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Planetes
彷徨う者たちへ
『アテンション、アテンション――プロジェクト・ノアが地球から離れて、本日で1252万8750年が経過しました』
『青き星は人々の度重なる愚行により息を止め、残された僅かな人類はこの
宇宙船に乗り、人類が住める土地へ向かうべく、長き航海を始めました』
『24万3750年、宇宙船内にいた人類の60%がティガーン星へ移住。文明は発達したかに思えましたが、信号が途絶え生命が消えた事を確認』
『216万4500年、船内にいた20%の人類がK2-18bに移住。高温の環境に耐えきれず、生命は3000年後に絶滅』
『487万2800年、船内で発達した文明による戦争が勃発。戦いは863万7348年まで続き、船内の人口は著しく低下』
『921万1250年、文明が統一され人口が上昇』
『1200万751年、増え過ぎた人口を危惧した人類が再び戦争を始め、宇宙船の70%が損傷。プロジェクト・ノア防衛機構により、90%の人類を損傷した箇所と共に乖離』
『1252万8000年、再び争いが勃発。プロジェクト・ノア防衛機構作動。遺伝子配合の結果最良のペアを100組残し、残りの人類を排除』
『1252万8600年、船内の機能は98%停止。修復は不可だと判断。残りの人類を急ぎ居住出来る星へ届けるため、宇宙船を大幅に乖離』
『それに伴い人類は急激に減少』
『現在、エンジンルーム、及び10人までの生活を賄うシステムを残し、プロジェクト・ノアは旅を続けています』
『現在、人類は――』
青灰の広い廊下を歩く。重力システムを導入されている船内に、ぺたぺたと足音が鳴った。足の裏から伝わる温度は冷たく、慣れ親しんだ機械音の中に紛れる異物。それを咎める人間はどこにもいない。
少女は紙の束を持っていた。装丁はいつ無くなったのか、汚れ、霞み、印刷された文字さえ見えぬほど色の変えたボロボロのそれを大切に抱きしめ歩く。
行き先は当てずっぽう。けれど恐らく、ここにいるだろうと少女は分かっていた。歩く事30分。扉の前で立ち止まる。少女が来た事に気づいた扉は勝手に開いた。
広い部屋。上質なシーツがかかったベッドとソファー、透明なテーブルにはホログラムが浮かび上がっている。家具はそれだけ。仕切り一つない大きな窓は部屋の一面を支配していた。真っ暗な宇宙が広がって、わずかに青い光が届いている。
窓の前、一人の青年が床に座っている。飾り気のないシャツは見た目こそシンプルであるものの、部屋と同じ上質な物である事が分かる。少女は自身の服の裾を摘まみ青年に声をかけた。
「ツヅミ」
呆然と広がる宇宙に目を向けていた青年、ツヅミが頭を後ろに傾ける。柔らかな灰色の髪が流れ、薄水色の瞳が少女を捉えた。
「新しい服?」
「そう。似合ってる?」
「また生産ユニットの無駄遣いしたの?」
「無駄遣いじゃない。10人分の生産ユニットなんだから、8人分が勝手に動くくらいなら意味のある事をしないと」
「君はいつもそんな調子だな」
「似合ってる?」
「……似合ってるよ、セレネ」
セレネと呼ばれた少女は淡い銀の長い髪を揺らし、エメラルドグリーンの瞳を隠すよう瞬きをした。真っ白な肌にまとう真っ白なワンピースは両肩を出す形で、ツヅミは溜息交じりに自分の隣を叩く。セレネは柔く笑みそちらへ足を進めた。
「ちょっと待って。何で裸足?」
「コンセプト」
「はぁ?怪我でもしたらどうすんのさ」
セレネはそんな事起きないのに、と頭の中で独り言ちた。完全に管理された船内に自分たちを傷つける物は存在しない。
それも、1252万年の歴史の中で人類が起こした愚行のせいである。
