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スプリング ハズ カム

日曜日、2年振りくらいに友達のバンドのライブを聴きに行った。友達は好き。ライブも好き。煙草を吸う友達も嫌いじゃない。でもライブハウスに充満する煙草でいぶされた自分のニオイは本当に、それはもう本当に、大嫌い。服の下のブラジャーにすら染みついたそのニオイに誇張ではなく、死にたい気持ちがする。なぜ死にたい気持ちになるのかは自分でもよく分からない。ただ無性に腹立たしくて哀しい。だから、風に当たれば死にたさも春風に乗り幾らか飛んでいくだろうと目黒川沿いを歩いた。Spring has come. 花見客も大勢川沿いにカム。春はいつの間にかやってきて、いつの間にやら去っていく。夏も秋も。冬も。最近の季節は私が幼かった頃よりずっと唐突で気ままで気まぐれになったように思う。いや、単に季節の変わり目に関心を寄せるようになっただけかもしれない。

五反田から目黒まで歩きそれから山手線に揺られ、京王線で迷子になり、最終日の新宿の谷川俊太郎展へ駆け込んだ。


泣き出してしまうところだった。

心臓をきゅっとつままれて、涙腺を緩まされて。


たくさん人がじっと文字を、言葉を、文の連なりを、そして詩を、見つめていた。もしあの展示物以上に谷川俊太郎の言葉が眼前に広がっていたら、私は、もはや泣き出していただろうと思う。無防備に晒された私を私たらしめるものを鋭く刺して離れない。こういう説明でうまくいっているのかは分からないけれど、そういう感覚。刺されて掴まれてどこへも逃げられない。そうだ、逃げられない恐怖だ。言葉の前から、言葉から発されるそのまなざしから私は逃れられない。怖くても泣いても逃げ出したくても、対峙しなければならない。私にとって言葉はそういう存在そのものなのだ。

圧倒的な質量に耐え切れず、一周目はじぐざぐに見て終えた。同時開催の他の展示を見て、お手洗いも済ませ、二周目に挑む。二周目は耐え切れなかった分も一語ずつ読んだ。一連を追い、呼吸をし、もう一度同じ連を読み次に進む。取りこぼしたものはないか、展示室をくるくると周った。ぼんやりする頭で家へ帰り『二十億光年の孤独』を床に積み上げた本の中から引っ張り出し、ただページを開いては閉じてを繰り返した。やっぱりほとんど泣き出してしまうところだったから。

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武中ゆいか
サポート…!本当にありがとうございます! うれしいです。心から。