<書評>ダンテ『神曲』
いきなり下世話な話題になるが、ネットで「神曲」や「ダンテ」を検索すると、日本のポピュラー音楽やアニメにある同名のものが、一番多くヒットする。私の脳裏では、「ダンテ」及び「神曲」と言ったら、今から書評を書こうとしている世界文学史上及び思想史上の記念碑的な人類の遺産である叙事詩しかありえないが、世間一般では(少なくともネットの検索の世界では)、検索する人があまりいないワードになっているようだ・・・。
この偉大な作品はまた、ダンテが記した当時のトスカーナ方言が現代イタリア語の基礎になった他、ダンテが描いた特に地獄の情景は、多くの芸術家のインスピレーションを刺激した上に、地獄の現在まで続くイメージを作り上げた。さらに、ルネサンスの始まりを告げた偉大な知識人として、ダンテ・アリギエリの名は永遠に語りつがれている。
一方、どんな作品(例えば聖書、クアラーン、仏教経典)でも批評はアンタッチャブルということはない。それが芸術作品・文学作品である限りにおいては、読む人それぞれによって、感じることや考えることがある。そうした個人的な批評は、もちろん普遍的なものになる可能性は低いだろうが、それでも、マイナーな意見として存在する意味はあると思う。
以上のように、偉大な作品について批評を書くことに対して、ちょっと大げさな気持ちになっているが、一方では、横丁のご隠居が講釈するような、アマチュア的軽さ(適当さ)で、『神曲』という、エベレストのような高峰を眺めてみたい。
1.地獄篇
『神曲』の面白さは、誰もが言うように「地獄篇」にある。この地獄の描写によって、『神曲』のパワーは生まれ、続く「煉獄篇」、「天国篇」まで読ませる源泉となっている。
その地獄のイメージは、まるでダンテが実際にそこへ行って見てきたように(文中でも、文学的技法ではあるが、「見てきたとおりを記録した」とダンテは書いている)、具体的で迫真性に富むものとなっている。文学的技法を考慮しなければ、ダンテが本当に地獄へ行って帰ってきたのではないかと思ってしまうくらいだ。・・・もしかしたら、本当かも知れないが。
ところで、もし地獄が普遍的な世界であるならば、そこにいる罪人は、当時のイタリアを中心とした世界以外からの住人もたくさんいなければならない。しかし、そこで苦悶している亡者たちは、キリスト教カソリックの世界と、ダンテが生きたトスカーナ=フィレンツェの世界と歴史を忠実に反映していて、対象をかなり狭いものに限定している(当然、ダンテは自分の住んでいる世界以外の、例えばアラブやインドにおける罪人を全て承知していないから、仕方ないことかも知れないが)。また、その亡者の罪状とそれに対する苦役=懲罰の選択も、ダンテの主観と個人的怨恨を強烈に反映した、かなり自己中心的なものになっている(例えは、イスラムに対する否定のため、マホメットなどが酷い刑罰を受けている)。
そもそも、歴史上の人物の正邪については、様々な見方が可能である上に、その後の多様な研究による成果を待つしかなく、一介の詩人(ダンテ)が自由自在に決められるものではない。しかし、詩人だからこそ、そして詩の世界だからこそ、現実の人間をモデルにしたイメージを自由に描くことができる上に、そうした行為は詩作の重要な要素でもある。
たとえば食人で有名なウゴリーノ伯爵のケースは、現代の遺骨のDNA鑑定結果及び(食人をしたとされる)牢屋への入獄時に70代という高齢を考えれば、とても子や孫の死体を食べられるほどの歯を持っていたとはとは言えず、またDNA鑑定結果もカニバリズムの痕跡はないということだ。
つまり、ウゴリーノ伯爵のカニバリズムというイメージは、ダンテが勝手に想像して作り出したものであり、なんら根拠のある正確な事実ではない。しかし、この『神曲』におけるウゴリーノ伯爵のイメージが、その非常に印象的な描写が長年にわたって定着した結果、多くの芸術家に与えた影響は計り知れないものとなった。このこと自体は、芸術創造という観点からは、例え歴史の誤認というマイナス点があるとしても、ダンテの一種の功績として高く評価すべきものではないだろうか。
2.煉獄篇
地獄篇の阿鼻叫喚のグロテスクかつ刺激的な描写とは打って変わり、煉獄篇全体を貫くトーンは、最後の地上の楽園(エデンの園)にダンテが至るまでの、煉獄山を廻る自然の風光美にあると思う。