地球と呼ばれた青い星を去る結果になったのは人類が星を壊したからなのに、人は争う事を止められなかった。人種、肌の色、性別、宗教、性的思考、考え方。ありとあらゆる理由をつけて戦い合い、宇宙へ捨てられた。
箱舟は人類を生かすため人を傷つける物を奪い去った。私たちに残されたのは、古びた倉庫に残された歴史の欠片と箱舟が用意する暇潰し用のデータの数々。勿論、地球時代から残されたデータの全てを読み終える事は、寿命が地球時代から延びていても出来ない。
「ゲームは止めたの?」
「終わったよ。ストーリーは微妙だったかな」
「何点?」
「60点」
箱舟内に残された人類が二人だけになってしまったのは、100年前、98%の機能を停止したこの船に希望を抱けず自死した人類が後を耐えなかったからだ。ダクトに飛び込み宇宙へ放出されるのが首を吊るより手軽に出来る自殺方法。
セレネの両親は一家心中を試みたらしい。らしいと言うのも、本人は憶えていないからだ。しかし、防衛機構が作動しセレネだけが残されコールドスリープ装置に入れられた。起きたのは30年前、残された人類はツヅミだけになっていた。
ツヅミは長い間コールドスリープ装置に入っていた。いつから入っていたのか、セレネは知らないが、30年見た目が変わらぬ所を見るに、自身とあまり歳が変わらないのだろうと推測している。
「それで?コンセプトって?」
隣に座ったツヅミはセレネを一瞥する。セレネは手に持っていた紙束を差し出した。
「海の正装」
「はぁ?」
本日二回目の反応にもセレネは臆さない。何故ならツヅミはいつもこうだからだ。
「この書物に書いてあったの。地球時代2000年頃、海のあるリゾート地では白いワンピースというドレスに素足で波を感じていたって」
ここにも、ここにも。セレネは紙をめくり指を差す。どれだけ精巧なホログラムでも、本物の海を知らない彼女にとって、地球時代の文献は夢物語だった。
「海はしょっぱい。貝という生き物の死骸が落ちていて、浅瀬には魚と甲殻類も住んでいる。海全体の95%が人間が生身でいけない深海。そこは解明されていない未知の領域である」
「結局、人類が深海を解明する事はないまま地球が滅んだわけだけど」
「何があったんだろうね」
「さあ」
ツヅミは窓に目を向ける。変わらず闇が続いていた。
「宇宙と大して変わらないんじゃない?」
「もしかしたら宇宙の方が光があるかもしれないね。光が届かないらしいし」
「まあ、宇宙は確かに闇だけど、真っ暗なわけではないからな」
ツヅミは再びセレネを一瞥する。
「海にいた人間が、皆こういう服装をしていたわけじゃない」
「でも書いてあるよ?」
「どこか記録無かった?」
映像記録はあまりに膨大で探す事さえ難しい。セレネは頬杖をつく。
「この格好結構好き」
「この前は着ぐるみ着てたのに」
「あれはあれで良かったんだよ」
笑うツヅミにセレネは目を細める。たった二人の航海が始まった30年前。互いに距離を測りかね、数年が経過したある日、先に折れたのはツヅミの方だった。
『二人しかいないんだから仲良くしよう』
それから共に過ごす時間が増え、二人は徐々に距離を詰めていった。友人、恋人、家族、そのどれもが当てはまるように思えるが、明確な関係性を現す言葉は存在しない。
箱舟が言うには人類は二人以外とうに滅んだようだが、セレネはまだ分からないと考えている。滅びたと言われているティガーン星やK2-18bにもまだ、生命が存在している可能性はある。箱舟が必ずしも正しいわけではない気がするから。
そう考えた方が心が安らぐからなのかもしれない。
そうでなければ、銀河系の片隅でたった二つ、寿命のある生命体が彷徨っているだけになってしまうからだ。
箱舟にとって、二人はアダムとイヴである。新天地につき、そこで新たな生命を生み出す役割だ。現にセレネとツヅミの生殖細胞は凍結保管されており、優生遺伝子を持つ人類の細胞もまた、箱舟内に保管されていた。
