<書(漫画)評>「ヒットラー」水木しげる
書評というより漫画(劇画)評になるのだと思う。水木しげる「ヒットラー」の全体の印象は、チャーリー・チャプリンの映画「独裁者」を見ているような感じがした。
アドルフ・ヒットラーという、オーストリア生まれのドイツ人で、典型的な誇大妄想を抱えた偏執狂的精神病者で、平和な時代であれば、一介の生活破綻者として社会の底辺に葬られていた者が、第一次大戦後のヨーロッパという異常な時代に生まれたため、時代がドイツが、彼の狂気と戦争遂行のためだけの情熱を必要としたのだろう。
そうした背景が、良く描かれている。そして、戦争体験者である水木しげるは、常に戦争自体を憎む視点を変えることはない。さらに、この異様な時代が生んだ異端児が、なぜ政治家や大衆にひどく利用されたのかをきちんと説明している。
それは、ゲッペルスによって作り上げられた偶像(アイドル)であり、また大衆が好むポピュリズムを巧妙に演説する芸能人(タレント)であったのが、ヒットラー自身であり、また同時に「ヒットラー」という作り上げられたイメージだった。
例えば映画の役割を演じる俳優のように、自らの役割を演じ続け、さらにドイツ国民を含む周囲の人々まで巻き込んで、劇中人物に同化する精神異常者(魂を奪われた者)となった。そして、最後にはその役割に相応しい死を選択した(演じる役柄に命を取られた)のが、ヒットラーであったのだ。
そう考えると、いつの時代でもヒットラーは出現するし、大衆はアイドルとしての「ヒットラー」を常に求め続ける。この世に「ヒットラー」を二度と出現させないためには、政治家が成熟することや政治家を批判することではない。「大衆」という存在がなくなるか、「大衆」が「アイドル」を求めなくなるかのいずれかだろう。
話題は変わる。また、既に書評というものから、社会思想論の世界に入っているので、脱線ついでにさらに脱線したい。
COVID19という、人類が長い時間をかけて共生の道を探ってきた感染症の一部に対して、それに対する適切でない選択肢を常時強行したことにより、人類が近代以降に苦心して築き上げた経済社会が危機に瀕している。
そして、なぜか宇宙からは、火球が頻繁に地球へ落下している。人類の歴史が示すとおり、大きな時代の変革期には宇宙からの訪問者(隕石や火球)が多く見られる。文字を持たなかった時代から、人類はこうした事象と人間社会の事象を同時に記録してきた。
同時代に生きる我々は、時代の証言者あるいは記録者(はたまた預言者)として、未来の人類、あるいは現生人類にとって代わる生命体に、何か貴重な記録を残すのだろうか。その回答は、もしかすると恐竜の遺骨に書かれているのかもしれない。