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「ダレン・シャン」を通して初心を振り返る

小説を読むのは小学生の頃から好きだったが、高校に進んでからはとんと読まなくなっていた。

ところが、高校を卒業した年になって、また読書をする機会が増えた。いや、増えたというよりも、「本を読もう」という気が自発的に沸き起こるようになってきた、という方が正しい。


だが、しかしこれはどうしてだろう?

初記事だけど、今日はちょっとこれについて考えてみることにする。



少なくとも、18歳になってからの私が読んでいた本のジャンルは、小中の頃のそれとは随分と変わっていた。

小学生の頃は好んでファンタジー小説を読んでいたのだが、中学生になると手に取る本のジャンルは推理小説に代わっていた。

私が人生で初めて自発的に読み終えた小説は、「ダレン・シャン」だった。
この本の著者はダレンシャンである。

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「ダレン・シャン」は、自叙伝でもないのに「著者名とタイトル名が同じ」という非常に特殊な作品だ。この小説が私の小説初体験だったせいで、「小説ってこういうものなのかな?」と変な思い込みをしてしまった。

なお、12巻まで読んでようやく著者名とタイトル名が同じであることが何を意味していたのかが明らかになるのだが、ネタバレになるので詳細は書かないでおく。作品の根底に関連するこのからくりは、記事を書いている現在でも秀逸な話づくりだと未だに感心する。


9才のときの、とある夏の日である。
水泳の授業がある日は、窓の外から流れてくる塩素の匂いに憂鬱な気分にさせられる私だったが、その日だけは違った。
理由は忘れたが、その日は水泳の授業を見学することになっていた。

私の学校では水泳の授業を見学するときは、プールサイドに設置されたテントの中で過ごすことになっていた。その間、ただ見てるだけでは辛かろうということで、活字本に限りテント内に本を持ち込むことが許されていた。

水泳の授業が始まる前の休み時間、皆が教室で水着に着替えている間、私は親友とふたりで図書室に立ち寄った。
小学校の図書室というものは、生徒が立ち寄れる場所の中で唯一クーラーの効いている空間だ。きっちりと閉じられた引き戸をガララと音を立てて開けて中に入ると、図書室のどこか清涼感のある香りと、冷たい空気に体が包まれ、次の瞬間にはサーっと汗が引いていく。あの快感は現代の夏の風物詩と言っても差し支えないだろう。

当時の私は小説など読んだこともなかったし、活字というものが何なのかもよく分かっていなかった。だが、プールサイドで「見学者」として大多数の他人とは別のことをするという行為に、私は謎の優越感を感じていた(今思うと意味不明だ)。

その優越感を胸に意気揚々と図書室の本棚の間を歩き回っていた私だったが、休み時間も残り少なくなってきた段階でまだ借りる本をどれにするか決めかねていた私は、親友に助けを求めた。その親友は、全国の小学生の中でもこいつは珍しかろうと言えるくらいの読書家だったので、色々とオススメの本を教えてくれた。

彼はファンタジー系の本をよく読んでいて、齢10才にしてハリーポッター全巻を通読しており、その他にも「バーティミアス」だの「キノの旅」だの「デルトラクエスト」だのを読了しており、とにかく図書室にあるファンタジー物ならオレに聞いてくれとでも言わんばかりのひとであった。

そんな彼が薦めてくれた作品の中に「ダレン・シャン」があった。
正直、彼が薦めてくれる本はすべて極厚の小説ばかりだったので、およそ小説に初めて触れる9才の子どもには似つかわしくない作品ばかりであった。そんな作品たちの中から、相対的に見ても決して薄いとは言えない「ダレン・シャン」という作品を私が最終的に選ぶことにしたのは、冒頭の数ページをパラパラとめくってみて、「なんとなく読みやすそう」だと感じたからだ。

(あれから月日が経って、読書に限らず、参考書などの様々な書籍に触れることが多くなった現在でも、この「パッと見た時に読みやすいと感じるかどうか」という感覚は、本を選ぶときの参考にしている。所詮、一目見た時に「なんかよく分からないなあ」と感じたものは、いざ買って落ち着いてゆっくり読んでみても、イマイチ頭に入ってこないものである)