箱舟は次に辿り着いた人類が住める星で腰を据え、これらの細胞を解凍、繁殖を試みるだろう。フラスコベイビーは300万年ほど前まで違法ではなかったが、戦争のための手駒を作るべく大量の遺伝子が使われた事で禁止され、人類は旧式の繁殖方法を余儀なくされた。
しかし、それでは確実な繁殖が出来ず、結果箱舟のシステムの元、遺伝子相性が良しとされるペアのみフラスコベイビーを作れる事が決まった。旧式の繁殖は続いていたが、優生遺伝子を持ち生まれた人類が箱舟内を仕切るようになり、人々は遺伝子相性に全てを任せる結末となった。
しかし、愛情や性欲は別物であり、その行為自体が無くなる事はなかったらしいが、それもまた人間らしい結末なのだろう。
「もうすぐベテルギウスに辿り着く」
ツヅミの言葉にセレネは思考の世界から戻された。
「星は生きてるのかな」
「分からない。でも地球時代から無くなるのではないかと言われていた星だから、着いても何もないかもしれないね」
ベテルギウス。オリオン座の赤い星。セレネは星座の知識があまりない。ある事にはあるが、点と点を線で結ぶ様を想像できないのだ。何せ生まれてからずっと、宇宙を漂っている。
「もし生きてたら人は住めると思う?」
「無理」
「即答……」
「大気のない星に人類は生きられないよ。1252万年経ったくせに、酸素が無いと生きられない身体なんだから絶望的だ」
箱舟内の酸素は生産ユニットで作られている。吐き出した二酸化炭素はエネルギーとして変換されこの船を生かしている。
「人類はもっと進化すべきだった。寿命以外変わった所が無い」
「戦いばかり続けていたからね」
「大気のない状態でも生きられるようになれば、今頃どこへだって行けたよ」
そんな事を言っても仕方がない。セレネは諦める。ツヅミはいつも人類に対して悲観するが、全ては過去の事で今いるのは二人だけ、考えたってどうしようもないのだ。
「そういえば、あのパズルは出来た?」
「あと少し」
暇を持て余したツヅミが生産ユニットを大幅に使い、部屋の窓一面を隠すほどの大きなパズルを作ったのはセレネが目覚める前の事だ。一度こっそりのぞき見た事があるが、何の柄かは分からず、床に散らばった膨大なピースにセレネは青ざめるだけだった。
部屋は彼のパズルルームとして使われているが、元々居住用の部屋は10もあるので一つ潰れた所で何ら問題はなかった。
「それで、まだ見せてくれないの?」
「出来上がってからね」
ツヅミは頑なに見せるのを拒んだ。パズルが完成しない限り、セレネはその部屋に入れなくなった。実際鍵はかかっていないので入ろうと思えばいつでも入れるが、ツヅミが嫌がるのを分かっているので行動には移さずにいる。
「ヒント教えてよ、何の絵か」
「内緒ー」
「わざわざジグソーパズルなんて太古の文明を選んだんだから、写真の可能性もあるね。映像かな?」
「見てのお楽しみかな」
30年以上取り組んでいるパズルに何が映っているのか、セレネは興味津々だった。それ以外、好奇心の惹かれるものが少ないのもあるだろう。24時間、ただ与えられるだけの生活。暇ならシステムに相談すれば、時間を潰す物を沢山貰えるが、それでもやらなければいけない事でもない。
人は程々にやらねばならぬ事がないと腐っていく。
多くの人類が自死した理由の一番がこれだろう。ここまで旅を続けてきて、新天地で文明を築く事が人類に課せられた使命なのに、それがいつまで経っても叶わない事へ絶望したのだ。
時折、腐りそうになる感覚をセレネが襲う。その度にツヅミと言葉を交わし、死にかけた心を回復していった。人類は皆そうやって生きてきたのだろうが、今はツヅミとセレネの二人きり。どちらかが死ねば、全て終わってしまう気がしていた。
