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<書評>『インド古代説話集--パンチャタントラ――』

 『インド古代説話集--パンチャタントラ――』 松村武雄訳 現代思潮社古典文庫 1977年 初版は1926年に発行された『世界童話大系』であり、これを当時の旧仮名遣い表記のまま復刻したもの。しかし、この旧仮名遣いは、いちおう読めるものの、なかなか読み辛いのがあるのは、現代仮名遣いに慣れてしまったからだろうか。なお、難しい漢字にはルビがふってあるのは助かった。参考のため、表紙画像の外に本文の一部の画像も掲載しておく。

『パンチャタントラ』
『パンチャタントラ本文』

 訳者の紹介によれば、パンチャタントラとは、「五部からなる書」という意味で、ヴィシュニュサルマンというバラモン僧が、マヒラローピャ国の王子啓養(啓蒙)のために表した、とされている古代インドの教訓的物語集であり、その発生は紀元前四世紀から一世紀の間と推定されている。(参考:サンスクリットの「パンチャ」とは「五」という意味なので、「パンチャ」がなまった「ポンチ」、つまり「フルーツ・ポンチ」は、最低五種類以上のフルーツが入ってないとおかしい、と昔大学の講師から聞いた。)

 また、イソップ寓話集(ギリシアの「イソップ物語」)の起源となり、東洋、アフリカにも広がった。『千一夜物語(アラビアンナイト)』や『カンタベリー物語』(イギリス中世の艶笑物語集で、『デカメロン』を模倣したと見られる)などの、小話箱入りの形式(ある話のなかにさらに別の話が入る、一種の入れ子構造)は、パンチャタントラから範を得たものとしている。

 実際、第一巻「朋輩(注:友人・知人)分裂の巻」の第十九話「『正直』と『不正直』」と同じ物語は『アラビアンナイト』の中にもある。これはこのインド起源の物語が『アラビアンナイト』に採用されたものと推定されている。他にも、細かく照合していけば、似た内容のものが沢山見つかるだろうが、ここではその手の調査・研究を目的にしていないし、専門の人に任せるのが良いので、割愛させていただく。

 こうした世界各地に広がった物語の原典と見なされている一方、読んでいくと、話の作り方や語り口などが、洗練されていないことが気になった。もちろん、古い物語であり、しかも原典に忠実に翻訳した(イソップやグリム等の童話は、後世の作家が読み物としての鑑賞に堪えるように改変したもの)だけだから、これは仕方ないのだろう。それでも、細かい事項については、私が物語を創作するときのヒントやネタに使えると思ったが、物語を読むことの快感というのには、少しばかり遠いという印象を持った。

 しかし、その一方で、これを物語としてではなく、神話のように見てみると、それぞれに非常に興味をそそられる部分が散りばめられていた。そうしたものについて、ここに紹介し、私なりの解釈を添付したので、参考になれば幸いである。

1.第四巻「獲得物喪失の巻」の第十一話「命の譲りもの」は、不思議な話だ。それはこんなあらすじになっている。

 妻が死にかかったため、バラモン僧である夫が神に願って、自分の命の半分を妻に与えて生き返らせた。しかし、妻が別の男(しかも不具者:せむし)と不義を働き、夫を殺害しようとする。その後妻は、不具者といるところを不審に思われ、王の前に引き出されるが、自らの不幸を訴えて王から援助を受けることになる。そこへ殺害していたと思っていた夫が出て来たので、妻は王に対して夫を強く非難し、王に殺害を依頼する。しかし夫は、この妻には自分からもらったものがあるのだから、それを返してほしいと王に哀願する。妻は否定するが、強く主張する夫に王は同意して、妻に返すよう命令する。妻は夫からもらったもの―命―を返したため、死んでしまった。

<個人的見解>
 ここには、命のやりとりというテーマの中で、夫と妻という関係、男と女という関係、さらに妻の愛人がなぜか不具者(せむし)という設定に不思議なものを感じる。また、ここにでてくる不具者(せむし)とは、実は宇宙人のことなのではないか、と私は考えている。この前提から推測すれば、最初の女の死というものは、実はUFOに移動させられることを意味しており、それを延期する担保として、不具者(せむし)が女の保証人になったのではないか(そのイメージが、不具者を駕籠に入れて、それを女が頭の上に載せることに表現されていると考える)。つまり、人類の男と宇宙人との間で、女をやりとりした事件を背景にしているのだ。