そうして私は「ダレン・シャン 1巻」を脇に抱えてプールサイドを歩き、テントの中のベンチに腰を下ろした。整列して、号令をかけながら準備運動を始めたクラスメイトたちを見て、多少の疎外感を感じた。私は小さいころからひねくれた性格をしていたので、他人と違うことを好んでやりたがるくせに、いざ自分以外の皆がまとまって楽しそうに何かをしているのを見ると、どうしようもなく羨ましく感じてしまうということが往々にしてあった。そしてその後に、そんな自分をしょうもないなぁと自虐するところまでがワンセットだった。
とんだ9歳児だと思う。

見学者の場所は、いくらテントの日陰といえど、プールサイドの照り返しでいささかも涼しくないという劣悪な環境だった。蝉の声を聴きながら、ぼーっと皆のことを見ていてもしょうがないと思い、友人に薦められた本を読んでみることにした。
活字になれていなかったから、その授業の間に読めたのはプロローグと、1章のほんの数ページ分だけだったと思う。児童文学と言えども、海外の小説は言い回しであったり、情景描写であったりがいちいち分かりづらい。含みのある物言いを見て、その本意に気付けず、言葉通り真に受けて「どういう状況?」と混乱したり、どうでもよくない?と思える情景、例えば台所にある調理器具の長さとかを、比喩表現を交えながらいちいち事細かく説明しているのを見て「あ、このナイフは後で出てくるのかな」と変に深読みしたり、とにかく不慣れな活字と海外の言い回しに私は振り回された。その混乱を楽しむ気持ちと、面倒に思う気持ちが内心渦巻きながらも、私は少しづつページをめくっていった。

思えば初日、プロローグを読んだ時点で脱落していてもおかしくなかっただろうに、私は一週間ほどかけてその1巻を読み終えた。
そのときは、初めて分厚い本を読み切った達成感を感じていたのか、それとも改めて彼の友人の読書能力の凄まじさに気付いて苦笑いしていたのか、当時の私が何を感じていたのかは最早何も覚えていないが、読了した後、それほど日を空けずに2巻を借りにいったことは覚えている。


これが人生で初めての「小説を読む」という経験だった。
たしか、その前にも読書感想文のためか何かで「エルマーのぼうけん」という本を読んだことがあったが、あれは仕方なく読んだのであって、自分が自発的に、能動的に読み切った「ダレン・シャン」という作品には、やはり格別の思い入れがある。
その後、「ダレン・シャン」が日本の漫画家によってコミック化されていることを知り、コミック版を全巻購入した。自分が思い描いていたイメージと一致する部分・全然違っていた部分、どちらも沢山あった。読書を始めたばかりの時期に、1つの作品を多角的に捉える楽しさがあることを知れたのはとても良かったと思う。

これを機に、私は小説を読むことが1つの趣味になった。
友人と共通の作品を読むことで共通の話題ができ、登場人物たちや話の展開について議論する楽しさを知った。
本を読むにつれ自身の語彙力が増加していくこと、見慣れた漢字や熟語が増えていくこと、想像力が伸びていくことなどが日々顕著に感じられ、それがどうにも楽しくて、暇さえあれば本を読む子供になっていった。
授業中、机の下で膝の上に本を置いて読み進めるあのスタイル。話がいいところで授業が終わってしまうと、机の中に開いたままの本を押し込んで、あわただしく立ち上がって形ばかりの礼をし、すぐさま読書に戻るという行為を繰り返していたあの頃。
けっして褒められた行動ではないけれど、小学生らしい懐かしい光景だ。


そういうわけで私はファンタジー作品をきっかけに本の世界に入り込んだ。この後、小学校を卒業するまでの3年間はファンタジーものばかり読むことになる。
中学校の図書室の蔵書内容は、小学校のそれよりも格段にグレードアップしており、「火の鳥」とか「ブラックジャック」まで置いてあったので、一時期 手塚治虫作品に没頭した時期もあった。

そんなある日、私は 黒い背景に火花が散った、シックでダークそうな表紙をした本に惹かれて立ち止まった。
中学に入ってから仲良くなった友人、…これまた読書好きの人間なのだが、彼に「これ、面白い?」と聞くと絶賛の声が返ってきたので、そのとき特に読みたい本が無かった私は暇つぶしがてら、その本を借りることにした。


