海の月は揺蕩うだけで、月までの道のりは途方もないけれど
深海を揺蕩う海月のような生物
クラゲという生物がいる。透明で水の流れに揺蕩っている、ゼリー状の生き物。ロマンチックを売りにしている水族館で、クラゲは絶対的なエース。LEDに当てられ透明な身体は色を変える。人は、色を変えるものが好きだと思う。クラゲしかり、四季も、グラデーションも。
ところでクラゲは漢字で海の月と書く。何で海の月なのだろうと調べてみれば、海に浮かぶ姿が反射する月のようだから、だそうだ。
確かに、水面に反射する月は薄いクリーム色さえ分からず、白くて透明で、クレーターが透けて見える。英語ではJelly fish(ゼリー状の魚)。
そんな海の月には、脳も血管も血も心臓もないらしい。けれどプランクトンを捕食し生きている。おまけに毒を持っている個体が多く、人が触れば痺れ最悪の場合死に至る。まるで海に揺蕩う爆弾だ。
私は蝶が苦手だ。理由は羽の鱗粉がとか、虫がとか、色々あるのだけれど一番は飛んでくる方向が分からないから。
奴らは真っ直ぐ飛んでいたかと思うと突然近寄ってきて、まるで蛇行運転、酒に酔って足取りがおぼつかない人間のように予測が出来ない飛び方をする。そんな事されたら避けるに避けられないので止めてくれ。
海月も、これに似たものだと思っている。ふわふわ、ゆらゆら揺蕩って。波の赴くままに攫われ、どこまでも遠くへ旅をする個体もいるかもしれない。ただ海が地上だと考えて、魚が人間だとするなら海月は間違いなく意味の分からない飛び方をする蝶に違いない。
透明だから美しく感じるのか。生きるに辺り必要な気管が透けて見えないから幻想的なのか。もし見えていたら、海の月なんて美しい名前を貰わなかっただろう。
私の世界では何が美しいのか、ここの所そんな事ばかり考えている。
花も季節も道も風も音も、美しい物だけを集めている。それだけを感じている。これは別に自分の世界に篭って出ないというわけではなく、集めて感じてまた新しい何かに出会いたいのだ。
飾る花一つ、聞く音楽一つ、出会う人一人とったって、私はその中に美しさを見出している。
揺蕩う海月のようにどこまでも波間へ攫われて、新しい世界を見たいと思う。けれどやっぱり自分の意思で行きたい所を選びたいから、海月にはなれないのだろうね。まあ毒を持っているという点ではおそろっちだね!はい。
数年振りに元担当さんと会った。私は彼女の事がとても好きで、人として尊敬もしていて、仕事に対する考え方や生き様、物事に対する姿勢一つ取れど自分とは違う世界で生きていて、それが、とても美しくて尊敬できるのだ。
大人になった私は彼女の考えがよく分かるようになって、ああ、自分も同じ選択をするなと思う事ばかりで。時を経て変わった自分に、どれだけ周りから達観していて大人びている、落ち着いていると言われようと、随分子供だったと思う。
そりゃ同年代よりは脳みそ枯れていて達観していますが、そんな話ではないのです。
達観は一種の諦めだと思う。人生において、どうしようもない現実を目の当たりにした人が、どれだけ願っても変わらないという事を知った時、願えば叶う、努力は報われるみたいな幻想はないと理解出来てしまうのだろう。
声をかけ続ければこの人は変わる。諦めず書き続ければ必ず賞を貰える。手を伸ばし続ければ誰かが救ってくれる。人との出会いに時間を削り続ければ運命は訪れる。
そんなもん所詮幻想に過ぎんと、早い段階で気づいたからこうなって今ここにいるわけで。
勿論、続けなければ何一つ手に入らないだろう。でも人生には願っても叶わない事がある。そして、選ばなければならない瞬間がある。
かのオスカーワイルドも、
『人生には選ばなければならない瞬間がある。自分自身の人生を充分に、完全に、徹底的に生きるか、社会が偽善から要求する偽の、浅薄な、堕落した人生をだらだらと続けるかの、どちらかを』
と、残しているように。まあ人生なんぞそんなもんである。
意味を探していた。誰もが生まれたくて生まれてきたわけではないと思っている。そもそも、あの世があろうがそこにいたと言われようが、憶えていないんだから分かるわけないだろう。
人は皆思う。この人生に意味があるのか。何かしらの意味が存在していて、いつかそれに気づくのか。少なくとも私は思っていた。じゃなきゃこんなくそみたいに馬鹿にされ、自尊心をバキバキに折られても笑って居ろなんて、嘆いたらキャラじゃないと言われ不満を現せば駄目な子だと言われ、そんな阿保みたいな時間が許されるはずもないと。