2.第五巻「細心の吟味(十分な注意)なき行為の巻」第三話「宝探しのバラモン僧(注:宝及びバラモンはいずれも旧字体の漢字表記)」には、不思議なイメージが出てくる。そのあらすじを簡単に紹介する。

 四人のバラモン僧が貧窮して、ある魔術師に懇願したところ、燈心(ろうそく)をそれぞれに渡され、このろうそくを持って、ヒマラヤの山に向かって歩いていき、ろうそくが消えたところを掘れば、宝が見つかると言われる。四人はろうそくを持って歩き出す。一人目のバラモン僧が、ろうそくが消えたところを掘ると銅が見つかった。彼はそれだけで満足して帰ったが、他の三人はもっとよいものが見つかるはずだと、さらに前に進んだ。次に二人目のバラモン僧のろうそくが消えたので、そこを掘ってみたら銀が見つかった。二人目のバラモン僧はこれで満足して帰ったが、残る二人はもっと良いものが見るかるはずだとして、さらに前進した。

 そして、三人目のバラモン僧のろうそくが消えたところを掘ると、ついに金が見つかった。三人目のバラモン僧は、これ以上よいものは見つからないから、一緒に帰ろうと四人目のバラモン僧に言ったが、四人目のバラモン僧は、「銅、銀、金と見つかったのだから、次は宝石が見つかるに違いない」と主張して、さらに前進した。それで、三人目のバラモン僧は、四人目のバラモン僧の帰りを待つことにした。

 四人目のバラモン僧のろうそくが消えたとき、そこには、血だらけになって倒れて動けないでいる男がいて、その男の頭の上には車輪が回っていた。四人目のバラモン僧は、男に「これは一体どうしたというのです」と聞いたところ、その車輪は四人目のバラモン僧の頭に乗り移ってしまった。その男は、長い年月の間、自分が車輪にとりつかれていたこと、次に同じように尋ねる者が来れば、車輪はその者に乗り移ることを教えた。そのうちに、帰りが遅いのを心配した三人目のバラモン僧が、四人目のバラモン僧のところを訪ねてきた。四人目のバラモン僧は理由を語るが、なぜか三人目のバラモン僧には車輪は乗り移らず、四人目のバラモン僧に対して欲張ったことの因果応報を諭して、一人で家路につく。

<個人的見解>
 よくできた物語だと思うが、最後のオチで、なぜか三人目のバラモン僧の頭に車輪が乗り移らないのが不思議だ。そして、この「車輪」とはなんだろう。三人目が四人目の欲の深さをたしなめる結論から考えれば、四人目の持っている過度な欲深さの象徴と読めなくもない。またそうであれば、欲深くない三人目の頭に移転しなかった理由ともなる。しかし、三人目が欲深くないかと言えばそうではなく、銅や銀では満足せずに金を掘り当てたのだから、十分欲深いと言える。いったいこの整合性の無さはなんなのだろう?

 神話学的に解釈すれば、金銀銅までは人が得てもよい物質であり、それ以上の宝石のようなものは人が得てはいけないのかも知れない。しかしそうしたことを、人を動けなくする車輪の回転(しかも出血させている)に象徴するのは、少し思考過程の距離がありすぎように思う。また、科学的に考えれば、「頭の車輪」とは、乗せている人の動きを回転しながら制限する装置であるから、なんらかの磁力線のようなものを車輪から回転することで周囲に発出しており、それで車輪を頭に載せた人の身体を縛めているように思える。そして、その「縛めの縄」がきついため、皮膚から出血しているのではないだろうか。そう考えるとその「縛めの縄」とは、一種の弱いレーザー光線のようなものではないだろうか。