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これもまた冷房の効いた部屋での、夏の日の出来事であった。

「真夏の方程式」は、探偵ガリレオシリーズの一編、つまり推理小説だ。
それまで読んでいたファンタジーものとはうってかわって、舞台がまず日本なので、突然物凄い親近感が湧く。作中には知ってる地名も出てくるし、身近な苗字も出てくる。
だが、内容は殺人だの変死だのと、あからさまな非日常であり、おどろおどろしい。ファンタジーも非日常といえば非日常だが、まあ、所詮はあり得ることのない異世界のお話である。今までの自分がそんな非現実的な作品ばかりの偏食家であった反動か、『日常にあり得るかもしれないサスペンス』に異常に魅了された。

それからの私は、まず「探偵ガリレオ」シリーズを追い、その後は「時生」、「ナミヤ雑貨店の奇蹟」、「手紙」などの感動系の物語にも触れ、一気に小説の概念が広がったのが中学1年生の夏であった。

中学生活最後の1年は、慣れ親しんだ土地を離れ、遠い地で過ごすことになった。新しい土地でもそれなりに友人は出来、特に不満もなく残りの1年を楽しく過ごすことができた。が、ただ一つ残念だったのが、そこには本を読む友人が一人もいなかったことである。
読書仲間を失った私は、次第に本を読まなくなっていった。新しい学校の図書室は遠くて、それに居心地が悪かった。何より、面白い本を薦めてくれる友人も、逆に自分が面白いと思った本を薦めたくなる人物もいなかった。
受験もあり、周りの流れに合わせて生きていくにつれ、本を読むという習慣は自分の中から失われていった。
そのまま高校に入学し、新しい環境となったわけだが、もう自分に本を読もうという気力は微塵もなかった。読みたくなかったとか本を読むことを意識的に避けていたとかではなく、本を読む楽しさを完全に忘れていた。


特に何が起こるでもなく、私は18歳を迎え、高校を卒業する年になった。
冒頭にも書いたが、この頃になって私はようやく再び本を読み始めるようになる。
この頃はインターンシップに行って年上の人たちと交流する機会が増え、進路について深く考えるようになり、情報を求めて能動的に動こうとしていた時期だった。その結果、もっと「教養をつけなければ」という、“焦り”に似た思いが私の心を支配するようになった。
この“焦り”は、いわば物事を始める原動力だった。色んなことを知りたい、知らなきゃという思いから日ごろニュースをチェックするようになり、分からないことはすぐに調べる癖をつけ、嫌厭していた分野にも果敢に手を伸ばしていこうと試みた。
そこで書籍にも手を伸ばすわけだが、今までフィクションにばかり触れてきた私は、ここで新たな分野の本を手に取るようになる。この頃から、学術系の書籍や、自己啓発本などを好んで読むようになった。

「フィクションなど物語を読んでいる場合ではない、自分の糧となる情報を優先的に摂取していかなければ!」

そんな思いで過ごしていたのが事実である。
そしてこれは、ここ数か月の結構最近のことだ。


そして、本当にごくごく最近、また違った感じで思うところがある。
それを書くために今日noteを始めたと言っても過言ではない。
19歳になり、思考もそこそこ成熟し、自らを振り返った時に圧倒的な経験不足を嘆く日々を送っているが、それでも今の自分が考えることは昔に比べると随分と複雑になってきているのは確かだと言える。
溢れかえるような思考は、何らかの媒体に書き留めておかねば、あっという間に忘却の彼方に追いやられてしまう。それを「勿体ない」と感じるようになってきたのが、なんとなく成長してる感じがして嬉しい。


最近になってようやく読書の楽しさを思い出した。
小説を読む時間は減ってきているが、小説に限らず、「本を読むこと」そのこと自体の楽しみ方が分かってきた。

思うに、本を読む面白さとは、
『自分の世界の枠組みを拡張できること』
にあると感じている。

小説を読み始めた当初は、小説はあくまでもエンターテイメントの1つであり、読んでいる最中はドキドキハラハラさせてくれて、読み終わったら終わりの、「読んでいる時だけ楽しめるもの」だった。作品は消費するものとしか思っていなかった。というか、最近までそう思っていた。

