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<書評>『古代ユダヤ教』

 『古代ユダヤ教 Das Antike Judentum Gesammelte Aufsatze zur Religionssoziologie 副題は「宗教社会学に関するエッセイを集めたもの」(注:この「エッセイ」は、日本で通常理解されている「雑文」「散文」といったものではなく、「論文」という意味で使用している。)』全二巻 マックス・ウェーバー Max Weber著 内田芳明訳 みすず書房 1962年初版 読了したのは1979年版 原著は、1921年チュービンゲン(ドイツ)Tubingenで発行

『古代ユダヤ教』

 全二巻の大著である。そして、上巻の冒頭に、訳者による長い序文がついている。もちろん、あとがきもそのまま論文として使えるほど詳しい。それだけ訳者が力を入れてウェーバーを研究していることの証明であり、またウェーバーを高く評価している証拠である。

 ウェーバーには、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という有名な著作があり、これは岩波文庫で購入済みなので、これから読む予定だが、『古代ユダヤ教』の訳者によれば、『古代ユダヤ教』の方がウェーバーの作品としては最上であると述べている。

 本書を簡単に紹介すれば、「二十世紀初頭を代表する歴史宗教学者による、古代ユダヤ教について研究したもの」となる。古代ユダヤ教というのは日本人には馴染みのない概念だが、ヨーロッパ人にとっては、ギリシア・ローマの文化・哲学と同様に自分たちのオリジナリティー(根源)につながる宗教思想であり、またのちにキリスト教とイスラム教が出現する原典となる宗教でもある。

 そのため、古代ユダヤ教を研究することは、そのまま人類の思想史・宗教史の研究となり、さらにその成果は哲学へも大きな影響を持つものとなる。本書は、そうした成果を高く評価され、今や人類の知的財産としての素晴らしい古典となっている著作である。

 このような前提を持って読み始めた私だが、読了した後に本書に対する以下のような感想を得たので、これを箇条書きにして紹介したい

1.古代ユダヤ教には、メソポタミア及びエジプトの影響が濃いこと。特に王が民を労わることは、メソポタミア及びエジプトにもともとあった考えであった。
2.民は、ヤハウェに対して王や貴族の不当行為を訴えることができ、またヤハウェは、不当行為を行った王や貴族を罰してくれると信じられていたため、上記1.の王や貴族が民を労わる行為が担保されていた。

3.祭祀階級はユダヤ人の集団に原初からいたのではなく、レビ人と言われる旅人の集団が最初だった。
4.ヤハウェは、都市住民が農村住民を兵隊として雇用する際の、軍神的なものとしてあったため、他の地域の神概念とは異なり、(戦勝を約束する)契約概念としての神であった。また、戦場に持参した契約の箱は、ヤハウェとの契約書を入れたものであったらしい。

5.モーセの十戒以前に、多くの倫理的規則が存在し、それらは、メソポタミアやエジプトからもたらされたものであった。その後祭祀階級が自らの正統性を担保するために、モーセの十戒を修正してこれを利用したが、これはイスラエルだけにある独自のものであった。
6.予言者たちは、超現実的な彼岸思考(天国の存在など)をせずに、現実的な此岸思考をしていた。また、占星術などは用いていなかった。

7.ユダヤ人のゲットーと呼ばれる独自の隔離した暮らしは、他から強制されたものではなく、自分たちの厳しい戒律を維持するために、自ら行ったものだった。
8.キリスト教の無抵抗主義(汝の隣人を愛せ等)は、ユダヤ人がバビロン捕囚時に成立したものの延長であった。

9.一般に原始キリスト教の一派とされる、死海文書を残したエッセネ派は、ユダヤ教ともキリスト教とも異なり、むしろペルシア系及びヘレニズム系の影響が濃い集団だった。
10.ギリシア人は、自らの文化が没落した後に、かつての栄光を支えたものをユダヤ教の厳しい戒律に見出し、親近感を持った。

