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[完] つか子と「あの人」:プロローグ・本章・エピローグ


家族の猛反対の中、東京で自立した20代のつか子。40数年後古い日記が見つかり、米国で住むつか子が20代の自分と「出会う」。つか子の胸に「あの人」との逢瀬と別れが蘇る。

命尽きる前に今一度「あの人」に会いたいと願う。ヒマラヤの麓ネパールのポカラでの再会を夢みる。思いがけなく夢が叶うがあの人は沈黙を守り自分の人生を語ろうとしない。
 
旅の最後の晩一つの思い出に助けられ二人は最初で「最後」のどこまでもやさしい親密な一時をもつ。
 
数週間後ノバスコシアへの旅につか子を誘ったあの人は初めて心を開き悲劇にみまわれた半生を明かす。聴き入ったつか子はあの人も自分も人生で何をもって生かされているのかに気づく。

その翌朝、つか子は驚きの発見をする。


    プロローグ      : わたしのダブルに会っちゃった 1 - 6

第一章 春浅く  : つか子の願い・出会いと別れ
第二章 春深まる : つか子の生きてきた道・とどまるつか子
第三章 夏の夜明け: 大自然・再会・「あの人」の沈黙・初めてで最後
第四章 秋の光  : 「あの人」の生きてきた道・たった今
    エピローグ    : 強  烈  な         瞬  間


      プロローグ  : わたしのダブルに会っちゃった

                


  今日のつか子、へんだよ。おかしいよ

ええっ? ごめん

  さっきから、 どっかよそむいてる感じ

そうかっ。ワルかった

  どうしたの?

う〜ん、信じてもらえるかな。自分のダブルに会っちゃったんだ

  つか子のダブル?へえっ。どこで? いつ?

ウン、2、3日前、見覚えのない日記が出てきて、ちょっと読んだら、ものすごくこっちの胸に入ってくるの、その書いた本人、昔、昔の大昔のワタシなんだけどサ

   ヤダ。なんだ、そんなの、気持ちワルい、ほっとけば?

でも、最初の行読んだとたんに、その はなしてくれない

   なんて書いてあるの?

『アパートに一人でうつったのが、8月28日、3週間たった』

   ふーん。日付は?

『1975年9月20日』

   ええっ?!昭和50年ころ?そんな昔のこと、ほっとけばいいじゃん

それができないの。このひっこし、人生の大だい事件。これ読んだとたん、白黒の映画がいきなりカラーになって目の奥まで痛くなっちゃった。書いたの方はつかみどころないんだけど、うちはすごくはっきり覚えてる。今、そこにとんで帰ったら、ドア開けてくつ脱いですぐくつろげる感じ

   いいじゃん

だけど、こわいのは、もしそこにそのがいたら、どうしよう。そしてくつぬいで、上ろうとしたら「あんた、だれ?」とか言われたら。。。わたしが人生の終わりに近い自分だって知ったらものすごく怒ると思う

   なんで?

「そんな大人になるつもりなかった」って。「そんなこと、ゼッタイ、信じない!」って。。。
            
                
            
  燃えてたんだよね、この頃のつか子!
 
うん。燃えてた、スゴ〜く
 
   カレとのアパート出て都会のまん真ん中に一人で引っこした。家族には事後報告!
 
ウン。それ知った親戚みんなから『わがままでエゴイスト!』ってさんざんタタかれちゃった
         
   カレと大ゲンカでもしたの?

ううん、そんなんじゃない。うまくいってたの。だから、出たの

   ヤダ。そんなの、りくつに合わないよ

 だって、ずうっとものすごくカレに頼ってたんだ。その前は家族。一人でやっていきたかった
 
   そうか。でも、つか子、その3年前には家族の反対おし切って、ふつうの結婚式なんかしないと言って、カレと住み始めたんでしょ?
 
うん、そうなんだ。結婚制度なんか女性差別だって
 
   う〜〜ん。それじゃ、親、腹立てるだろうな。心配も心配だし
 
うん。でも、もう独立してたし、誰に迷惑かけるわけじゃないって思って
胸いっぱい空気すって、思いっきり、好きなように生きたかった
 
   う〜〜ん、若かったんだ
 
同じ日、『女は闘う。わたしは私とも闘うんだ』つか子、そう書いてる

『わたしはまず私のために守りたいと切望するほどの生活をしたい』

   スゴーイ。それは、スゴいわ

でしょ?だから今のわたしがこのに会ったら、ゼッタイ聞かれる

「あんた、守りたいと切望するほどの人生、生きてるの? どうなの? 聞きたい。答えて。答えられる?」   

                3

タタかれたの親戚や家族からだけじゃないヨ

   ふ〜〜ん。 だれから?

一人は友だちの連れ合い、教育も地位もあるひと

   なんて言ったの、そのひと

『「引っ越したと聞いたとき、あぁやったかと思った。。。結局愛し合ってもいなかったんだから、そんなのが一緒になることなかった、ならない方がよかったんだ」って』

   それ聞いて、その、どうした?