ところが、小説以外の本、例えば学術系の本なども読んでみると、「なるほどこれは役に立つ」と、本が思想や思考に影響を与えることに気付いた。読書をして得た知見を、日常生活に役立ててよいことに気付いたのだ。
私はどうも無意識レベルで頭が固いようで、「本を読んで得たものは読んでいるときだけのもの」であり、「『勉強』といえば親か学校で先生から教わることが全てである」と信じ切ってしまっていた。
いや、もちろん雑学書を読んでその内容を友人に自慢するなんて事は沢山あった。が、その知識もあくまで「雑学」の域を出ず、よく考えれば学校で習った理科の内容と結びつけて新たな知見を得るチャンスだったのにも関わらず、「雑学は雑学」としてしか処理していなかったのだ。

よく考えてみたらそれも当然のことではある。経験浅い子どもにそれに気付けと言うのも無理な話だ。つまり、小さいころは単発で得た知識がそれそのままになっていたが、成長して様々な情報を蓄積していくにつれ、「昔読んだあの雑学はこの身近な現象によるものだったのか!」と気付き始めただけのことだ。

だが、今まで頭の中でぼんやりとしていたものが、とある書籍の1文や解説をきっかけに、一気に形を持って鮮明に脳内に姿を現したとき、人はとんでもない快感を味わうものだ。かく言う私も、高校生になったあたりからそのような経験をすることが多くなっていった。

個人的には、この「今までとっ散らかっていた点が一気に線で結ばれ、その事象に対する理解が急激に深まる瞬間」というのは非常に快感に感じる。
理解した瞬間、それに派生するあれやこれやの他の現象もとたんに説明できるようになり、この世の理を理解できた全能感に包まれてしまう。(もっとも、少し思考を伸ばしてみれば、また不可解な壁に突き当たって、また再考することに多くの場合なるのだが…)

18歳の時にそれまで興味のなかった分野に手を出してみたことは、私に劇的なパラダイムシフトを引き起こした。知り得なかった背景知識を得ることで、これまでの狭い視野では全貌を把握しきれなかった事柄が一気に捉えられるようになってきたのだろう。
多少視野が広がったことは、同時に、自分が知り得ていない領域がまだまだ無限に近い量だけあることに気付かせてくれた。
一度、自分の枠組みを突き破る経験をしたおかげで、その上にはまだ何重層にも殻が存在していることを知ることができたのだ。

だが、この経験をする前と今では決定的に違う部分がある。
それは、「殻の破り方を知ったこと」だ。

少し前までの自分は、漠然とした不安を抱えていて、「自分の人生はこれでいいのか」「こんなことをして生きてていいのか」「自分はそもそも何を知らないのか」「何を知ればいいのか」といった思いに苛まされ、どうしようもなく焦っていた。
そこで私はガムシャラに本を読んだり調べものをしたりしたわけだが、これが少なからず功を奏した。

そうして気付いたことの中で、特に自身の根幹に影響を与えた発見について述べる。

「なぜ人は不安がるのか」

それは『自分が今どこにいるのかを分かっていないから』であり、そして、『適切な手順を踏まずに生活してしまっているから』なのだということに気が付いた。
自分がどういったゴールにたどり着きたいのか、そしてそのために何をしていけばいいのかが明確であれば、自然と物事はうまくいくものだ。

まず自分のできる範囲でいいから全容を知ろうとする。次に、どのような手順を踏めば効率的で無駄がないかを考え、一番手前にあるものから順に処理していく。
この「まず全容を知ろうとする」ことの重要性は、普段の学校の試験勉強の場面などでも大いに実感できるところである。全体量を予め把握しておくことで、未知なるものに対する漠然とした恐怖感が払拭できる。そしてそれを踏まえた上でどのようなスケジュールで処理していけば十分かを最初に検討しておくことで、無駄な体力を消耗せずに淡々と物事をこなすことができる。

そして、やってる途中で前提が間違っていることに気付いたり、手順が適切でないことに気付いたりすることはよくあるが、そんなものはその都度修正していけばいい。

「本当の“最善”のためなら“決定”なんて何回したっていいんじゃねえの?」
            - エディ・J (宇宙兄弟)-


漫画「宇宙兄弟」に出てきたこのセリフは、随分と私の心を打った。

そうして目的意識を持って、ゴールを常に意識しながら生きるのが良いだろう。

とにかく、適当に身を任せて生きてもいいことはあまりない(と思う)。どんな些細なことでもいいから「自分の地図」を作ってから、そのルートを辿るように生きてゆけば、とりあえずは「漠然とした不安感」に苛まれることはなくなる。自分で決めた意見に従って進むことが、何よりの自信に繋がる。

