<短編小説>「あるミサでの出来事」
これは、とあるフランス南部の田舎町に、中世から現代まで伝わる説話である。その町は、地中海に面していることから温暖な気候に恵まれ、また度重なる大きな戦乱に巻き込まれる機会が少なかったため、そこに住む人々は長く平和な時間を過ごしていた。そして、日々の生活は、農産物と漁業に恵まれ、牛や羊の畜産も盛んだったので、一年を通じて食べ物に困ることはない満ち足りたものだった。そうして素朴な生活しか知らない人々が貯え続けた財は、町の中心にある教会へ長年寄進され続けた。そのため、この素朴な田舎町には似つかわしくない立派な教会が建てられたが、それはまた町一番の誇りでもあった。この町は、そこに住む純朴な人々と豪華な教会で成り立っていたのだ。
その教会で行われる日曜のミサには、いつも町中から大勢の信者が参加したが、その教会の豪華さに惹かれた近隣の村の信者たちも、家族そろって物見遊山で参加することが多かった。そうした参加していたある村の信者には、お調子者で有名な少年がいて、日曜のミサへ出るたびに、いつも司祭のすぐそばの席を自分のものにしていた。他の信者たちは、その少年の信心深さの表れと尊重し、司祭近くの席に座ることを許していた。
ある日のミサのことである。その少年は、いつものように司祭近くの席に座って、そのありがたい説教を神妙に聞いていた。司祭は、旧約聖書のエゼキエル書を読んでいて、ちょうどその時は、エゼキエルが天使たちに伴われて昇天していく箇所だった。信者たちは、皆ありがたい表情をしながら、司祭の説教を熱心に聞いていたが、少年だけは怪訝そうな顔をしていた。それを見た司祭は、この少年には旧約聖書の世界は難しすぎるのだろうと思い、わかりやすい比喩を述べることにした。
「聖霊とは、皆が飼っている牛のようなものなのだ」と司祭は厳かに説教した。
すると、その言葉を聞いた少年は、素直にその言葉を受け取った。
「その聖霊は、・・・さっき子牛を産んだよ!」
少年の遠慮のないよくとおる大きな声が、教会中にこだました。それは司祭の説教の声よりも大きく、教会の外でも聞こえたほどだった。そして、その声と符牒を合わせるように、信者たちから割れるような笑い声が沸き起こった。その笑い声は、すぐに司祭の説教をかき消し、また少年の声も消し去って、大きく長く教会の中に反響していった。そして、まるで時を告げる鐘が鳴るように、いつまでもいつまでも止むことなく続いていたが、もしかすると調子に乗った誰かが鐘を突いたのかも知れない。笑い声は鐘のリズムを得て、さらに大きく教会の外へ鳴り響いていった。
予期しない笑い声に包まれた司祭は、苦虫をかみしめた表情で少年を睨みつけたが、それを見た聴衆がさらに大声で笑いだしてしまい、厳粛なミサは益々混乱していった。もうこの笑い声を止められるものは誰もいない。笑い声はまた別の笑い声を誘い、鐘の音にも笑うようになっていた。まるで、笑い病にかかっているように、信者たちは皆腹を抱えてもがいている。
そこに突然、司祭が説教する教壇の近くから、ドスン!という大音響が教会の中に響き渡った。そして、司祭の近くから真っ黒い煙が沸き上がったとき、それまで笑っていた信者たちは、笑っている顔そのままで、慌てて出口に向かって走り出した。この突然の出来事にどういう顔をしてよいか、信者たちはわからなくなるほど驚いたのだ。そして、ただ大きな恐怖から逃げ出すことがそこで出来る唯一の行動だった。信者たちは皆逃げ出したが、くだんの少年は興味津々で煙の中に目を凝らしていた。すると、そこから全身真っ黒な男が姿を現すのが見えた。少年は、「悪魔だ!」と大きく叫んだ。