 そして、上記箇条書きを補足するための、参考となる箇所を抜粋して紹介したい。なお、原文では「ヤハウェ」の「ハ」を小文字にしているが、現在の一般的表記にならって「ヤハウェ」とした。また、漢字表記ではなくひらがな表記にしている箇所が多数あるが、そのまま記述した。さらに、固有名詞などについて理解しやすいように(注)を付記した。これは原文にはないものであり、私の知識から付けたものであることをお断りする。

<上巻>
(注:旧約聖書の各項目名の次の( )の数字は、その該当箇所を示す。例えば、イザヤ(5の14)は、イザヤ書の5章14項の意味。)また、項目によっては<個人的見解>として、私なりの理解や解説を付けた。参考になれば幸いである。

P.139
 イスラエルの誓約共同体それ自身にかんしていえば、これは、明白な伝説にしたがえば、連合Bundの戦争神であるヤハウェとの間にむすばれた、そしてヤハウェの指導下におこなわれた、ひとつの軍事同盟であったのであって、このヤハウェは、かれの社会的諸組織の保証人であるばかりでなく、誓約団体員の物質的繁栄、なかづくそのために必要な雨、の創造者なのであった。

P.145
 最初の王たちですら、いまだに法の担い手として、いわんや法の創造者として、第一に考えられていないのであり、むしろ軍事的指導者として考えられていたのである。・・・司法を組織的に掌握したのは明らかにソロモンが最初である(列王記上3の16以下)。げんにソロモンの治世にソロモンがひとつの裁判所を建てたことがのべられている(列王記7の7)。後世がソロモンを裁判の知恵の源と考えたのはこの改革のためであると推量される。

P.195―196
 この神(注:ヤハウェ)は、名をモーセから問われると、伝説の編纂によれば、身をかくしたまま、語源学的なことばの洒落で《われはあってあるものだ》と答える。がその場合たぶんイスラエルの名でない「ヤハウェ」と名づけられる。・・・「モーセ」ということばは「ピネハス」と同じくエジプトの名であり、伝説では、「クシびと」であるかれの妻ゆえにアロンとミリアムから非難されている。・・・これはのちになってもなお、ヤハウェとその祭司が、まったく、またはなかば、外国からきたものと考えられていた、ということの知識が、それらの大氏族層の間に存続していることをしめすのである。

P.218
 がんらいヤハウェによって戦士同盟に課せられた倫理的諸命令は、いまだきわめて原始的かつ野蛮であったかもしれない(それは今日ではもはや確実に決定することができない)、――それにもかかわらず上述のような意味においてヤハウェは、むしろ不可避的に、他の神々とは比較にならぬほどに、儀礼的ならびに社会倫理的日常規範という一定の命令の履行に対して、いちじるしく「熱心なる」神であった。

P.229
 生涯においてこれと鮮やかに認めうるように祝福を神からあたえられた一人の人間の名は、のちの子孫での使うことのできる「祝福のことば」にまでなることができる。きみの名をこのような祝福のことばにしてあげる、というのが、アブラハム(注:ユダヤ民族の始祖)がヤハウェからあたえられた最高の約束なのである。というのは、のちに修正されたことばであるが(創世記18の18:22の18:26の4:28の14)唯一の古い(ヤハウェストの)編集(創世記12の2・3)のなかでは、アブラハムの名は「祝福のことば」となるであろうということ、将来かならず《地上のあらゆる種族はきみの名によって祝福されるようになるだろう》、ということが書かれているからである。

 そのことは、それじしんとしてはただ、アブラハムじしんやその所有が世界に知れわたり、祝福ある生涯を送るであろう、ということを意味したにすぎない。「救世主的」な意味はおよそいっさいふくまれていなかった。名のこの価値のために、そして名がイスラエルに消え去らないように、ひとびとは子孫が大いにふえひろがることを熱望したのである(申命記25の6・7・10:ルツ記4の5・10:サムエル記上24の21:サムエル記下14の7)。