「周りの風潮」や「何故か知らないけどそう決まっているルール」に身を任せるのは、他者に依存した選択だ。万が一その道が瓦解したとしても、それは自分が考えることを放棄して自分が進む行先を他者に委ねてしまった自身の責任であるため、救いがない。
それを人は薄々感じているから、漠然と不安を感じてしまっているのだろう。

ネットですぐさま欲しい情報が手に入るようになってしまい、どこか万能感に浸っている部分が、現代人には少なからずあるのだと思う。
やはりいつの時代も大事なことは「自ら動くこと」であり、自分の選択の根拠を自分の中に求めていくことだと思う。

根拠が自分の外にあるような選択は、無闇にすべきではない。

自分が今までの自分の人生経験をもって、確かに積み上げてきたものを根拠にこれからの自分の地図を描いてこそ、揺るぎようのない自信が手に入るのだろう。
こう考えるようになって、ようやく私の“焦り”は沈静化した。


随分と長いこと述べたが、ほんの数か月前の自分では、上記のことなど1行も書き出せなかっただろう。それほどまでにこの期間に出会った本たちは、私に劇的な思考変革を授けてくれた。このパラダイムシフトというものは人生を豊かにする上で何度も経験していくべきことなのだろうが、その手段は何も読書だけではない。むしろ実体験によるパラダイムシフトの方が遥かに強烈だろう。例えば身内が亡くなったり、自身が大けがを負ったりしたら、誰だって嫌でも人生が変わり、物事の見方が変わるはずだ。

だが、そんなショッキングな出来事を通さずとも変革を起こしてくれる力を持っているのが「本」というわけだ。
2時間程度のバイト代を費やして得られる一冊の本から、2時間では得られないレベルの知見を得ることができる。なんともコスパの良い、そしてローリスクな手法であろうか。これを行わない手はないだろう。
そう思うようになって、最近は本に費用をかけるのを少しも惜しまなくなった。とは言え世の中には思考を阻害するだけの悪書というのも存在するから、購入にはいくらかの注意を払うことは必要である。


と、ここ数か月でこのような経験をした結果、また再び本を読むようになってきたわけだ。ただ、その姿勢は、ただエンタメ感覚でファンタジーを読んでいた頃とは随分違う。
最近は学校の勉強に加えて地政学や世界史といった歴史系のことを並行して学んでいるのだが、そのおかげで年号を目にしたらいつどこで何が起きていた時代かというのを念頭に置きながら本を読めるようになってきた。ただただ目の前にある文を読み消化していくのではなく、背景を考慮しながら読むという術を身につけた私は、「1を読んで2を知る」くらいのことはできるようになってきた。勿論、「1を読んで1を知り、0.5の疑問が湧き出る」ことが大半である。そういう時は、目の前のPCの検索欄にその0.5の情報を打ち込むだけだ。このように、基礎知識を積めば積むほど1を知った時に得られる情報の量が増え、湧き出る疑問も多くなっていき、随分と効率的に、そして有機的に物事を学習することができるようになっていく。


これが、今現在の自分だと言える。とにかく、心の安定を得るための思考回路を手に入れたのが、ここ数か月で一番の目覚ましいレベルアップだと思う。

今、過去の自分を振り返ってその未熟さに気付いたように、数年後の自分がこれを見たらまた未熟だなあと思うのかもしれない。まぁ、それはそれでよい。


こうして「ダレン・シャン」をきっかけに本を読み始めた私という人間の人生は、9才の頃に思い描いていた未来とは全く違う、思いもよらない方向に流れ始めている。これから先どういう本と出会い、どういう友人ができ、どういう思考になっていくのか。今描いている自分の地図は、はたして自分にとって正解なのか。答え合わせができる日を楽しみにしている。


初記事にしてはいささかボリュームが多すぎるが、自身の思考を整理する目的で始めたので、思っていたことを全部吐き出せて満足した。

それでは。

長々と付き合ってくださりありがとうございました。

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