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ホーチミン Ho Chi Minh
おはようございます。
シンガポールに帰ってきましたゆうです。
2025はゆうというハンドルネームを漢字にしたいと思うのですが、旧ネームの有位置から有を取ると、あまりにもダルビッシュ感が出てしまいおこがましいので、悠とか雄とかにしように思う。
至極、どうでもいいですよね。失礼しました。
ちなみに有位置はYUKIのプロデューサー蔦谷好位置リスペクトでした。
名は体を表すといいますが、ホーチミンは複数の名前を持っていたそうです。ペンネームみたいな感じですかね。
1番インパクトがあるのは、グエン・アイ・クォック(阮愛国)です。発音が日本語と近いですね。
ホーチミンは漢字では胡志明と書くそうです。
昨日、相方のひとに現地通貨ベトナムドンを預かってもらったのですが、びっくりすることがありました。
まず、ベトナムドンには硬貨がありません。
紙幣のみです。
硬貨単位の紙幣は小さくて人生ゲームのお金みたい。
おそらく1000ドン(6円)が最小紙幣です。
2000、5000、10000、20000、50000、100000、200000、500000(約3千円札)という感じでした。
桁多くて対円の換算レートが計算しづらく、間違えやすいです。
10000ドン払うところで100000ドン払ったりしました。
違うよーと優しく訂正してもらいました。
日本円への換算方法はゼロを3つ取って6掛けと学びました。
ただ、最大紙幣が約3千円の価値なので、某インドネシア通貨ルピアの最大紙幣約千円より3倍大きいです。
なので、お札でお財布パンパン、大富豪だ。
という感じにはなりません。
話逸れましたね。戻します。
これだけでも珍しいですが、さらに興味深いのは、、
すべての紙幣、ホーチミンの顔が印字されています。
これは色んな国の紙幣を見てきましたが、僕が見た中ではベトナムだけです。渋沢栄一、津田梅子、北里紫三郎を合わせてもまだ硬貨単位の紙幣分たちの“おつり”がくる感じです。貴方がホーチミンへ行って両替をするとホーチミンさんの精悍なお顔がお財布に溢れます。
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All Ho Chi Minhのベトナムドンですが、ホーチミンさん、風貌がまるで孔子のようです。
ヒゲを孔子風に長く伸ばしていて、孔子リスペクトを感じます。
そしてモノクロ写真は俳優のように整った顔立ち。
wikipediaによると、父親は儒学者で幼少から論語を学び、中国語を習得。国学であるフランス語も学ぶように。当時ベトナムはフランスの植民地フランス領インドシナでした。
在学中には農民の抗税運動に参加してフランス当局に目を付けられ、退学処分になっています。当時1910年頃です。
日本では韓国併合、関税自主権の回復、明治天皇崩御、大正時代へ改元。1912年、乃木希典(まれすけ)が殉死します。
1911年6月、ホーチミン青年21歳は船の見習いコックとして、1ヶ月間の航海を乗り越えてフランスのマルセイユに到着します。
ちなみに私は中学生の時にゴミ捨て場に乗り捨てられた自転車を友達と乗り回してお巡りさんに目を付けられ、2011年8月、21歳でジャカルタへ交換留学に出ました。
ちょうど100年の時差で2人の青年は不安とそれ以上の希望を胸に外国の地を踏みしめたことになります。恐れ多いけど親近感が湧きます。
ホーチミンさんにはゴミチャリんこかっぱらい坊主と正義の為の学生運動を一緒にするなとどやされそうですね。
彼は論語や外国語教育を早期に施された上流階級のエリートです。僕はベッドタウンの中流よりやや下流よりのどこにでもある平凡な家庭で育ちました。ぜんぜん親近感湧きませんでした。すみません。
このペースだと皆さん飽きちゃうと思うので、
くだらない茶々は省いてここからは駆け足を心がけて見ていきます。
興味ある方は時間を取れる時にwikipediaを読んでみてください。
外国での新しい学び、特に、フランス人にも貧しい人々が存在して、一様ではないことを発見。その後役人の父が罷免されたり、学校に進学出来なかったり、苦難があり、「世界を見てみたい」と船員として各国を回った。
1913年、アメリカ合衆国を離れたホーは英語を学ぶ為にイギリスへ移住。1917年12月にパリへ戻った。これも2017年7月にジャカルタから日本へ帰国した私には他人事とは思えません。頑張れホーチミン。
この年にロシア革命が発生。レーニンを支持するように。
ロシア革命はロシア帝国がソビエト社会主義共和国連邦へ変革した出来事です。
マニラに住んでいてたまにシンガポールへ出張に来てご飯を一緒に食べてお茶する友達のYくんはモスクワで駐在員をしていたので、
今度ロシア革命に興味があるか聞いてみます。
パリではホーチミンが政治活動を本格化。
1919年フランス社会党に入党。
ベトナム地域を代表して議会に「安南人民の要求」という嘆願書を提出します。
2020年にシンガポールから本社へ渾身の投資企画書を提出した私。また勝手に親近感。恋はいつだって盲目で身勝手。
結果も私達は同じ運命。
嘆願書はパリ講和議会で採択されなかったものの、
グエン・アイ・クォックの名は穏健なナショナリスト(民族主義者)として名が知られることに。
私の企画書も一通の短いメールで却下されますが、その後偉い人に直接嘆願したヤバい奴ということで一目置かれたとか置かれなかったとか。
1920年7月、フランス社会党の機関誌にレーニンの
「民族問題と植民地問題に関するテーゼ原案」が掲載された。
感銘を受けたホーは共産主義に傾倒。
しかし、あくまで本質は民族自決すなわちベトナムの独立を目標としていた…
ここまでで約30~31歳となります。
ここからのホーチミン氏の人生追体験はまた明日、
続きを書いて行こうと思います。
皆さんいかがでしたでしょうか。
センシティブな内容、私のくだらない冗談や駄文で気を悪くしてしまった方がいたらお詫びします。
ホーチミン氏の政治思想や語り継がれる実績にかかわらず、愚直な民族主義者として、また論語と民族愛を軸に諸外国を回り自分に出来ることを精一杯やる国際人として、彼を心から尊敬します。
最後に、もし彼が僕のタンジョンパガーに浮かぶ空中要塞へ遊びに来てくれるなら、この曲を一緒に聴いて、世界のお土産話と英国時代の苦労を、EnglishBreakfastの紅茶を飲みながら、ゆったり聞いてみたい。彼は2024年7月をどう見るんだろう。
ホーチミンさん、聞いてくれ。
僕はさ、留学時代、エアコンのない部屋で父から備品が余っているともらった分厚く重いThinkpadを広げて、母校の大学教授を目指すか、国際駐在員を目指すか、迷った時があるんだ。
大学院に進学するお金を工面するのが大変だったのもあるし、当時付き合っていた年上の彼女を放っておけないのもあったし、大したことは言えないんだけど、より沢山の人に繋がれる人生はどちらか、考えた時に、ただでさえ内向的な僕が大学という固く閉鎖的にみえる組織にいたらなんというか、縮こまってしまう気がしたんだ。学問は好きだし、学生と一緒に研究する仕事は魅力的だったけどさ。
僕はあの時の選択、これでいいと思っている。
だってこうやって、貴方を知って繋がることが出来たから。
だから明日も貴方の歴史を追いかけて憧れることを温かく見守ってくれると嬉しいです。