 さらに推論を進めれば、こうした古代人には想像(理解)できないような装置(器具)を使って、人体を支配できる存在は、神=宇宙人しかいない。そして、その四人目のバラモン僧のろうそくが消えた場所は、宇宙人にとって人類に近づいてもらいたくない場所、つまり自分たちの地球に作った一種の秘密基地、あるいはUFOの動力源採集所のようなものだったのではないだろうか。そこは、宇宙人にとっては、金銀銅宝石よりも貴重(重要)な場所(物質)である。

 なお、バラモン僧たちにろうそくを渡す魔術師も、同様に宇宙人であり、人類に対する見せしめとしての、「縛めの縄」に捕らえられた人を必要とするため、金銀銅が見つかるように罠をしかけていた、とみなせなくもない。

3.第十一話「三つの乳房を持つ王女」は、不思議な話である。あらすじを紹介する。

 ある国に三つの乳房を持つ王女が生まれ、将来国王の命を奪うという占いが出たため、国王は盲目の者に持参金とともに嫁がせ、他国へ移らせる。その盲目の者は不具者(またもや、せむし!)に目の代わりをしてもらっていたので、三人は一緒に暮らす。しかし、そのうち王女と不具者とが仲良くなってしまい、王女は盲目の夫を殺害しようとする。王女は、不具者が取ってきた蛇を魚と偽って料理し、これを盲目の夫に食べさせようとしたところ、鍋から立ち昇った調理した蛇の湯気が、偶然盲目の夫の目に入った。すると、夫の目は突然見えるようになる。鍋の中に蛇があることから、王女が自分を殺そうとしたことを知った夫は、知らない振りをすることにした。しかし、そこへ戻ってきた不具者と王女が抱き合っているのを見て(盲目のときは見えなかったのだが)嫉妬し、二人を強く押し倒した。すると、王女の三つ目の乳房がつぶれてなくなり、不具者(せむし)の背が伸びて普通の状態になった。

<個人的見解>
 ここで面白いのは、まず殺害されようとしていた盲目の者が、殺害物質(蛇の毒)によって盲目が治療されるということである。これは、ストーリー展開としては理解できるものだが、次に、逆上した夫によって殺害されそうになった王女と不具者が、夫の暴力によって自分たちの身体異常が治ってしまったというオチは、理解しづらい上に、何か無理矢理に後付けをした印象を強く受ける。さらに、異様なほどのハピーエンドにしていることに、違和感を覚える。おそらく元々は、夫が王女と不具者に復讐(殺害)して終わるものだったのだろう。しかし、王女の話ということもあり、高貴な身分の者を殺すという結末にすることは、階級社会の常識からは非常に憚れるため、後世にこのような付け足しをしたのではないだろうか。そういう観点からは、この話は元々の古い物語を再構成したものだと、私は考えている。

 そして、不具者の「せむし」である。「せむし」は、一般的に見て女性から好まれるような外見ではないが、そうした者が、なぜ王女のような高貴な身分を含めて、物語の登場する女性から好まれる対象になっているのだろうか。その理由は、この「せむし」が通常の人類ではないからだと、私は考える。彼らは、背中に地球上で使用する生命維持装置を背負っていた、「せむし」のような形態をした異星人なのだ。そして、この異星人は、キリスト教社会では「天使」(背中の生命維持装置を、鳥の羽根のように見た)と称されたグループではないだろうか。旧約聖書には、天使と人類の女との婚姻が記載されている(創世記第六章1-2「人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生まれた時、神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。」)。インド神話にも同様にものがあることが、ここに現れているのだと。私は理解している。

 なお、この神の子=天使と人の娘との間に生まれたネフェリムは、3mほどあった巨人(ギリシア神話のギガンテスあるいは巨人伝説の巨人)であり、地上で数々の横暴をしたため、神はリセットする(絶滅させる)ことを目的に大洪水を起こした、と旧約聖書に書かれている。その時神は、人類の祖先であるノアに「洪水に備えるように」と事前に伝えていたという(「ノアの方舟」)神話につながっていく。

 この観点からさらに考察すれば、この王女が(ネフェリムを生む前提となる)「せむし」と仲良くなる物語は、後の洪水神話につながるものではないかと、私は類推している。

<私がアマゾンで販売している、エッセイ・書評・ラジオドラマ・翻訳などをまとめたものです。宜しくお願いします。>


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