朝の挨拶2001014 読むRadio
Good morning, everyone. おはようございます。
10月14日水曜日。ナナカマド。
本日は、鉄道の日。
鉄道の日(10月14日 記念日)
日本国有鉄道が1922年(大正11年)に「鉄道記念日」として制定。
1872年(明治5年)10月14日(旧暦9月12日)、新橋駅(後の汐留貨物駅、現:廃止)~横浜駅(現:根岸線桜木町駅)を結んだ日本初の鉄道が開業した。また、1921年(大正10年)10月14日に鉄道開業50周年を記念して東京駅の丸の内北口に鉄道博物館(初代)が開館したことを記念したものである。JR発足後の1994年(平成6年)からは運輸省(現:国土交通省)の提案で「鉄道の日」と改称され、JRグループ以外の民間鉄道の記念日にもなった。
朝ルーティンの時間
本日のお茶はローズヒップとハイビスカスのブレンド。
天気はくもり。5時の気温は室内19℃。湿度57。
外気温9℃。
冷えると思ったら気温ひとけた。
鉄道。
を紹介。
『鉄道唱歌第一集 東海道編』
作詞:大和田建樹、作曲:多梅稚(おおのうめわか)
『鉄道唱歌』は、明治33年(1900年)頃に発表された唱歌。
第一集:東海道篇、第二集:山陽・九州篇、第三集:奥州・磐城篇、第四集:北陸篇、第五集:関西・参宮・南海篇の計5集334番が1900年に集中して発表されたという説がある。その他としては、1962年に発見された『北海道唱歌』や作詞を担当した大和田建樹の郷里を歌った『伊予鉄道唱歌』を本編に含めた「全六集374番」または「全七集399番」とされる。
第一集東海道編第1番の歌詞「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり」は広く知られている。鉄道好きで知られる歌手の徳永ゆうきが、連続テレビ小説『エール』オーディション参加者役として登場、歌を披露した。間奏では駅員の声色でアナウンスをするなど、大きな反響を呼んだ。
日本一歌詞が長いとされてきたが、1987年に発表された「石坂まさを一人旅して―全国我が町音頭」に記録を大幅に塗り替えられた。カラオケでは鉄道唱歌第一集66番をすべて歌うことができ、その曲長は28分40秒(DAM)。カラオケ収録曲としては有数の長さを誇る。
CD集は、ボニージャックスが334番全集(北海道編は含まない)、キドブラザーズが省略せずに399番(山陰鉄道唱歌、中央線鉄道唱歌)。を収録している。
実は”地理教育”の歌
実はこの唱歌、オリジナルの表紙には「地理教育」と書かれている。
当時は歌による知識習得という教育方針があり、版元はこの方針に乗って鉄道唱歌の販売数を増やす意図があったよう。
沿線の地理や歴史、民話や伝説、名産品の紹介を織り込んだこの曲は、大人の間でも人気となった。
この歌を企画した出版社「昇文館」はすでに経営危機。『第一集東海道篇』を発売するも、ほとんど売れず倒産。版権を譲り受けたのが、大阪の楽器店(現在の三木楽器)を営む三木佐助だった。
江戸時代より「往来物」と呼ばれる宿場町を覚える歌や、鉄道開業後に「レールエ節」と呼ばれる鉄道沿線を紹介する歌が存在したため、三木は再度出版する際、列車の借り切りや音楽隊の演奏などの大宣伝を繰り返した。
奇抜な広告戦略の効果もあって歌は大流行、書籍も大正初期までに総計2000万部を売ったという。
人気になりすぎて、『鉄道笑歌』など多くの替え歌が存在する。
作詞の大和田建樹ってどんな人?
