<書評>『トリックスター』
『トリックスター』ポール・ラディン 皆河宗一訳、カール・ケレーニイ 高橋英夫訳、カールグスタフ・ユング 河合隼雄訳、山口昌男解説、晶文社 1974年
原書は、”The Trickster—A study in American Indian Mythology” Paul Radin, Karl Kerenyi, C.G.Jung, 1956 Routledge & Kegan Paul, London
今や日常会話でも「道化師役」、」「かき回し役」という意味合いで使われるまでに市民権を得ている「トリックスター」。これは、ラディンが20世紀初頭に採集したインディアン神話の主人公に対して命名したものが、人類史上最初の出現だ。そして、ベストセラーに近いくらいに売れた本書で、日本の知識人の間に「トリックスター」という概念が広まった。
しかし、本書を読む限り、巷間に広まった「トリックスター」の固定概念は、原初のインディアン神話にあるイメージから、かなり遠いものになっているように思う。
何よりも、トリックスターが神話の主人公である限り、彼は神であり、動物神であり、超自然的な存在であり、原初的な人間であり、そして宇宙とつながりのある存在だ。だから、神の近辺で脇役として活躍するような、道化師やかき回し役というイメージに固定することは正確ではない。下世話な例えで言えば、「馬子にも衣装」という諺の「馬子」を「孫」と誤解しているような、そんな気がする。
では、真の原点となるトリックスターとはなんだろうか?それは、巻末の山口昌男の「今日のトリックスター論」に良くまとめられている。そして、山口が述べるトリックスターとは、少し長いが、以下の引用する部分に良くまとめられていると思う。
「道化―トリックスター的知性は、一つの現実のみに執着することの不毛さを知らせるはずである。一つの現実に拘泥することを強いるのが、『首尾一貫性』の行くつくところであるとすれば、それを拒否するのは、さまざまな『現実』を同時に生き、それらの間を自由に往還し、世界をして、その隠れた相貌を絶えず顕在化させることによって、ダイナミックな宇宙論的次元を開発する精神の技術であるとも言えよう。トリックスターがユングやノーマン・ブラウンなどの精神分析学者やケレーニイのような神話学者を魅了してきたのも、まさにこのようなトリックスターの秘める宇宙活性化の潜在的能力であった。」
トリックスターを、神だけの存在であるとか、道化のみであるとか、あるいは特別な能力を持ったスーパースターであるとか、そういった固定した存在として奉るのは筋違いではないか思う。しかし、現代日本のマスメディアの世界では、「トリックスター」という言葉だけが独り歩きしていて、むしろ筋違いの方向に理解されて使用されていることに、私は大きな違和感を持っている(この違和感は、ジギムンド・フロイドが自らの精神分析学で使った「オイディプス(マザー)コンプレックス」、「エディプス(ファーザー)コンプレックス」の誤用と同じ文脈にある)。
なお、山口の論文の中に、カナダの歴史家ウィリアム・アーヴィン・トンプソンの『歴史の瀬戸際にて』(1971年)に言及しているところがあって、ここがかなり面白い。トンプソンは、人類史の部族における基本的関数(図を参照)として、「シャーマン」、「頭目」、「道化・理念型」、「狩人、実行型」の4つを第一期の元型としている。
これが第二期の農耕社会に進化すると、「シャーマン」は「宗教」とそれに関連する司教や神秘家に、「頭目」は「国事」としての王や高級僧職に、「道化」は「芸術」としての風刺・批評家や職人に、「狩人」は「軍事」としての指揮官や歩兵に変換する。
さらに、第三期の産業文明(つまり現在の我々)に進化すると、「宗教」は「教育」として科学者・教師・学生に、「国事」は「政府」として公務員や行政官に、「芸術」は「メディア」として芸術家や技術者に、「軍事」は「産業」として企業家や労働者に、それぞれ進化しているという。なるほどと思う点が多く、また、芸術がメディアと同一範疇にあることが特に興味深いが、最近では草野彌生ブーム等を見ると、そうした指摘の正確さを実感する。
そして、もっとも興味をそそられたのが、21世紀の第四期として、汎地球的文明(個人=制度)というのが、未来予測として述べられている部分だ。ここでは、「教育」は「科学者」となり、技術主義者やピタゴラス的幻視家に、「政府」は「マネジャー」として科学者、政府、批評家、技術者に、「メディア」は「批評家」として、道化、身体的英雄、カリスマ指導者、学生に、「産業」は「技術者(パートタイム)」として、軍事・体育、宗教、地方行政官、芸術に進化すると予測している。つまり、第一期のものに先祖帰りしているというのだ。
今は既に21世紀に入ってから22年が過ぎているが、このトンプソンの予想は、意外と当たっていることに驚かされる。特に芸術が、技術者(パートタイム)として、身体的英雄(つまり、プロスポーツのエリートたちだ)と同一範疇に入っていることを、現在進行形で発生していると強く実感する。
芸術は、19世紀的な孤独な職人技ではなく、20世紀後半に出現したスポーツエリート(経済的成功者)や芸能人と同列の、メディアの存在に依存する生活者になっているのだと考える。そして、こうした存在が、かつてトリックスターであったものの、惨めな末裔ではないだろうか。