P.254
 「ヤハウェの箱」は、とくにエドウアルト マイヤーが仮定するごとく、がんらい一種の呪物の箱、したがってエジプト起源の呪物の箱、であったかどうか、あるいはディベリウスM.Dibeliusがより実らしく論証したように、箱の形をした天の王座のごときもの、つまり前イスラエル・パレスティナ起源のもの、であったかどうか、それが一つの箱であるとして、がんらいはおそらくルーネン文字(注:ルーン文字。古代ゲルマン人が占術等に使用した)のきざまれた聖石がそのなかにあったかどうか、あるいは――シュパルリィがイスラムの一つの陣営聖所(Machmal)との比較によって想定するようにひとが魔術によって神をそのなかによびよせたところの一つの空箱のごときもので最初からあったかどうか、これらの点はおそらく決して確定されないであろう。

 がいずれにせよディベリウスが最古の報告史料(民数記10の35・36、これとの関連で、サムエル記上1の10:4の4、及びエレミヤの素描3の16)からきわめて実らしくしたことは、それは、ペリシテ(注:古代ユダヤで敵対していた部族)に対する解放戦争の時代には、刻み目の模様に装飾された一種の座席であったと考えられ、その上に目には見えないがヤハウェが座し、戦が緊迫するとこの座席を車にのせて戦場に運んだのだとおもわれる、というのである。

<個人的見解>
 「古代の宇宙人説」によれば、この現在は所在不明となっている「契約の箱」は、宇宙人が古代人に与えた、宇宙人との通信装置兼強力な武器であったのではないかと、推定している。実際、至聖所の奥で特定のラビが交信しているのが聞こえたということや、戦場へ常に持参していたという記録が残されている。また、「契約の箱」を安置するべくソロモンの神殿が建立されたが、その至聖所にある「契約の箱」を、シバの女王がエルサレムを訪問した際に、エチオピアへ密かに持ち帰り、現在もエチオピアの古い部外者の侵入を認めないキリスト教会に安置されているという。

P.257
 ヤハウェとバール(注:パレスチナ地域にあった自然崇拝の原始的宗教の神)とが密接に混淆するにつれて、沃地の偶像礼拝が北イスラエルのヤハウェ礼拝のなかへと侵入したときに、ヤハウェは、とくに牡牛として、したがってむろん農耕民の多産の神として、あらわされた。王ヤラベアム――かれは一つのヤハウェの名をもっており、また一人のヤハウェ予言者をじぶんの味方にもっていた――が、エルサレムからの解放の目的で、北イスラエルの二、三のヤハウェ聖所に金箔の牡牛の像を建てた、ということは王ヤラベアムの功績にかぞえられた。

<個人的見解>
 古代地中海世界では、牡牛が神として崇拝されていたことが広く確認されている(エジプトの牛のための棺、クレタ島のクノッソス宮殿の壁絵、闘牛の歴史等)。そのため、人と契約行為を結ぶ極めて人間的なヤハウェが、牡牛の姿として表現されていたことは、ヤハウェの非人間化=より強固な神格化であったと思われる。なお、キリスト教布教の際、邪悪な偶像崇拝の例として牡牛の像を挙げているのは、こうした事例からだと思われる。

P.328
 さてイスラエル人が捕囚前に共通にもっていた、そしてかれらにかような問題提起(注:世界事象について驚嘆する能力とその事象の意味を問うこと)の機縁をあたえた、出来事がなんであったかといえば、それは、偉大な解放戦争と王国の成立、賦役国家及び都市定住文化の成立、諸大国による威嚇、しかしなかんずく北王国の崩壊と、そして、忘れることができない栄光の最後の名残である南王国の、すべての者がしかと目撃せる同一の運命、であった。それから捕囚(注:紀元前六世紀末のネブカドネザル王による労働者としての多数のユダヤ人をバビロンに捕囚した事案)である。