作者の大和田建樹は、安政四年(1857年)伊予国宇和島藩(現在の愛媛県宇和島市)に生まれる。幼少より高文学に親しみ、書道・四書・和歌・俳句を学んだ。
1876年(明治9年)広島外国語学校に入学するも、母死亡のため退学。3年後に上京し、英語・ドイツ語・ラテン語といった外国語や博物学、哲学を学ぶ。1880(明治13)年、福澤諭吉が創設した「交詢社」の書紀となり、東京帝国大学古典講習課講師を務め、翌年東京高等師範学校(現:筑波大学)教授に就任。1891年(明治24年)に退職(このとき34歳)。
職を辞してからは文筆家として活動。地方の学校へ出講し教鞭をとり、創作に専念した。
創作活動は、謡曲の註解、辞典編纂、詩歌・随筆等150冊を越える。旅先で詠んだ和歌は、実に1300余首ともなっている。なかでも1900(明治33)年、43歳のとき発表した『鉄道唱歌』(全5集)の「汽笛一聲新橋を」にはじまる東海道の部は広く歌われ、鉄道交通の普及宣伝に貢献した。
1910年(明治43年)10月1日、脊髄炎のため死去。享年53歳。
彼の偉業をを記念した「鉄道唱歌の碑」が東京新橋駅構内にある。また、生まれ故郷の宇和島駅前に「大和田建樹詩碑」がある。
「鉄道唱歌第1集 東海道篇」(歌詞)
※長いです!
汽笛一声新橋を
はや我汽車は離れたり
愛宕の山に入りのこる
月を旅路の友として
右は高輪泉岳寺(せんがくじ)
四十七士の墓どころ
雪は消えても消えのこる
名は千載の後までも
窓より近く品川の
台場も見えて波白く
海のあなたにうすがすむ
山は上総(かずさ)か房州か
梅に名をえし大森を
すぐれば早も川崎の
大師河原は程ちかし
急げや電気の道すぐに
鶴見神奈川あとにして
ゆけば横浜ステーション
湊を見れば百舟(ももふね)の
煙は空をこがすまで
横須賀ゆきは乗替と
呼ばれておるる大船の
つぎは鎌倉鶴が岡
源氏の古跡(こせき)や尋ね見ん
八幡宮の石段に
立てる一木(ひとき)の大鴨脚樹(おおいちょう)
別当公曉(べっとくぎょう)のかくれしと
歴史にあるは此蔭(このかげ)よ
ここに開きし頼朝が
幕府のあとは何かたぞ
松風さむく日は暮れて
こたへぬ石碑は苔あをし
北は円覚建長寺
南は大仏星月夜
片瀬腰越(こしごえ)江の島も
ただ半日の道ぞかし
汽車より逗子(ずし)をながめつつ
はや横須賀に着きにけり
見よやドックに集まりし
わが軍艦の壯大を
支線をあとに立ちかへり
わたる相模の馬入川(ばにゅうがわ)
海水浴に名を得たる
大磯みえて波すずし
国府津(こうづ)おるれば電車あり
酒匂(さかわ)小田原とほからず
箱根八里の山道も
あれ見よ雲の間より
いでてはくぐるトンネルの
前後は山北(やまきた)小山(おやま)駅
今もわすれぬ鉄橋の
下ゆく水のおもしろさ
はるかにみえし富士の嶺(ね)は
はや我そばに来りたり
雪の冠雲の帯
いつもけだかき姿にて
ここぞ御殿場夏ならば
われも登山をこころみん
高さは一万数千尺
十三州もただ一目
三島は近年ひらけたる
豆相(ずそう)線路のわかれみち
駅には此(この)地の名をえたる
官幣大社(かんぺいたいしゃ)の宮居(みやい)あり
沼津の海に聞えたる
里は牛伏我入道(うしぶせがにゅうどう)
春は花さく桃のころ
夏はすずしき海のそば
鳥の羽音におどろきし
平家の話は昔にて
今は汽車ゆく富士川を
下るは身延(みのぶ)の帰り舟
世に名も高き興津鯛(おきつだい)
