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<書評>『近代国家における自由』

 『近代国家における自由Liberty in the Modern State』H・J・ラスキ Harold Joseph Laski著 飯坂良明訳 岩波文庫 1974年 読んだのは1978年版。原著は、1948年 ロンドン

『近代国家における自由』

 ユダヤ系英国人として生まれ、後に労働党の幹部かつマルクス主義者として活動した、政治思想家ハロルド・ラスキの代表作。巻末の解説によれば、「豊富な歴史上の具体的事例と、疑いを容れぬ経験的事実を引証しつつ進められる彼の直截な主張は、西欧デモクラシーの伝統に疎い我々にも、自由の意義と価値とを改めて学ばしめるとともに、政治上の課題に対して新しい視野と観点を示唆するであろう」と書かれている。

 一方、巻末の訳者解説によれば、ラスキは、労働党の思想的指導者及びマルクス主義者として第二次世界大戦前後に活動し、戦前のソ連に対する盲目的な支持を経た後、独裁者スターリンの出現により、ソ連に対する見方を修正した経緯がある。こうしたことから、右派からは不毛な社会主義者、左派からは中途半端な社会主義者として批判されたことが述べられている。そうした背景を象徴するように、本書の後半には、「自由」という名称による、労働組合の活動や左派勢力による反体制運動に対する、マルクス主義者としての強い親近感が表されている。

 ところが、現実の世界を見れば、ラスキが理想的な政治体制と見た共産主義・社会主義国家では、自由を阻害する専制政治(あるいは現代版の君主制)が蔓延し、その結果国民の自由が著しく抑圧されている他、国内外での虐殺や他国への侵略戦争が度々発生している。一方、ラスキが常時批判してきた資本主義国家では、議会制民主主義により多くの自由が保障され、国民は平和な生活を享受している現実がある。その結果、本書で批判の対象とされていた自由を阻害する政府は、資本主義諸国にはなく、ラスキが理想とした共産主義諸国にこそ生じており(従って、ラスキが主張する「政府転覆」を要する)という皮肉が生じている。

 しかし、そうした現実があるものの、左右の政治的立場に関わらずに共通する、根本的な「自由」についてラスキは繰り返し論述しており、それは、我々が「自由」とは何かということを改めて考える上で、大いに参考になるものとなっている。そして、この観点から読むことによって、本書は、今や形骸化したマルクス主義による単純な空想的政治思想を主張した陳腐な書から、一般的かつ基本的な政治社会概念を論述したものに変わることができるだろう。

 ところで、「自由」という言葉と概念は、実は本来日本人に馴染みのある言葉と概念ではなかった。簡単に言えば、明治時代以降もっと正確に言えば第二次世界大戦後に、「自由」が一般の日本人の意識に浸透した。明治の自由民権運動というのを、我々は義務教育の歴史で習い、この時点から日本人の意識に「自由」の概念が認識されたと言われるが、これが真に一般の日本人に浸透するまでには、第二次世界大戦の敗戦と進駐軍=アメリカ政府による強制的な教育改革をまたねばならなかった。

 しかし、そうした「自由」の概念が、正確に日本人の意識に入りこんだかと言えば、それは多くの誤解を伴ったものとなってしまった。例えば、私が子供の頃は、「自由」と聞いて、「なんでも好き勝手にやって良いこと」と理解していた。ある時(小学校の)先生から「自由には責任が伴う」と教えられ、私はその後「自由」の意味を真剣に考えるようになったことがある。しかし、一般の日本人にとって「自由」とは、未だに「なんでも好き勝手にやって良いこと」と理解されているのではないだろうか。

 それでも、「自由にやってください」と言われた場合、小学校低学年などであれば、「自由だから、勉強しないで、いくらでも好き勝手に遊んでいいのだ」と理解して、教室で暴れまわることがあるだろう。もっと卑近な例で言えば、ホテルのブッフェで「自由にお取りください」とあれば、自分が食べきれないほどの量を取って、さらに容器に入れて持ち返るような人を見かけることがある。また、刑期を終えた囚人が、「俺はこれから自由だ!」と言って世間に出た場合、いかに自由であるといっても、再び犯罪行為をする自由はそこにはない。つまり、「自由」とは「好き勝手にやること」ではまったくない。常識や良識をわきまえ、社会のルールやマナーを守って、ある程度の制限を受けながら生活することを、「自由」に生きるという。

 以上は社会的な「自由」についての概念の卑近な例だが、一方本書は、政治的な意味合いでの「自由」とは何かを、(日本人にはなじみのない欧米の)実例を挙げながら、具体的に教えている。またそこには、為政者としての在り方、国民の自由の意識の持ち方や実行の仕方などについて、どのようなものが理想であるのかも教えている。なお本書が書かれたのが、第二次世界大戦直後であったので、そこで想定されている政治状況は、現在のものとは相当に違っているが、歴史的な教訓という視点で見れば、現在でも十分参考になる上に、むしろ歴史的な記録として貴重なものになっていると言えるだろう。

 もっとも、現在進行形で進んでいる現実の世界の政治状況は、ラスキの理想とは程遠い方向に加速度的に進んでいるように見える。それでは、新たなラスキのような思想家の出現が待たれるのか、あるいは「自由」を了解した諸国民が、「自由」をよりよく確立する政体を作り上げることができるのか、それは誰も予想できないとしか私には言えない。

 ところで本書には、多くの示唆される表現があったので、これを以下に紹介したい。ページ数の次の( )は章題である。また、一部に<参考>として、私の見方を付記した。

P.33(緒論)
 原子爆弾を製造するに要する努力について考えるとき、新しい戦争では工場が軍隊の単位であり、かつ、労働者はそれと気づかぬままに軍服を着せられているということは察するに難くない。