「とりあえず、ベテルギウスがまだ生きてたら見えるかな」
「眩し過ぎてまともに視認出来ないと思うけどね」
「赤色なんだよね?」
「地球から見た星は赤だったけど、爆発間近なら温度が上昇して青くなっているはず」
「――きっと、目が焼けるほどの光だ」
ツヅミは呆然と窓の外を眺める。その横顔は、全てが終わって欲しいと願っているようだった。セレネは立ち上がりテーブルの上に置かれたクッキー缶を手に取る。
「食べる?」
「僕はいらない。全部食べていいよ」
「相変わらず小食。食べないと人は死ぬんだよ」
「僕は死なないから大丈夫」
チョコチップの入ったクッキーを口に運ぶ。砂糖の甘さにセレネはうっとりした。彼女のお気に入りであるこのクッキーは、地球時代から受け継がれてきた伝統的な製法により生み出されているものだ。栄養価は低く、身体に良いとは言えないためシステムは彼女に与えるのを避けているが、心の健康のためだと言い張り毎度クッキーを作らせている。
小食なツヅミが食事をするシーンを見かける事は少ない。そもそも、食事を取らずとも与えられた栄養カプセルだけで全てが賄える。けれどセレネは食に関してこだわりを持っていた。それは恐らく、彼女が旧人類の生活に夢を見ているからだろう。
セレネが長い眠りから目覚めた時、目の前にいたツヅミは困ったように笑った。何も憶えていない彼女に全てを教えたのは彼だ。宇宙生活も数年経てば慣れたもので、自分の知らない世界――つまり既に滅びた地球に憧れを抱いた。
以来、彼女の関心はいつだって地球にある。色を失い崩壊された星が生きていた頃に。
クッキーをかじりながらぼんやりと考える。ベテルギウスまではあと数日で辿り着くだろう。そこに星があればいいと、何となく思いながらツヅミに背を預けた。
『アテンション、アテンション――まもなくベテルギウスを通過します。星は強い光を放ち、人体に大きな影響を与えるため、全ての窓を閉め切ります。次に開くのは5年後です』
ぺたぺたと音が廊下に響き渡る。セレネは今日も一人、船内を彷徨っていた。せっかくベテルギウスが見られると思ったのに、システムはそれを許さないらしい。おまけに次に宇宙を見られるのは5年後。閉め切った空間で二人は生き続けなければならない事が確定した。
「見たかった」
ぽつりと呟いた声は反響する。こんな時はツヅミと一緒にいたい。けれどその姿は見当たらなかった。
恐らく、あのパズルの部屋だろう。セレネの足はそちらへ向く。入るのははばかれるから、扉の前で待てばいい。自分がいる事を、彼はすぐに理解するはずだから。不意に足を進めた時、足元に小さなピースが落ちている事に気づいた。
「あ……」
つい先日の事を思い出す。ツヅミはもう少しで完成だと話していたが、その後ピースを失くしたかもしれないとも。
服に付いていたのだろうか。深い濃紺のピースは小指の第一関節にも満たない大きさだが、傾けるとホログラムのようにキラキラと輝く。宇宙のようだと思ったが、それにしては色が明るい。一面は僅かだがオレンジにも見える気がする。
「届けなきゃ」
ピースを握り締めたセレネは歩き出す。これを渡せば完成品を見せてくれるかもしれないと思いながら。
部屋の前に着き声をかけた。
「ねぇ、ピース落ちてたよ」
扉越しにくぐもった声が聞こえた。
「……入っていいよ」
「え?」
「それで完成するから」
緊張しながら扉に手をかける。スライドは簡単に開かれた。
「これ……え?」
ピースを渡すため、一歩踏み出した瞬間。
目の前の光景に目が奪われた。
窓一面を隠すように埋め尽くされたパズルが反射する。
それは、海だった。
太陽という惑星の光がまだ届いていた頃の光景。夕闇から夜に変わる空が、海に反射し煌めいている。夜空の頂点には赤い星。浅瀬に、白いワンピースの女性が笑いながら水遊びをしていた。