鐘の音ひびく清見寺(せいけんじ)
清水につづく江尻より
ゆけば程なき久能山(くのうざん)
三保の松原田子(たご)の浦
さかさにうつる富士の嶺(ね)を
波にながむる舟人は
夏も冬とや思ふらん
駿州(すんしゅう)一の大都会
靜岡いでて阿部川を
わたればここぞ宇津(うつ)の谷(や)の
山きりぬきし洞(ほら)の道
鞘(さや)より拔けておのづから
草なぎはらひし御剣(みつるぎ)の
御威(みいつ)は千代(ちよ)に燃ゆる火の
焼津(やいづ)の原はここなれや
春さく花の藤枝も
すぎて島田の大井川
むかしは人を肩にのせ
わたりし話も夢のあと
いつしか又も暗(やみ)となる
世界は夜かトンネルか
小夜(さよ)の中山夜泣石(よなきいし)
問へども知らぬよその空
掛川袋井中泉(なかいずみ)
いつしかあとに早なりて
さかまき来る天竜の
川瀬の波に雪ぞちる
この水上(みなかみ)にありと聞く
諏訪の湖水の冬げしき
雪と氷の懸橋(かけはし)を
わたるは神か里人か
琴ひく風の浜松も
菜種に蝶の舞坂(まいさか)も
うしろに走る愉快さを
うたふか磯の波のこえ
煙を水に横たへて
わたる浜名の橋の上
たもと凉しく吹く風に
夏ものこらずなりにけり
右は入海(いりうみ)しづかにて
空には富士の雪しろし
左は遠州洋(えんしゅうなだ)ちかく
山なす波ぞ砕けちる
豊橋おりて乘る汽車は
これぞ豊川稲荷道
東海道にてすぐれたる
海のながめは蒲郡(がまごおり)
見よや徳川家康の
おこりし土地の岡崎を
矢矧(やはぎ)の橋に殘れるは
藤吉郎のものがたり
鳴海しぼりの産地なる
鳴海に近き大高(おおたか)を
下りておよそ一里半
ゆけば昔の桶狹間(おけはざま)
めぐみ熱田(あつた)の御(み)やしろは
三種の神器の一つなる
その草薙(くさなぎ)の神つるぎ
あおげや同胞四千万
名だかき金の鯱(しゃちほこ)は
名古屋の城の光なり
地震のはなしまだ消えぬ
岐阜の鵜飼(うかい)も見てゆかん
父やしなひし養老の
滝は今なほ大垣を
三里へだてて流れたり
孝子(こうし)の名誉ともろともに
天下の旗は徳川に
帰せしいくさの関ケ原
草むす屍(かばね)いまもなほ
吹くか伊吹(いぶき)の山おろし
山はうしろに立ち去りて
前に来るは琵琶の海
ほとりに沿ひし米原(まいばら)は
北陸道(ほくろくどう)の分岐線
米原~京都
彦根に立てる井伊の城
草津にひさぐ姥が餅(うばがもち)
かはる名所も名物も
旅の徒然(とぜん)のうさはらし
いよいよ近く馴れくるは
近江の海の波のいろ
その八景も居ながらに
見てゆく旅の樂しさよ
瀬田の長橋横に見て
ゆけば石山觀世音(かんぜおん)
紫式部が筆のあと
のこすはここよ月の夜に
粟津(あわづ)の松にこととへば
答へがほなる風の声
朝日将軍義仲の
ほろびし深田(ふかだ)は何(いず)かたぞ
比良(ひら)の高嶺は雪ならで
花なす雲にかくれたり
矢走(やばせ)にいそぐ舟の帆も
みえてにぎはふ波の上
堅田(かたた)におつる雁(かり)がねの
たえまに響く三井(みい)の鐘
夕ぐれさむき唐崎(からさき)の
松には雨のかかるらん
むかしながらの山ざくら
にほふところや志賀の里
都のあとは知らねども
逢坂山(おうさかやま)はそのままに
大石良雄が山科(やましな)の
その隱家(かくれが)はあともなし
赤き鳥居の神さびて
立つは伏見の稲荷山
東寺(とうじ)の塔を左にて
とまれば七条(しちじょう)ステーション
京都々々と呼びたつる