少年の声に思わず振り返った信者たちは、そこに黒い悪魔がいるのを見た。まだ教会の中にいた信者たちは、既に出口に向かっていた信者の後を追いかけつつ、「悪魔だ!悪魔が出た!」と追い打ちをかけるように叫びながら、教会の外へ逃げ出していった。しかし、司祭は、本当は教会の外へ逃げ出したかったのだが、司祭たるものは悪魔が出たことに驚いて逃げるわけにはいかない。司祭は、恐怖に震えて説教壇にしがみつきながら、悪魔の出てきた大きな暖炉の方へこわごわと視線を向けてみた。
そこには、真っ黒い身体をした悪魔が見えた。そして、とぼとぼと歩きながら、身体中についた煙突の煤を払いながら、独り言を言った。
「いやあ、失敗したな・・・掃除する煙突を間違えちまったよ」
その悪魔に見えた真っ黒い男の正体は、実は煙突掃除人だったのだ。しかも、間抜けなことに煙突を間違えた上に、煙突から暖炉まで転げ落ちてしまったのだった。
その声は、司祭や逃げ出した信者たちにもよく聞こえた。信者たちは、少年の度重なる勘違いに大きな笑い声で応えながら、ぞろぞろと教会の外から戻って来た。そして、再び司祭の説教を聞くために、元の席に座っていった。教会は、元のミサの静けさになっていった。
ところで、教会の隅で煤を払っていた煙突掃除人は、信者たちを前にして恥ずかしそうにしていたが、すぐに出口に向かいながら、続けてこんな独り言をつぶやいていた。
「いやあ、さっき落ちたことで身体中に怪我をしちまったよ。そうだ、この近くにある婆さんのところで、良い薬をもらうことにしよう」
その信者たちに聞かせるつもりのなかったつぶやきは、司祭の説教よりも信者たちの耳に良く聞こえていた。なぜなら、その老婆は、信者たちから司祭以上に篤く信頼されていたからである。
この篤く信頼されていた老婆は、この田舎町に長く住みついている魔女だった。また、誰もが魔女だと知ってはいたが、人々にとってなくてはならない存在でもあったので、誰も魔女だからと異端審問所に訴え出て火あぶりにしようとはしなかった。むしろ、この魔女である老婆の存在を隠すことすらしていた。この老婆がいなくなっては、人々の生活が困ってしまうのだ。老婆は、いろいろな薬を人々に与える他、どんな相談にも良く応じていた。そうしたことを日々繰り返すことで、人々はこの老婆に多くの信頼を寄せるようになっていたのだ。
信頼とは、他人に自らの心を預けることでもある。しかし、魔女であるこの老婆が、自分に寄せられた信頼によって、多くの人からその魂を集めていることを知る者はいなかった。なぜなら、信頼という形で自分の魂を老婆に奪われても、人々がそれに気づくことはないからだ。ただ、人々の良心とか寛容などの気持ちが、それと気づかないうちに無くなるだけなので、自分の魂が、いつのまにか消えているとは思いもしなかった。また、この平和な田舎町の人々にとっては、自分の良心や寛容を失くすことよりも、老婆から与えられる「治療」の方がいっそう好ましいものだった。
こうして沢山集めた魂を、老婆はいったい何に使うのだろうか。実は、老婆の姉も魔女として人々の役に立っていたが、約100年前、姉は悪名高い魔女狩りにあって火あぶりにされ、今は煉獄で苦しんでいたのだ。魔女であれば、誰でも地獄に堕ちるのが当然だと思うかも知れないが、老婆の姉は、老婆同様に人々の相談に良く応じていたため、地獄へは堕ちずに煉獄に止まっていた。
しかし、煉獄から抜け出すためには、生きている人たちからの沢山の祈りが必要となる。そして、その祈りが少ないときには、良き魂で代用することができた。老婆が集めていたのは、人々からの感謝の気持ちを込めた良き魂であったので、それを集めて、煉獄にいる姉に少しずつ送り届けていたのだ。