P.354
 ヤハウェは、ひとびとが瞑想によって神秘的合一をとげうるような神ではぜんぜんなかったのであり、むしろそれに対して人が服従せねばならなかったところの、超人間的にして、しかも理解せられうる人格的主権者であったのである。ヤハウェは、ひとが守られねばならぬヤハウェの積極的命令をもっていた。ひとはヤハウェの救済の意図を、かれの怒りの理由やかれの恩恵の諸条件を、あたかも大王のばあいとおなじように、探求することができた。

P.358
 ヤハウェ主義的な宗教にとっては、宇宙発生論的及び人類発生論的神話が徹頭徹尾第二義的意義しかもたなかった、ということをおそらくなによりも雄弁に物語っているのは、最初の二人の原人のいわゆる「堕罪」という神話(注:アダムとイブの楽園追放)について、それがこんにちのわれわれの観念では非常に基礎的な神話であるにもかかわらず、この神話を指し示す暗示が(聖書の他の箇所に)ほとんどまったく欠如しているという事実である。この神話は、旧約文学中のどこにも、救済論的になんらかの意義をもち、イスラエルもしくは人間に対するヤハウェの態度にとって総じて決定的に重要な、そういう事件とはならなかったのである。

<個人的見解>
 この新約聖書の世界における原罪を償うため、イエスが身代わりとして磔刑になったというのが、キリスト教の基本概念である。つまり、人は生まれながらに罪(原罪)を負っているので、生涯かけてこの罪を償う(贖罪)しなければならないとしている。しかし、そうした考えは、ユダヤ教にはなかったのだ。なおこれを落語風に表現すれば、「そもそもそんな大昔の罪を言われても、俺には関係ねえし、別にお前(イエス)に身代わりになってくれと頼んだ覚えはねえ」となる。

P.377
 すでにミカ(注:予言者)においてさえ、十戒(注:モーセが神から授けられた、殺人・姦通・盗みなどを禁ずるユダヤ民族に対する十か条の倫理。)が全然知らない心術倫理的な要求があらわれているのである。たとえば神に対する謙遜とならなんで、「愛」をおこなうこと(ホセア書6の8)を強調しているのがそれである。以上要するに、予言者は、いわゆる「モーセ」の十戒なるものについては、なにも知っていない。おそらく総じてそのようなものを全然しらなかったかもしれない。

 これらすべてのことからして、倫理的十戒の成立年代が若い(新しい)ということ、そしてそれは純教育的目的のために作成されたのであるということ、これらのわれわれの仮定が裏書されるようにおもわれる。しかしだからといって、捕囚後の時代に引きさげることは、(当然のことながら)性的十戒や祭儀的十戒についてばかりでなく、倫理的十戒についても、あたらないようにおもわれる。

P.400
 イスラエルの倫理は、個々の点ではきわめて類似するところがあるにもかかわらず、一つの重要な観点においては、エジプトのまたおなじくメソポタミアの倫理と対照的であった。すなわちそれは、比較的に広汎な合理的組織化の点においてである。・・・エジプトには教訓的な処世知や密議的な死者の書は存在し、またバビロニアには、倫理的な構成要素をふくんでいる、魔術的効果を発する讃美歌や儀礼書の集成は存在したが、それらとならんでそのかたわらには、捕囚期前のイスラエルのすでに存在していたような統一的に総括された宗教的に基礎づけられた倫理というものは、われわれの知りうるかぎりまったく存在しなかった。

<下巻>
P.485(注:ページの数字は、上巻からの通し番号))

 (注:ユダヤ教の)予言者は苦悩から、あるいは罪の奴隷状態からさえ脱却していると感じている者は一人もいない。神秘的結合一 unio mystica とか、あるいは仏教の阿羅漢にみられる魂の湖のごとき内的静かさとか、そういうものに対する余地は予言者には全然存在しない。およそかかるものは存在しなかったし、さらには形而上学的グノーシス(注:キリスト教の異端派とされた神秘的思想)とかその世界解釈はとかいうものはまったく問題にならなかった。というわけは、ヤハウェの本質は、これを理解したり把握したりすることのできない彼岸に存在しているなにものかである、という意味での超感覚的なるものを一切含んでいなかったからである。