もちろん、地獄へ行かずに済んだとはいえ、罪業のある亡者たちが浄罪(ダンテもその一人となっている)という中心テーマがある。しかし、煉獄全体を包むイメージは、たとえ非常に険しい行動を強いるとしても、現実世界にある自然の力強さと美しさが反映されている。
ダンテに言わせれば、その自然の美しさと力強さの素は、もちろんキリスト教カソリックの神であるのだが、ダンテの描写から零れ落ちる自然への大きな感動からは、実はキリスト教カソリックの神以上の大きなものを、本当は感じていたのではないかと思ってしまうのだ。
その神以上に大きな力とは、煉獄から天国へ導いてくれるベアトリーチェに象徴される女性原理=生命の根源としての母性であり、それゆえに、超人的な存在であるのにも関わらず、煉獄までの導人=先達であるウェルギリウスは、男性であるがために天国へダンテを導いていくことができなかったのだと推測している(キリスト教カソリックの理屈では、ウェルギリウスはキリスト教成立以前の人間であるため、天国に行けないとされる)。
このウェルギリウスからベアトリーチェへのバトンタッチは、多くの評論家がいたく感動する感傷的な名場面であるが、その理由は、いうなればダンテの「歌の別れ」、つまり少年から大人になる(少年時の男の子同士のつきあいから、大人として成人女性とつきあうことに成長する)ことが重複したイメージとして、その背景にあるのではないだろうか。
3.天国篇
天国篇は、多くの評論家が「哲学的すぎる」、「物語としての面白みに欠ける」ことを指摘している。たしかに、ベアトリーチェやベルナールとダンテが交わす一種の禅問答は、古代ギリシアから続く思想表現の原点ではあるが、それまでの地獄篇と煉獄篇が物語としての面白さを多く持っていたのの対して、読者は急についていけなくなってしまうこともやむを得ないだろう。
しかし、ダンテがもっとも主張したかったのは、まさにこの天国篇でベアトリーチェやベルナールの口を借りて述べられることであり、これを軽視しては、『神曲』そのものを本当に理解した=読んだとは言えないと思う。
そうはいっても、天国篇は地獄篇や煉獄篇に比べて、ドラマチックな要素に欠けており、さらにスペクタクルな要素やビジュアルな要素においても、ただまばゆい光が輝くということが延々と繰り返されるため、読者としてはまったく迫力に欠く上に、わくわくするような高揚感(宗教的な法悦はあるのだろうが)はない。
だから、地獄篇がエンターテイメントとしても最高に面白く(そのまま映画にしたら、大ヒットするような奇想天外な描写が続く)あったのに対して、煉獄篇からはそうした力強さがどんどんと下降していき、ついに天国篇ではなくなってしまうのだから、物語の構成としてはベクトルが逆になってしまっていることは否めない。しかし、『神曲』全体を「物語」=エンターテイメントとして見るというのは、ダンテの意志に反する読み方であって、本当はキリスト教カソリックを賛美するため(そして、最後まで生臭かったダンテにとってのフィレンツェ及びその政治家・宗教家への怨嗟のはけ口として)の叙事詩というのが、やはり正しい見方なのだと思う。だから、天国篇がつまらなくても、それは仕方ないのだ。
最後に、一言。これは現代風の視点ということになってしまうが、地獄でも天国でも、生前の行いによって細かい序列が決まっているのは、何か釈然としないものがある。特に天国では、生前の行いによっているべき場所が決まっており、さらにそれらに歴然とした序列がある。本当の天国であれば、こうした生臭い序列はいらないし、また生前の行いで序列が下になるのであれば、奮起して上に上がる方法(つまりやり直し、リカバリー)がなければ極めて不公平だと思う。
私の考える天国は、いや理想とする天国は、全ての人が皆平等で同じように暮らしており、さらに、その人の行った努力がそのまま正比例して実るようなものであって欲しいと思っている。なぜなら、現実の社会は、努力が必ずしも正当に報われないことを、40年間サラリーマンをして痛いくらいに思い知らされたから。でも、そういう観点で読んでしまうのは、私もダンテ同様に、自分が生きている環境や政治にまだまだ生臭い憤りを持っているからかも知れない。