<書評>『バリー・リンドン』
『バリー・リンドン The Memoirs of Barry Lyndon, Esq.』 ウィリアム・メークピース・サッカレー William Makepeace Thackeray 著 深町眞理子訳 1976年角川文庫 原書は1844年 イギリス
19世紀イギリスで活躍したサッカレーの長編小説としてよりも、20世紀を代表する映画監督の一人であるスタンリー・キューブリックの、壮大な作品『バリー・リンドン』の原作として、少なくとも日本では知られるようになった小説である。なお、もともとキューブリックは、ナポレオンの映画を作りたかったのだが、天文学的な製作費がかかることもあってこれを断念し、代わりにナポレオンを縮小したような人物として「バリー・リンドン」を選び、これを映画化したと自身で述べている。
映画『バリー・リンドン』について、私は既にキューブリックに関する論考や書評で言及しているが、本稿は小説についての書評であり映画評ではないため、原作との関係のみを記述することに限定している。映画評にご関心のある方は、以下のnoteにあるキューブリック関連の投稿をご覧願いたい。
さて、そもそもサッカレー自身がそれほど文学史上名高い作家というわけではないため、本書を読んで何か感動するとか、特別な技巧に驚くとか、そうした類のものはなにも期待していなかったが、実際その通りであった。そして本書の価値を述べれば、19世紀の英国を中心としたヨーロッパの(貴族を中心にした)人々の暮らしぶりを、おもしろおかしく楽しめるという作品であった。そのため、書評というよりも、ここに書かれたそうした人々の暮らしぶりや生活ぶりについての感想を書いてみたいと想定していた。しかし、特別な面白みというのはなかった。それは、既に多くの歴史研究や映画作品などで、サッカレーが描いた人々についての知識が、広く周知されているからだろう。
ところで、巻末の訳者による解説によれば、サッカレーは妻に先立たれたことをもあって、女性不信であったそうだ。そうしたサッカレーの思考が、以下256ページの、プロシア公妃オリヴィアの息子ルートヴィッヒに対する折檻に対する、主人公バリーの気持ちの表現に強く出ているので、紹介したい。(蛇足ながら、私も自分の息子に「女は怖いよ」といつも教えていた。)
「ああ、女性によって引き起こされるこの世のすべての災いよ!にこやかな笑顔についうかうかとだまされて、男はいつも憂き目にあう。それも往々にして、愛情という理由があってのことですらない。たんなる見栄と、虚栄と、つよがりからなのだ!男は、それからなんの害も受けないというように、このおそろしい両刃の剣をもてあそぶ。わたしは、たいがいの男よりも世間を多く見てきた人間として、もし息子があれば、息子の前にひざまずいてでも、女には手を出さないように嘆願するだろう。女とは毒薬よりもたちが悪いものなのだ。いったん関係を持てば、一生があやうくなる。いつ災厄がふりかかってくるかわかったものではない。さらに、その一瞬の愚行によって、家族全員に苦悩がおよび、あなたの愛する罪のない人びとに破壊がもたらされるかもしれないのだ。」
こうした女性不信の表現が各所に散りばめられているが、ストーリー全体は、主人公バリーの様々な女性遍歴を横糸にしつつ、バリーの波乱万丈の人生を描いている。またバリー自身については、狡猾かつ派手な浪費家という倫理的に最低な男としており、その狡猾さにより一時は栄耀栄華を勝ち取るが、自らの破天荒な生き方から最後は監獄で生涯を終えるという悲惨な結末になっている。こうした結末からは、本書はいわゆる勧善懲悪物語ともみなせるが、むしろ解説者のいうように、主人公の奇想天外な、実人生では決して経験できないような悪役としての生き方を、この破天荒な物語を読むことで楽しむというのが、この小説の適切な味わい方なのだと思う。