P.51(序論)
 自由とは、近代文明の中にあって個人の幸福を保障するに必要な社会的条件に何らかの拘束が加えられないということである。

P.108(序論)
 自らの良心に仕えることによって人は自由人たりうる。そして彼の自由は他人の自由を可能にする一つの条件である。

P.113(精神的自由)
 恐怖によって信念を変えることはできない。かえってそれは、一面、信念を強化し、他面、普段その信念に無関心ですぎたような人々の興味までそそる

P.172(精神的自由)
 国家としては自己保存を当然と考えるであろう。国家としては、暴力手段によらず説得によって国家組織の変革がなされることを当然望む。それゆえにまた国家の存在の根底には、平和と安寧とを維持すべき義務が横たわっていると考えられなければならぬ。してみれば、結社の享受する自由は、国家を転覆させる自由を含むものではないということになるのである。この限りにおいては、これら結社に対する自由の否認は、すべて是認されるのである。

P.176(精神的自由)
 ・・・不平不満はどんなにいわれのないものでも、抑圧で解消できないということである。しかももし過激思想と実力行為との同視を政府のなすに任せるとき、政府の心をそそらぬような愚行は何一つないといっていい。思想の迫害は、増長して止まるところを知らぬ。いずれの社会秩序にも、自己と異なる意見を犯罪とみなす熱烈な狂信的支持者がつきものである。彼らに狂信ぶりを発揮する機会を与えるなら、それは禍いのきわみである。

P.182-183(精神的自由)
 一般に、自分自身の限界は、自分自身を実験台として知るのでなければならない。私は、他人の実験から得られた基準や習慣に、自己の行動を適合させながら一生を送ることはできない。なぜなら、こうした実験の結果は、他人にとってはいかに納得のいくものであっても、それだからといって、私自身にとっては全く納得できないことがあるからである。彼らの生活規則を、私にもあてはめようとする主張することは、通常、私の人格を毀損することに外ならない。それは、命令される筋合いではないのに、他人の命令に従って生きよと私に強制することである。

<参考>
 私は、よく親や先生や上司に言われてきた。「みんながやっているのだから、お前も同じにやれ!」。私は、いつも「自分は自分だ」と反抗していた。私は、他人と同じようには、どうやっても生きられないから。

P.243(自由と社会)
 そもそも、民族とは主観的な観念であって、科学的な用語で定義することは困難である。(中略)これまで民族の要素としてあげられた人種、言語、国家の共通性などは、科学的正確さを裏切る単純化である。(中略)民族とは法律上の原則というよりはむしろ心理的現象であるという事実に変わりはない。それゆえ、民族的要求の解決は、心理的領域でなされるべきものであって、法律の領域ではない

<参考>
 民族とは何かを説明することは極めて難しい。そして、民族ごとに国家を形成するといえば、聞こえは良いが、現実は問題が山積している。結局、合衆国や連邦制、あるいはEUのような緩やかな共同体を形成するしかないのではないか。

P.244(自由と社会)
 民族国家の権力にある制限をほどこす手段が発見されないかぎり、統一民族をただちに国家として認めることは、私的自由の破壊と、国際正義のじゅうりんとも意味するに外ならない。このことを理解するには、第一次大戦中、諸国家が国民の歓呼の中に相互にとり合った行動を想起すれば足りる。

P.246-247(自由と社会)
 一言でいえば、一国家にかぎられぬ共通の問題は、国際社会の一員の意志だけで決定されるべきではない。このような見地から民族が考えられてこそ、文明の要求に合致させることができる。近代科学と近代経済機構はこの世界を、相互依存的な統一にまで引き上げた。おもうに、こうした状態から引き出された結論は、民族的・国家的要求の上に、世界的に共通な必要を置くということである。つまり、ある民族の行為が事の性質上他民族にも関係する場合には、その民族は、自己の行為に対する唯一の判定者となる権利を有しない。その民族は、他の民族と協議し、協定し、平和裏に問題を解決する途を見出せねばならない

 われわれは誰でも、近代世界で、その性格上当然に国際的影響をおよぼすような機能の存在に思いあたる。一つの国が、他の国々にはかなることなく、勝手に自己自身の境界を確定することをわれわれが許して置くような段階は、すでに過ぎ去った。同様のことが、少数民族のとり扱い、軍備の規模、戦争および講和の事柄についてもいえるのである。

<参考>
 国際連盟の失敗を経て成立した国際連合に対する、過度な信頼がここに読み取れる。しかし現実は、国際連合は多くの問題を抱えて苦悩している。ラスキの希望したようなものは、容易に実現できないようである。

P.259(結論)
 そもそも、自由の探求は、寛容の弁護にほかならない。そして、寛容の弁護とは、まさに理性の権利を弁護することなのである。
(中略)
 ところでこの世界は、静止しているものではなく、またそうする術もない。探求、発見、発明、これらはすべてその成果を受け入れようとしない社会の根底を危うくせずにはおかない。それゆえ、寛容はそれ自体望ましいばかりでなく、政治的にもまた賢明だといえよう。

<参考>
 寛容という言葉を私は好きだ。全ての問題・課題について、強硬に主義主張をするよりも相互に寛容しあうことによって、うまく解決すると私は思う。しかし、その寛容を寛容であると理解できる心の自由さを持つことが前提になる。これを持っていない人は、せっかくの寛容を譲歩・負けとしか認識できないのだ。それはとても悲しいことであり、そこに真の「自由」はない。

<私が、アマゾンのキンドル及び紙バージョンで販売している、書評などをまとめたものです。>


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