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祖母と過ごした時間が元気をくれた

今年の5月から11月まで約半年間、久しぶりに祖母と過ごした。

2021年の夏に転んでから、今年の5月に帰ってくるまで、ずっと入院していて、コロナ禍と重なったからほとんど会えていなかった。
また12月から入院してしまったのだけど、祖母と過ごした短い時間は僕に元気をくれた。

祖母は、僕が「おはよう」と声をかけると、それだけで喜んでくれた。
「元気?大丈夫?」と声をかけると、「声をかけてくれるだけで嬉しい」と。
だから、僕も嬉しくなった。

祖母と過ごす日々のなかで、小学生の頃に出会った詩を思い出した。
僕は当時この詩がいいなと思って、毎月、クラスで朗読する「今月の詩」に推薦した。

「ねたきりのおばあちゃん」
畑中圭一

うちのおばあちゃんは 
ねたきりやねン
おこづかい くれへんし
おはなし してくれへんし
どこぞへ つれてもろうてへんし
なんにも してくれへん
と おもうていたけど
だいじなこと してくれてはる
いっしょうけんめい 
いきるということや
うちのおばあちゃん 
うごかれへんねン
しゃべること でけへんし
トイレも いかれへんし
ひとりでたべることも ようせんし
なんにも してはらへん
と おもうていたけど
だいじなこと してくれてはる
いつでも 
にこにこわらうということや

子どもといっしょに読みたい詩100
たんぽぽ出版 p88

この詩を読み返したとき、祖母と話すと元気がもらえる理由がわかった気がした。

うちの祖母は、まだ会話ができるし一人でご飯を食べることができる。
でも、僕がYouTubeで1週間前に知ったニュースを、新聞で読んで得意げに話してくるし、何か良いことがあると1日のうちに3回は同じ話をしてくる。
それが、とても貴重だった。

大人になると、有益な話をして人の役に立つことが求められる。問題を解決したり目的を達成するために、建設的に議論を交わすことは、生活するために必要だ。あまりそういうのは得意な方ではなかったけど、僕もここ数年で、少しはできるようになってきた。

しかし、同時にどこかで意味のない会話をしないように気をつけるようになっていた。
早く、正確に、わかりやすく、、
それは確かに必要なのだけど、目的のために必要だから人と話す、ということばかりでは「にこにこわらうこと」や「いきること」の感動を忘れてしまう。そこで求められるのは、生きている人ではなく情報や役割だから。

祖母は、ただ話すことが嬉しくて、僕と話してくれていた。話の内容は関係ないのだ。
「おはよう」「大丈夫?元気?」と声をかけ合うことには、今ここに居ることを認め合う喜びがあった。だから、祖母との会話は僕をいつも元気づけてくれた。

そう、本当は「にこにこわらうこと」「いきるということ」そのひとつひとつこそが、「だいじなこと」だった。そして、そのひとつひとつは、人を元気にし、安心させて、感動させる力を持っている。

「ねたきりのおばあちゃん」が良いなと思った子どもの頃、そのことをもっと純粋な気持ちでわかっていたはずだ。もうあと何年生きられるかわからない祖母も、当たり前のようにわかっているのだろう。そして僕も、忙しい生活のなかで忘れてしまうだけで、本当はいつもどこかでわかっている。



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