結果だけを言うと、意味は無かった。笑っちゃうくらい、雑巾を絞った後に出る灰色の水みたいになっても救いは無く、世界は鈍色で私は何度も終わりを考えていた。幸いだったのはあまりに折られあまりに迎撃され続けたせいで反骨精神が育ち、終わるなら全員潰してから終わると本気で言えた事に他ならない。
いい意味でも悪い意味でも、何もしてなくても視線を浴びる人間だった。悪い事をしたら他に同じ事をしている人がいても何故か私だけ怒られ、何もしてなくても立ってるだけで視線を浴び、笑えば他人が異常に優しくなった。
未だにその節はあって、でも私もいい大人なので自分が無実でも断頭台に立たされるタイプの人間だと知っているため、身の振り方を考えるようになったわけですが。でも本当に欲しい視線はもらえないの笑っちゃうね。
人生は意味のない物だと気づいたのはいつからだろう。もしかすると、達観していると言われる元はこれなのかもしれない。少なくとも幼い頃に私の人生にはスポットライトが当たらないと気づいた。始まりは恐らくこれ。
そこから、意味を探すものだと思い始めた。どこかに転がっているはずだ。だって散々だったんだから。私、けちょんけちょんだったんだから。どこかに意味が転がっていて、誰かに愛されて、少しでも幸せにならないと割に合わないと思い必死で探していた。
人生は意味をつけるものだと思い始めたのはつい最近の事。散々だった時間を振り返っても何一つ自分のためにはならないと気づいたから。過去は変えられないし、私は戻れない。もし、今の私があの頃の自分に会ったなら救いの手を伸ばせたのかもしれない。でも、それは不可能だ。
不可能だからこそ、振り返るだけの時間が無駄だという事に気づいた。やりたい事、触れたい物、知りたい世界で溢れているのに振り返って立ち止まる時間など私には無いと知った。
歩け。使命感でもない、ただ美しい世界で行きたいから。私が私を誇りに思える日まで歩き続けて。這いつくばる日が来るかもしれないけれど、涙を流し助けてという日もあるかもしれないけど、それでも歩く。だって歩かないと、私の行きたい所には辿り着かない。
意味を探すのは酷く人任せだと思った。だって誰かが必要としてくれるとか、誰かが見つけてくれるとか、ずっと、他人に期待しているから。どこかに意味が落ちているのだと思っている。誰かに与えられるのだと思っている。そんな馬鹿みたいな事、私の人生にはないととうの昔に知っていたというのに。
なら意味をつけようと思った。人生なんぞそんなもんで、でも自分なりにやりたい事で色を付け、会いたい人と縁を結び、美しい物で囲われて息をするような。木陰で眠る春のように、指先で描き波に攫われた想いのように、私の人生はそんな些細で美しい物で溢れています。それが意味ですと言ってやりたい。
どこかで誰かが馬鹿にしても、もう大丈夫だ。だって私は自分の価値を知っているから。誰かに決められる価値ではなく、私自身の価値を絶対的な意味を持っているから、揺蕩う海月のように人任せではなく。
私の足はちゃんと地面に着いていて、私の脳は銀河系の向こうまで広がっていて、この目は幻想にする気のない未来を見つめている。
努力は報われるとか、人は救われますとか言う気はないけれど。
私は私がやればやり切るまで死に物狂いで続け、どんな形にもする事をもう知っているから。自分への絶対的な信頼を得たから。もう大丈夫。
海月は揺蕩っていた。砂浜に落ちた死骸は、揺蕩った先に辿り着いた旅の終わりだ。海の月と言われたそれも、打ち上がってしまえば月でも何でもない半透明のぶよぶよした生命体だ。
私は思う。どうせなら月がいい。海の月じゃなく、本物の月。手は届かず永遠にその地には行けないだろう。けれど、死してもきっと、どこかで行き着くと本気で思い行動していればそれは必ず叶う。
人が想像する物事は叶うと言った誰かのように、私は私が思った物事を叶える事が出来ると信用しているので。
陽の光は深海まで届かない。人生は先の見えない暗闇を泳ぎ続けるような物だ。買ってもらった切符で生きる人には分からない不安感。それでも、人は泳ぎ続け光の方向へと足を進める。
夜明けはきっと、求めて行動した人間に与えられる、一種のご褒美なのかもしれない。