セレネと同じ顔の女性が。
「これ私?」
一歩ずつ、魅入られるようにそちらへ近づく。ツヅミは何も言わなかった。宇宙より明るい紺碧の空。落ちる陽が反射するワンピースは見た事のない美しさを纏っている。飛び散る水滴さえ色を映し、一枚の写真が、まるで動いているように思えた。
美しいパズルに一つ、疑問点が浮かび上がる。
「これ……本物の写真?」
パズルの下側に浮かび上がる文字は、これがオリジナルの画像である事を証明していた。合成であればこの文字は浮かび上がらない。それは人を騙すため数多の偽物が横行した影響で、オリジナルの物には必ず署名が浮かび上がるのだ。
しかし、セレネの記憶にこの場面は存在しない。
「私のそっくりさんと会った事があるの?」
記憶にないのなら恐らくこれはセレネではない。遠い昔に生きていた自分の祖先である可能性も否定出来なかった。けれど、ツヅミは口を開く。
「これは君だよ」
ツヅミはセレネが持っていたピースを受け取る。
「地球時代2008年7月18日午後6時3分、ある海街にて」
そして、そのピースを握り締め砕いてしまった。
「ある人は星が見たいと言った。手の届かない場所にある星をこの目で見てみたいと」
「けれど願いは叶わなかった。何故ならその人は重い病を患っていたから。やがて永遠の眠りにつく前に、一人はある決断をした」
「それは、最愛を生きたまま凍らせて保管する事」
「一人は諦めなかった。いつかその人が元気な姿でまた笑える日まで」
「何年もの歳月を費やし、肉体はとうに終わりを迎えても尚、望みを叶えるべく自身の代えを生み出した」
ピースを握り締めたツヅミの手の平の肌が破れ、中から金属と回路が現れる。
「そして人類が滅ぶ日に、一人の遺志を継いだ代わりは箱舟を生み出し、最愛を乗せて旅を始めた」
「いつか、ベテルギウスに届くまで」
ツヅミの瞳に光線が走る。それは電子クローン特有の信号を送る動作だった。言葉を失ったセレネは震える唇で言葉を紡ぐ。
「その、一人は……遺体は……どこにあるの?」
「地球の海に沈んだ。星は滅んだから、もうこの世界のどこにも存在しない」
「私……は……」
時折、夢を見ていた。どこかの星で笑いながら歩く姿。隣には誰かいて呆れながらもセレネに対し微笑みかけている。セレネはその夢が大好きだった。幸福とは、こういう形をしていると思っていたからだ。
けれど、それが夢ではなかったのであれば。
「私は、地球で息をしていた」
呟いたその時、欠けたピースの隙間から赤い光が差し込んだ。あまりの眩しさに目を覆う。しかし、ツヅミは呆然とそちらを見ていた。
「君が見たかった星だ」
自然と、頬に熱が伝った。セレネにはその理由が分からない。けれど何かが満たされる感覚に、一歩、また一歩と光の下へ近づく。ツヅミは彼女の手を取った。
「星が爆発する瞬間だ」
ツヅミの言葉に、セレネは止まらぬ涙を拭う事さえせず光に魅入られていく。
『アテンション、アテンション――ベテルギウス爆発により船内の温度が上昇。このままではプロジェクト・ノアは溶解します。急ぎ軌道を変え本領域を離脱します』
『全隔壁シャットダウンまで残り30秒――』
「ねぇ」
「ん?」
ツヅミは優しくセレネの手を包み込む。
「私、ずっとこれを見たかったのかもしれない」
光が隙間から部屋全体を照らす。
「だろうね」
上昇する温度に響く警告音。セレネはパズルを思いっきり叩いた。
瞬間、熱が全身を襲う。
「君の願いを叶えるための物語だったんだから」
最期に、ツヅミがふっと、笑った気がした。
「ねぇ、海行こう」
「駄目。自分の状況分かってるの?」
真っ白なベッドの上、彼女は頬を膨らませた。
