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小説「水中、それは苦しい」

 ――深呼吸。
 回数より覚悟を決めること。
 あまり深くは吸わないこと。
 胸部に入れた空気が下腹部を少しだけ膨らますぐらいがちょうどいい。
 それはやわらかい朝日で目を覚まし、寝ぼけ眼のまま洗面台に向かうかのように、普段何気なく過ごしている日常のつもりで――。
 合図なんてない。ベストタイミングなんてない。
 なんとなく。この感覚で十分だ。完璧などというものはいつの時代だってこの世には存在しない。人間はあまりにも不完全で、そうして臆病な生き物なのだから。
 ああ、誰かの声が聞こえる。
 人。待たせているのは誰でもない、自分だ。
 ――。
 潜る。というよりは、沈む。
 水の中で寝転ぶように、重力に任せて、ふっと力を抜いて……。
 世界がガラッと変わる。音が消える。そして、空気が消える。
 夢を見よう。
 決して振り返らない夢を。
 前を見ないこと。
 耳をふさぐこと。
 誰かの期待に応えようとする行為が、どうして偽善だと分からないのか。
 潜水は誰のためでもない。
 自分のために潜るのだ。
 手足がとらえる水の感覚に集中しろ。
 ターンは決して半分ではない。
 それはただの始まりであって、宇宙から見たらたったの25メートルを進んだという事実だけが浮上しており、その事実は実際に観察するときに、すでに私たちの通過点として作用するのだ。
 焦るな。
 誰のことも考えるな。
 決してこれをやり遂げたら皆からの賛辞があると思うな。
 思い出すこと。それは金輪際必要ない。
 大切なことは忘れることだ、と昔なにかの映画で言っていた気がする。
「パントマイムのコツは簡単さ。ここにリンゴがあると思うんじゃなくて、ここにリンゴがないということを忘れるだけさ」
 肺の中の空気が減っていく。漏れていく。どこかへ垂れ流しだ。苦しい。手足の感覚がなくなっていく。もういっそのこと吸ってやろうか。水面の上には新鮮な空気が溢れている。まるで宇宙から地球を隠すかのように、それは僕たちを孤独にする。水の中は孤独だ。そこには誰もいない。初恋の人も、嫌いだった友達も、自分ですら果たして本当にこの世界に存在しているのかが分からなくなっていく。
 口から酸素が泡となって浮上する。手と足を無意識に動かす。無。ああ、そうか、思い出した。
 僕は知っている。水の温かさを。水の優しさを。いつだったか、僕たちは水の中で暮らしていたということを。
 ふと、正面を見る。やはり、そうか。
 スタート地点は、ゴール地点でもあって、つまり――。
 ――水中、それは苦しい。
 楽になるか、いや、行ってしまえ。
 どうせいつかは、またここに戻るのだから。
 死。それはなにも怖いことではない。
 人間は、いや、生きているものすべてにとって死は不変で、そして生きている限り必然なのだ。
 だからこそ、今はなにも考えるな。
 喜びすらも、幸福すらも、今はいらない。
 肺が潰れそうで、身体が酸素を求めている。
 忘れろ、忘れろ。
 あと少しだ。
 前を見て、なにも考えずに、ただ手足を動かせ。
 ――声が聞こえる。
 優しい声だ。
 懐かしい声だ。
 あっ。
 顔を上げると、すぐそこに壁が迫っていた。
 ぼくは両手を伸ばして壁にタッチする。そのまま最後の力を振り絞って、水面に浮上する。水を大量に飲みながら、その瞬間、僕を構成していた70%の水分がプールの水と混ざり合い、僕はもうさっきまでの僕ではなくなっていた。僕はどこかで死んでいる。今ここにいる僕は、間違いなく潜水前の僕ではない。
 ゴーグルを取って肩で息を吸う。顔が真っ赤なのが見なくても分かる。熱い。燃えそうなほど体が熱い。むしゃぶりつくすように空気を吸い込み、吐き出し、気がつけば僕はまた以前の僕を大気中から取り込んでいる。
 水面が揺れている。
 秒針が滑らかに回っている。
 体内の沸騰した水分が岩陰を求めてさまよっている。
 ぼくは目をこすって、周りの人たちをさも興味がないふりをして見回し、自身の両手を握ったり開いたりして、血が流れている感覚を思い出す。
 ああ、なんだ、僕はやはりどこまでいっても僕なのか。



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※2021年7月の作品です。


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