駅夫のこえも勇ましや
ここは桓武(かんむ)のみかどより
千有余年の都の地
今も雲井の空たかく
あふぐ清凉紫宸殿(ししんでん)
東に立てる東山
西に聳(そび)ゆる嵐山
かれとこれとの麓(ふもと)ゆく
水は加茂川桂川(かつらがわ)
祗園清水(きよみず)智恩院(ちおんいん)
吉田黒谷(くろだに)真如堂(しんにょどう)
ながれも清き水上(みなかみ)に
君がよまもる加茂の宮
夏は納凉(すずみ)の四条橋
冬は雪見の銀閣寺
桜は春の嵯峨御室(おむろ)
紅葉は秋の高雄山(たかおやま)
琵琶湖を引きて通したる
疏水(そすい)の工事は南禅寺
岩切り拔きて舟をやる
知識の進歩も見られたり
神社仏閣山水の
外(ほか)に京都の物産は
西陣織の綾錦(あやにしき)
友禅染の花もみぢ
扇(おうぎ)おしろい京都紅(べに)
また加茂川の鷺(さぎ)しらず
みやげを提(さ)げていざ立たん
あとに名残は残れども
山崎おりて淀川を
わたる向うは男山
行幸(ぎょうこう)ありし先帝の
かしこきあとぞ忍ばるる
淀の川舟さをさして
くだりし旅はむかしにて
またたくひまに今はゆく
煙たえせぬ陸(くが)の道
おくり迎うる程もなく
茨木(いばらき)吹田(すいた)うちすぎて
はや大阪につきにけり
梅田は我をむかへたり
三府(さんぷ)の一(いつ)に位(くらい)して
商業繁華の大阪市
豐太閤(ほうたいこう)のきづきたる
城に師団はおかれたり
ここぞ昔の難波(なにわ)の津
ここぞ高津(こうづ)の宮のあと
安治川口(あじかわぐち)に入る舟の
煙は日夜たえまなし
鳥も翔(かけ)らぬ大空に
かすむ五重の塔の影
仏法最初の寺と聞く
四天王寺はあれかとよ
大阪いでて右左
菜種ならざる畑もなし
神崎川(かんざきがわ)のながれのみ
淺黄(あさぎ)にゆくぞ美しき
神崎よりはのりかへて
ゆあみにのぼる有馬山(ありまやま)
池田伊丹(いたみ)と名にききし
酒の産地もとほるなり
神戸は五港(ごこう)の一つにて
あつまる汽船のかずかずは
海の西より東より
瀬戸内がよひも交じりたり
磯にはながめ晴れわたる
和田のみさきを控へつつ
山には絶えず布引(ぬのびき)の
滝見に人ものぼりゆく
七度(ななたび)うまれて君が代を
まもるといひし楠公(なんこう)の
いしぶみ高き湊川(みなとがわ)
ながれて世々の人ぞ知る
おもへば夢か時のまに
五十三次はしりきて
神戸のやどに身をおくも
人に翼の汽車の恩
明けなば更に乘りかへて
山陽道を進ままし
天気は明日も望(のぞみ)あり
柳にかすむ月の影
参考HP。全文掲載されています。すごい!
本日はここまで
いかがでしたか。
第一集だけでも情報量が膨大(こんなに長いとはつゆ知らず)。
当時の人は初めて見る鉄道への憧れや宣伝のおもしろさもあり、こぞって覚えたのではないでしょうか。教育に使用していたのも驚きですが、歴史・地理を知るだけでなく、風光明媚な土地土地が思い浮かんできます。
歌って、体で覚えていくような感覚。ゲームとはまた違った魅力がありますね。
是非聴いてみてください。
本日はここまで。読んで下さった皆様、ありがとうございます。感謝!今日も元気に過ごしましょう。
笑顔は幸せの素。”Your smile makes everyone happy!!”
それでは良い一日を。Have a fine day.
201014 YUHUA O.
あなたのおかげで、勇気と希望が湧いてきますッ!