「徒歩10分の所にあるんだよ?行って帰るのはすぐじゃん」
「それでこの前体調を崩して生死を彷徨ったのは誰だよ」
「誰だろう……」
「君だよ」
ツヅミは溜息を吐いた。最愛は俯き拳を握り締める。
「……どうせ、そう遠くない未来で叶わなくなるんだから、いいじゃん」
「……君さ」
「終わりくらい、自分が一番分かってるよ……」
すんと鼻を鳴らした最愛に、ツヅミは結局折れてしまう。それを見越したうえでこのような行動に出ていると知っていながらも折れるのは、彼女の言葉通り、終わりはすぐそこにあると分かっているからだ。
「……30分だけだよ」
途端に目を輝かせる最愛の額を現金な奴めと小突く。それでも彼女は嬉しそうに笑っていた。
「行こう」
海まで手を繋ぎながら歩く。段差に上りバランスを取る彼女を支えながら、陽が沈んでいく水平線を眺めた。靴を脱ぎ白砂を踏み締めはしゃぐ彼女に呆れながらも、この瞬間が一秒でも長く続けばと願ったのは何百回目だろうか。
「見て、ベテルギウス」
上空に浮かぶ赤い星を指差した最愛は口を開く。
「いつか実物を見てみたいな」
「見てるじゃないか」
「光をね。そうじゃなくて、本物の星」
人類が宇宙を自由に行き来するまでどのくらいの時間を有するのだろうか。地球が滅ぶ方が早い気がする。
「既に爆発している可能性もあるけど」
「もう少し待って欲しいなぁ」
「何で?」
その言葉に最愛は楽しそうに笑った。
「どうせ死ぬなら星の爆発に飲まれて死にたい」
非現実的で後ろ向き、絶望しかない言葉。けれど、最愛の願いを一人は叶えようとした。
生きている限り。希望がある限り。この身が滅びようと。人類全てを犠牲にしようと。
ただ馬鹿げた願いを叶えたかった。
やがて最愛は一人に笑いかける事さえ無くなってしまった。残された一人は生涯をかけて病を治す術を研究した。しかし、人の一生では答えに辿り着かず、一人は自身と精巧なクローンを作り夢を託した。
クローンはクローンへ受け継がれ千年もの時を経て、ようやく答えに辿り着いた。そして、同時期に地球が滅びる事を知った。
クローンは考えた。箱舟を作ろう。最愛に星を見せるため。二人だけで旅をしよう。けれど、箱舟は人類を乗せ新たな星へと旅立つ船と化した。
人の住める星に辿り着く度、クローンは人類を下ろし新たな文明を築くよう促した。争いが起き、人々が死んでいく最中でクローンは箱舟の心臓部に隠した最愛を守り続けた。
病を治し、寿命を調整し、クローンは最愛へ尽くし続けた。1252万年もの間、クローンはクローンへ最愛を受け継いだ。そして、30年前。
ベテルギウスに辿り着く前に、クローンは最愛を起こしてしまった。
何故なら最愛を生かすためのリソースとクローンを生み出すリソースのどちらかを選ばなければならなくなったからだ。クローンは迷わず、自身の犠牲を選んだ。最後のクローンは、最後の人類が生きるため新たな身体を生み出す事を止めた。
けれども最愛を残す事になる。それを理解したクローンは、一人が夢見た幸せを叶えるべく最愛を起こした。
全ては最愛のために。
地球で夢見た叶わぬ願いを叶えるために。
『アテンション、アテンション――プロジェクト・ノアは最後の人類を失ったため航行を終了します』
『同時刻、秘密裏に行われていたプロジェクト・セレネが完遂しました事を報告します』
『1252万8750年の旅路を、宇宙に生きる生命が存在するのであれば』
『どうぞ、この記録を受け取り繋げてください』
『私たちは最期まで――宇宙という海を泳ぎ続けたのだと』
地面に転がる記録を手にした。言葉は分からない。
けれど命は確かにそれを受け取った。
命は、宇宙の片隅で今日も彷徨い続けている。
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