ところで、やはり原作である本書と映画『バリー・リンドン』との違いを述べねばならないと思う。おおよそのストーリーについては、原作と映画とに大きな相違はない。しかし、バリーが結婚したリンドン夫人の連れ子ブリンドンについては、いくつかの相違があった。映画では、彼は成長した後に義父バリーとの関係が悪化して家出し、次にバリーと再会したときに決闘を申し込む。バリーが得意とする銃による決闘で、ブリンドンは最初の発砲を失敗する。しかしバリーは、義理の息子に同情し、自分の射撃で故意に的を外す。次にブリンドンが苦労した末に発砲した弾は、偶然バリーの片足に当たって、バリーは決闘に負ける。片足を失くしたバリーは、リンドン家から出て行き、実母とともにリンドン夫人からの年金で平和に暮らすというのが、映画のエンディングとなっている。
この部分について、原作はいささか異なっている。成長したブリンドンは、アメリカ独立戦争の英国軍に自ら志願するが、まもなく戦死したとの報告がくる。一方、バリーの甥である秘書レッドマンド・クィンの裏切りによって、リンドン夫人を夫人の元恋人ジョージ・ボイニングに奪われた後、ブリンドンは突然、実は生きていたとして物語に登場してくる。しかし、子供時代の母やバリーから受けた虐待もあり、母とバリーにまるで親子関係を逆転したような稚拙な(笞打ちなどの折檻による)仕返しをした後、再び軍人に戻り、やがてアメリカによるスペイン戦争で戦死する。
せっかく物語の中に再登場したのに、ブリンドンとしての特別な役割を果たさずにあっさりと戦死してしまうなど、映画とは異なって、物語の役割は中途半端になっている。小説作法としては、彼を生き返らせる必要はなかったのではないか。そして、ブリンドンの扱いについては、映画の方が数段上であり、また優れた登場人物としての扱いになっている。
また映画のエンドシーンでは、リンドン夫人が、バリーへの年金手形にサインするときの複雑な表情で終わっているが、原作では、既に容姿が衰えていたリンドン夫人は、せっかく復縁したボイニングに裏切られ、さらに自らの膨大な財産をボイニングの親族に奪われてしまい、大きな失意のうちに亡くなったとしている。そうした中で、リンドン夫人は、亡くなる前に監獄のバリーに会いに行こうとするが、財産を管理する親族に邪魔されて叶わなかったと描かれている。つまり、悪漢バリーへの不思議な愛着を、リンドン夫人は終生持っていたと読めるようにしている。
正直言って、物語の終わり方としては、キューブリックの方が数段も上手いと言わざるを得ない。映画の結末の情景は、様々な余韻を含んでおり、観る者に多くの想像する愉しみを与えている。一方、サッカレーの原作の終わりは、何かとってつけたような、小説の文章としては物足りない下手な年代記のような表現となっている。そこにサッカレーは、バリーとリンドン夫人とのいびつな愛を表現しようとしたのかも知れないが、悪漢である男と悪しき貴族趣味の権化である女との、虚飾に満ちた愛憎しか読み取れず、愛というイメージはほとんど読み取れない。
もしかすると、そうした「薄っぺらな愛憎劇に生きているのが貴族なのだ」ということを、サッカレーは主張したかったのかも知れないし、また解説を読むとそうした主旨が伺われる。しかし、この原作が大衆にアピールする要素である、ピカレスク物語としての爽快さ、愉快さを求めるのであれば、この結末の描写はまったく成功していない。何か非常に中途半端な終わり方という印象しか残らない。
一方、19世紀の風俗と悪漢の波乱万丈の人生を描くという観点からは、キューブリックの映画は見事に成功していた。キューブリックは、サッカレーの原作を換骨堕胎したストーリーと、映画芸術至上最高の美しい映像を持って、「バリー・リンドン」の世界を我々に見せてくれたのだ。小説に対する書評である本稿だが、結論としては、映画監督スタンリー・キューブリックの才能に改めて感服するものとなってしまった。
<私が、アマゾンのキンドル及び紙バージョンで販売している、映画評などをまとめたものです。宜しくお願いします。>