やがて、老婆の集めた良き魂は、煉獄で苦しむ姉が必要とするまでの数になった。人々の感謝の念で光り輝く良き魂たちは、その敬虔な祈りに負けぬ素晴らしい効果を発揮した。これを手にしたとき姉は、いつのまにか自分の身体が軽くなり、かつては一歩登ることすら苦行そのものであった煉獄山の道を、今度は軽々と登れるようになっていた。そしてようやく頂上についたとき、そこには、多くの天使たちが待っていた。沢山の良き魂に送られた姉の身体は、天使たちに包まれて上昇し、やがて天国の門に着いた。
天国の門に向かう姉は、煤で真っ黒になった男が門の前にいるのを見た。そこへ近づくにつれて、その男が煙突掃除人の姿をしていることがわかった。その煙突掃除人は、姉には見覚えのよくある顔だった。そう、彼女が魔女をしているときに、とても親しくしていた――恋人の――誠実な若い男だったのだ。その男は、彼女が魔女として異端糾問所の裁判にかけられているとき、自分が敬虔な信者だと教会から認められていたので、その信頼をもとに、司祭たちに彼女の無罪を必死に訴え続けたことがあった。しかし、所詮はしがない煙突掃除人だ。社会的地位も名誉も、まして異端糾問所での影響力も何もなかった。男は自らの力の無さを思い知るしかなかった。
さらに悪いことには、男の訴えが聞き入れられなかった上に、異端審問所に対して魔女の無罪を訴えたことで、この男自身までも異端糾問所の裁判にかけられることになってしまった。そして、魔女が火あぶりに処された翌日、男は絞首刑に処された。男は、地獄へ堕ちたが、魔王ルシファーにその生来の勤勉さが認められて悪魔に取り立てられた。しかし、悪魔になった後に地上へ遣わされてから彼の行ったことは、生前と同じ煙突掃除だった。その悪魔らしからぬ善行を認めた神は、男を地獄から煉獄へ引き上げた。煉獄で男は、火あぶりになった魔女と同様に、天国へ向かうための苦行を積むことになった。そして、現世にいる男の家族や煙突掃除人仲間たちの熱心な祈りが、男の背中を押し続けてくれた。そうした祈りが、男を煉獄山の頂上まで登らせていたのだった。
そうして天国の門まで来た男は、煉獄の魔女が天国に来るまでは、自分はこの門の中に入らないことに決めていた。また、自分がここで今できるような善行はないかと探した。そこでわかったのは、男にできることは煙突掃除だけということだった。男は、神から特別な赦しを得て、特に教会の煙突掃除をするためだけに、地上に降りていった。そうした善行も、人々からの良き魂同様に、魔女の天国行きを大きく後押ししたことは間違いないだろう。何よりもそれは、神が最も好む愛の表現でもあったのだから。
男は、煤で真っ黒になった顔に大きな笑いを見せながら、魔女がこちらに来るのを静かに待っていた。そして、魔女が来たとき、彼女を思い切り抱きしめた。魔女は白い衣装を着ていたので、男の煤ですぐに真っ黒になった。しかし、そんなことは気にならないくらい、魔女は男と再会できたことがとても嬉しかった。そして、これから天国で共に暮らせることに思いをはせた。魔女は、男に自分の思いを伝えることにした。
「わたしにも、煙突掃除のやり方を教えてください。私のように、煉獄から救われるべき人が沢山います。そうした人たちを、あなたのように煙突掃除をすることで、助けてあげたいのです」
この言葉が天国の門に響いた時、煙突掃除の男と魔女の、煤で黒ずんだ衣装は、少しずつ純白の光り輝く色に変わっていった。そして、二人の身体から発する「良心」と「寛容」という文字となった光の筋は、まるで光のプレゼントのように現世の老婆の家まで届けられた。すると、老婆の家にいる人々の耳に、「お返しします」という言葉が聞こえた。人々は、自分たちの身体の奥が、すいぶんと暖かくなったことを感じていた。
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