「読む」という4つの言葉を考察してきた。
6章では「解く」ことについて、算数教育と絡めて述べられている。
小学1年生の足し算の難しさ
同じ足し算の計算式(3+2=5)を使って答えを求めるが、解く問題の具体的状況が異なる場合がある(例: がったい算とおっかけ算)。
具体的状況が異なるのに抽象的な計算(足し算)が同じであるということを小学生に学ばせるのは難しい。
さまざまな具体的状況を羅列して「あれもこれも3+2=5だよ」と教えることになるのだが、小学生の中には問題文中に「すべての」とか「ぜんぶの」という言葉を見るだけで反射的に数字を足してしまう子もいるらしい。
小学算数は難しいということだ。
「見直す」という言葉
「見直ししなさい」という言葉で全てを伝えた気になっていませんか?
「見直す」とは「自分のしたことを再確認する」ことである。このようなちゃんとした意味を伝えないでただ「見直ししなさい」と伝えるだけでは、親子間で認識の差が生まれてしまう。
「見直す」とはどういうことか、「見直す」ことが何につながるのか。それをしっかり子供に伝えることが子供の学力向上につながるのだ。
「間違えろ」!
算数嫌いの子供に理由を聞いてみると、多くの子どもが「どうせ間違えるから」と答えるらしい。
その子供たちは「間違える」ことで怒られる。そして「間違える」=「してはいけないこと」だと学習してきたのだ。
「間違い」は成功につながる、みたいな話が続くが省略。
「解けた!」は成長を阻害し得る
「解けた!」ひいては「できた!」は油断、思考の硬直に繋がることがある。
解けることをゴールにしてはいけない。見直しや他人の意見を「聞く」ことをしっかり学んで多面的に物事を見れるようになろう。
中学受験の悪いとこ
僕たちは小学生の時にどのように足し算を習ったのだろう。全く記憶にない人がほとんどだろう。
本書でも例に挙がっている「公園に2人いました。追加で3人来ました。全員で何人でしょう。」みたいな問題は当然小学校を卒業した者なら2+3=5だとわかるし、ほかのどのような具体的状況でも2+3=5を解答できると思う。
しかし今記憶に残っているのは「どのような具体的状況に足し算を用いたか」ではなく、単なる足し算である。具体ではなく抽象である。結局、どれだけ具体例を積み重ねても、記憶として定着するのは抽象なのだ。
そして僕たちは脳に刻み込まれたエッセンス(=抽象)を用いて、とうの昔に忘れ去った、公園に人がやってくる問題を今でも解けるわけだ。
ところで、この日本には「具体例の積み重ねだけ」というゴリ押し勉強で受験を突破できる私立中学がある。具体名をは出せないが、塾バイトでそういう子を何人か見てきた。「算数嫌いだったけど過去問全部覚えたらできた」という子。
そういう子は、中学から(も)数学ができなくなる。高校数学なんてまっっったくできない子もいた。
彼らが中学以降数学ができなくなる理由は明白で、「抽象だけ」の勉強ができないからだ。簡単な文字を含む数式の四則演算くらいはできるが、(高校の)二次関数になったらもう終わりだ。公園に人が集まる状況で二次関数は使わないし、自由落下のモデルですら抽象的なのだ。
ちなみに僕の感覚では、三角関数は意外と苦手意識を持つ人は多くない。公式を覚える"だけ"なら諦めてやってしまう子は多く、しかも学校では公式テストで良い点を取ってしまうからだ。これは本書でいう「解けた!」の罠に通ずる。結局定期試験後は苦手意識を持つのだが。
そういうわけで、中学受験までに「具体の積み重ね→抽象化」を経験しなかった子は、中学以降の数学で詰む可能性がある。更に(大学生がアルバイトしている)個別指導塾なんか行くともう一生成績やら学力やらは伸びないだろう。
中学入試を実施している私立中学はぜひ、抽象思考を問うような問題を出してください。小学算数だと難しいんですかね?それなら実施しない方がマシだと思いますよ。学力が上がらないし、推薦で無理やり良い大学に行かせても可哀想だ。
そして小学校教師の方々はぜひ、具体から抽象への昇華過程を重視して勉強教えてあげてください。