P.489
 黄泉の影の国は、バビロニア人とまったく同様に捕囚前のすべての予言者にとっては、死者が必ず滞留せねばならぬ場所だと考えられた。死ぬことはそれじしんとしては悪だと考えられ、思いもうけぬ不自然の早死は神の怒りのしるしだと考えられた。シェオール〔黄泉〕はイザヤ(5の14)によればその口を大きく開けている、そしてシェオールから救われることは、ホセア(13の14)が述べているように、或種の「地獄」から救われることを別に意味するわけではなくて、むしろ端的にいえば肉体の死から救われることになるのである。
 
 予言者の思惟の次元は、この点ではバビロニアの公式のそれと同じく、完全に此岸的であるに留まり、徹底的に彼岸的約束をもって活動したギリシアの諸密議教やオルフィック宗教(注:いずれも冥界と現世とを行き来することが表現されている)とは非常にことなるものであった。

P.540の原注(1)
 儀礼的に厳正なユダヤ人は、食事の規定があるおかげで、なるほど一般的にいえば非ユダヤ人を客として厚遇することをためらわなかったといえるが、しかし〔逆に〕ユダヤ人の方が異教人やキリスト教たちから客として厚遇をうけることを拒否した。これはキリスト者の品位を害するものだとしてフランクの宗教会議はこれに熱心に反対し、そしてかれらとしても、ユダヤ人から客として厚遇されることを拒否するように、キリスト者に厳命している。

P.553-554
 ある神がその選んだ民族をただに敵に対して保護しないばかりか、むしろ侮辱と奴隷の運命におちるのをゆるし、まさに空前のパラドクシー(注:論理的矛盾)なのであって、かかることは史上他に類をみない現象であり、予言者の告知がもった強力な威信いがいによっては説明がつかないことなのである。

 この威信は、すでにみたように、純外面的には予言者の特定の予言が適中したということにもとづいた、いやもっと正確に言えば、特定の出来事が予言の成就として解釈されたということにもとづいた。ほなならぬバビロン捕囚教団のただなかでこの威信が固定化されていくのがはっきり認められるのである。

P.572
 無抵抗というこの特別に悲惨主義的な倫理は山上の垂訓のなかに再生した、そして罪なくして拷問を受ける神のしもべの犠牲の死という思想はキリスト論を分娩するのを助けた。むろんそれはこの思想だけの所産ではなく、むしろ、ダニエル書の人の子という説にみられるような後の黙示文学やそのほかの神話的叙述との結合において生じたのではある。しかしながらなんといってもあの十字架上のことば、《わが神、わが神、なぜわたしを棄て給うのか》(注:イエスが磔刑された時に述べた言葉)、は詩篇二十二篇の最初にあることばであるが、これは始めから終わりまで第二イザヤ書の悲惨主義と神のしもべの予言とに手を加えたものだからである。

 もしも事実としてこの聖句をじぶんじしんに適用したのがキリスト教団の信仰が最初ではなくてイエスじしんであったとすれば、そのばあいには、これは別にイエスが懐疑と絶望の深淵にあることを――よくひとはその十字架のことばを奇妙なことにこう解釈したのだが――推定させるものではなくて、むしろ、第二イザヤの意味におけるメシヤ(注:救世主)の自覚ならびにこの詩篇の結びに表現されているようなもろもろの希望を、イエスのばあい、推定させるものであることは確実だとおもわれる。

<個人的見解>
 このイエスの神に対する一種の恨みの言葉は、イエスの神格を否定するものとして、多くの異端派がその根拠としたものだった。つまり、イエスは神から祝福されていない普通の人間であったとする理由に利用されてきた。しかし、ウェーバーの理解では、これはユダヤ教の一人の予言者としてのイエスが、メシア(救世主思想・願望)から述べたものと説明しているのは、意外だった。

