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<閑話休題>断捨離と清貧

 定年後、少ない年金で暮らすために生活レベルを落としている。私は、もともと貧乏家庭の生まれだったから、子供時代に戻る感覚でいるが、そうでない妻は大変そうだ。それで、妻には多くを求めていないが、少なくとも私だけは、仕事をしているときのような金使いを全て止めている。

 まず、人付き合いをしない。冠婚葬祭は失礼させてもらっている。もちろん、お年玉・入学祝い・出産祝い・卒業祝いなどもしない。外で食事をする回数は激減した上に、高級レストランには行かない。せいぜい居酒屋か立ち食い蕎麦屋にいくぐらいだ。タクシーも使わない。そして、徒歩・自転車・バス・電車だけで、東京の生活はまったく困らない。

 娯楽も控えている。家に昔購入した本が沢山あるので、これを全て精読し、また再読するだけでも5年近くはかかる。その他の雑誌や本は購入せずに、近くの図書館で読む。音楽CDや映画DVD等は買わない。好きなラグビーの試合も観戦に行かない。好きなクラシックコンサートも、有名な音楽家やオーケストラは高いので、たまに若手が出る格安のものを見つけて行くぐらいだ。そして、日曜夜NHKのクラシック音楽の時間で十分だ。もちろん、映画館や劇場などは、そもそも最近の映画で観たいものはないし、演劇はさらに縁遠い。

 日々の買い物も、以前は金額をあまり気にせずに銘柄で選んでいたが、今はスーパーで安い品物を選ぶ。そして、必要最低限なものしか買わない。酒も、以前はビール一缶を毎日飲んでいたが、今は安いワインや日本酒をオンザロックにしてちびちびやっている。食事も一汁一菜的にしか摂らないし、昼は妻がいるときはおにぎり一個で、自分で作るときはもりそばを食べる。朝は、納豆ご飯か食パンだ。また朝にインスタントコーヒーを濃い目に作り、マグカップの2/3になったあたりでお湯を足して薄めることを繰り返し、昼まで何杯も飲んでいる。急須でお茶を淹れるのと同じもので、最後は出がらし同様の色がついただけのお湯になっているが、それが逆に健康には良い。

 電気やガスも必要最低限にしているが、それでも冬や夏は多く使うので自ずと高騰してしまう。しかし、これは健康にかかわるので、あまり切り詰めるわけにはいかないと思っている。

 こういう生活を二年していたら、私はもともと若い頃から高級志向とかファッションにこだわることはなかったのが、最近は、高級レストランで食事するとか、高級ブランドの服を着るとか、贅沢な旅行をするとかはまったく気にならなくなった。他人がそれをしていても、ちっとも羨ましいとも思わなくなった。車は、父が運転手で苦労していたこともあって、もともと自分の趣味ではなかったので、高級車に乗りたいという気持ちはさらさらないし、運転をして気分転換しようということもない。

 家も、もともとウサギならぬ鼠小屋で生活していたから、小さな部屋の生活に慣れている。そして、もし豪邸に住んでも掃除や維持が大変だから、(掃除人を雇うのでない限り)今のマンションで十分だ。要するに、自分で掃除や維持ができない広さの家に、わざわざ住みたいとは思えないのだ。もちろん、ブランドものや貴金属・高級腕時計などの贅沢品も、少しも良いとは思えないし、それに特別な価値があるとも思っていない。そもそも今の生活に全く不要なものだから、そうしたモノがあることの意味がわからなくなっているくらいだ。

 私は、今のこうした生活を自慢する気持ちはさらさらない。しかし、世間ではこうしたことを「断捨離」とか「清貧」とか称して、何か特別良いことのように言うようだが、私自身は何か特別に良いことをしているつもりは全くない。ただ、漠然と自分の身の程に合わせた生活をしているうちに、「断捨離」とか「清貧」と言われるような生活に自ずと馴染んでいったという感じだ。

 私としては、さらにこの生活を先に進めて、霞を食べる仙人のようになれたら素晴らしいと思っているが、さすがにそれは無理なようだ。食欲はしっかりあるから、毎日のご飯をきちんと食べるし、お腹もすく。安酒とは言え、相撲があるときはTV中継を見ながらちびちび飲むのは止められない。つまみが欲しくなったら、柿の種かメザシを食べている。それは「断捨離」も「清貧」も関係ない光景だし、日本のどこにもあるような年寄りの風景だろう。そう、私は死ぬまで煩悩と共にいるのだ。それもまた、一興。

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