020-07-23Text
1982(昭和57)年7月23日-24日 長崎大水害
あれからもう38年も過ぎたのか❢
午前11時追悼のサイレン 1分間の黙祷を捧げた。当時は西宮市のある知的障害者施設で働いていたが、その凄まじさは伝えられる範囲でしか知らなかった。長崎で住むようになって当時の惨状を知るにつけ、いかに災害に対して行政も住民も無防備であったかを思い知ることになった。うわべは着飾った人の内面が荒涼としていることもあるように、この街は今でもうわべだけの賑わいを謳歌しているに過ぎない。アーケードのある繁華街や隣接の飲み屋街の地下には暗渠が走り県庁は埋立地(以前は少し高台にあったのだが)、市役所もその高台から氾濫した川のそばに建て替えられようとしている。温暖化による海面上昇を加味すれば20年 30年後に水没するのではないかと、2020年の私は危惧している次第だ。長崎の住宅は繁華街や中心街、JR駅などを見下ろすようにすり鉢状に入り組む尾根と谷の斜面にへばりついて密集している。長崎港になっている入り江自体が、古代よりもずっと以前のカルデラ(火山帯)の一部が崩壊したまま沈降したと言われている。
このまま指を咥えて、海に沈んでゆく街の一つになっていいのだろうか? 海面上昇がないのなら また南海地震の影響による大津波に見舞われることがないのなら、このままでもいいのかも知れない。私には「刹那主義」に思えてならない。比較的に低い海抜200〜300mの丘陵域を開発して新都市を計画的に構築する必要を夢想してしまう。それしか街が生き残る道はないように思われる。
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