P.605
 ラビたちは魔術師でも予言者でも奥義的な哲学者でも占星術師でも占師でもなかったが、またなにか奥義的な救済論の、すなわちグノーシスの、担い手でもなかった。古代近東のグノーシスならびにそのそのデミウルゴス(注:グノーシス思想に登場する巨大な悪の化身)説やアノミスムス〔無法主義〕の特殊な形式が端的に禁止され排斥されたばかりでなく、むしろすくなくとも古典的なタルムード(注:ユダヤ教の教義のひとつ)時代では、一切のグノーシスが総じて排斥された。またもやこのばあいに決定的に重要であったのは、グノーシス的神秘的救済方法によって律法や倫理的厳正な行為が無価値にされてしまう、ということであった。

P.622
 エッセネ派の教えと実践とにおけるこれらの構成要素は、もはやパリサイ派(注:後期ユダヤ教の中心的原理主義グループ)の清潔=儀礼主義を高めたものでもそれに優越したものでもないばかりか、ユダヤ教に発するものでもない、ということは直ちに明白である。天使論は、パリサイ派のそれも、じつはペルシア起源であった。

 肉体と魂の教説にみられるかなり際立った二元論もまた――ここでもまたヘレニズムのえいきょうが考えられるけれども――そのことを示している。太陽崇拝はまったくペルシア(もしくはペルシア・バビロニア)のえいきょうに属するが、これは――右の天使論とはことなって――端的に非ユダヤ的だという気持を起こさせるし、それが厳正なユダヤ教によってゆるされていたということは、なによりもまずおかしなことだと思われる。

<個人的見解>
 では、貴重な死海文書を残したエッセネ派とはなんだったのか?という疑問は、現在も解決されていない。しかし、彼らの思想は厳格なユダヤ教に酷似しているので、キリスト教がユダヤ教の一分派ということと同様に、ユダヤ教の一分派といっても過誤にはならないと思う。長く秘匿されてきた死海文書(その理由はローマ教会の政治的思惑?)だが、さらにその読解と研究が進むことを期待したい。

P.635
 ユダヤ人のそして言葉のもっとも内面的な意味におけるユダヤ人の「ゲットー」の、社会的孤立化は、第一義的には徹底的にユダヤ人が自分で選び自分で欲した結果であり、しかもこの傾向はますます増大した。

<個人的見解>
 一般に、ヨーロッパ各地に見られるゲットーとは、ユダヤ人を差別した結果とされているが、これは自分たちユダヤ人からの必要性から作られていたということが証明されている。それはまた、それだけで差別されたとは言えないが、一方でユダヤ人を当該社会から異端者とされ、さらに迫害を受けやすい状況を自らもたらしたと言える。

P.639
 このギリシア人をユダヤ教に引きつけたものは、当然のことながら、ユダヤ教の儀礼ではなかった。というのは、もしもユダヤ教の儀礼がギリシア人を引きつけるということが起こりえたとすれば、それはユダヤ教の儀礼がヘレニズムの宗教意識の全特徴と照応しつつサクラメント(注:キリスト教の神の恩寵を信徒に与える儀式)的もしくは魔術的救済手段や密議教のしかたでの諸約束を、要するに非合理的な救済道や救済の種々の状態性を、提供したばあいにのみ可能であったろう。

 そしてまさにこれこそはユダヤ教において起こらなかったことであったからである。むしろギリシア人をひきつけた力は、徹底的に偉大かつ荘厳にはたらく神観や、不真実と感ぜられていた神々と偶像との礼拝の徹底的な排斥や、なかんずく純粋かつ強壮にはたらくユダヤ教の倫理、から生じたのであった。

<個人的見解>
 一般にギリシア神話の世界からは、ギリシア思想は偶像崇拝、人間的な神々、自然に対する畏怖などに象徴されているが、これらを否定するものをユダヤ教の中に見出したというのは、意外な気がする。しかし、ユダヤ教がギリシアで力を持つ頃には、偉大なギリシア文化は衰頽していたので、ギリシア人にとっては、自分たち文化の勢力を盛り返すための強靭かつ厳格な思想を求めていたのかも知れない。

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