うん、『「やっぱり」って思ったけど、傷ついた。。。』カレとは愛し合ってたんだ。それと、カレのうち出たのと違うんだ。デモ、通じなかった

   そうだろうね。それは通じないヨ

それだけじゃない。そのひと、『「自分の仲間でいつも話すのは、嫁にするのは一番バカな女か一番りこうな女がいい。つまり抑えることのできる女が’いいって言う」って』

   そんなコトいってたんダ?!

それ聞いて、その、『だけど負けない印、ダカラかな負けない印』 

   そうだろうなぁ。それはソウ思うだろうナ

そのひとだけじゃない。既婚の女性 ひとからも、さんざんいわれた。『「みんなガマンしてるんだ!独身の女だけじゃない。結婚してる女も苦しんでるんだ!」。。。そういうなら、それじゃあ、ガマンしない方に変えたらイイと思うんだけど』そうその書いてる

   ソウか。それは理屈だな

『「世間、世間、人は一人で生きてるのではナイ」どうして、みんな実害のないところで、迷惑したり、心配したりするのか。結局ソウやって、自分の生活がおびやかされるからじゃないか。だけど、そんなに苦しくガマンしてる生活をどうして、そう守ろうとするのか』

   う〜〜ん。ガンバレって言いたくなっちゃった、このに。でも、このの論法、どっか違うって気もするんだけど、マダ反論できないヤ

そのひとまだ言ってた。『2000年の日本にみんなの作ってきたルールがある』

   う〜〜ん。2000年のルールねえ。それは重いヤ。どうこたえたの、その

『それを彼はヨシとし、わたしはアシとしてる』

   ずいぶん、ハッキリ言ったんだネ。今のつか子はどう思う?

みんなの作ってきたっていう「みんな」って誰なのかって、考えちゃう

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しかし世の中甘くないなあ。これ、当たり前らしいけど、一人で移ったということで、犯罪を犯したことにもなるらしい

   犯罪ねえ。きっと、犯罪を犯すのではないかという恐れと心配だョ  

でも、みんながみんなつか子を たたいたわけじゃないよ。寄ってたかってタタいた人のそばで、一人味方がいてくれた

   へえっ、それだれ?

英語を習ったセンセイ、ほんとはこの人、ロシア語の翻訳者。つか子のやったこと知って、何も言わないのに眼を輝かせてロシアの詩人ミハイル・レールモントフの詩聞かせてくれた。


嵐の海

                    『 港を出る舟は

              希望を求めるにあらず

             希望を のがれるにあらず

                 そは

            狂える舟は

                  嵐をうとや

              嵐の中に安らぎを見るとや 』


   ふ〜ん。嵐の中に安らぎを見る!か。。。

自分にも誰にも説明できなかったときに、この詩、心にみたの覚えてる

   詩って、そういうパワーあるヨネ

『なぜ移ったのだろう。なぜこうしなくてはならなかったのだろう。。。人にも言えず、自分にも、これがこうでこうと言えない』

『あたたかく見守られ、何をしてもゆるされ受け入れられる人のそばにいたくない、何て言ったらいいのか、結局、その人の範囲の中で、泳ぐのはヤだってこと。。。』

『何でもイイ。悪くていい、こわくていい、不安でいい、なまなものが わたしの身体にじかにくるものがほしかった。明日にすっかり安心してる生活がここ長かった』

そして、つか子、こうも書いてる。『生きてるって、こんなにいいもんだったのかって、今は何をみても何をしてもそう思う』

   そこまで思ったの。そんなふうに思ったコト、わたしあるかなぁ

『今、さびしいヒマはない。その日がっかりしても 夜になれば眠る。その晩ねむれなくても朝になれば、また、元気。こんな力が自分の中にあったなんてうれしい驚きだ』

   ソウか。それが若いつか子の実感だったんダ

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   ものスゴーク仕事してた、いろんな人から借りてたから

   よく貸してくれる人見つかったネ

うん、びっくりした、たいてい「本当は自分も同じことしたかった、だから。。。」なんて言われて

   ふ〜〜ん、ソウなんだ。つか子だけじゃないんだ、一人で港出たかったの。。。 

いったん出たら、いろんな新しいこと、新しい人に会った

   つか子、誰か、ほれた?

うん、そう、何人も

   ええっ、何人も!?

うん。で、カレと別れたとき誰かに言われた『結局愛し合ってもいなかったんだから、そんなのが一緒にならない方がよかったんだ」』っていうの思い出して気がとがめた。。。デモ、それはやっぱり違う!

   ドコがちがうの?

う〜〜ん、何て言っていいか、これ、聞いたら、「そうなんだ!」ってうなずく人と、ゼッタイ反対っていう人といると思うんだけど

   イイよ、言ってみて

うん、人の心はただひとつじゃない。同時にいろんな人愛せる!

   ふ〜〜ん、それはウけないと思うよ、たいていの人には。永遠の愛、たった一人への変わらぬ愛とか、信じたいから

そう、そうなんだ。デモ、ハダカになって自分の中マッスグ見つめたら、どうだろう

   一人の人愛するのもシンドイのに、複数なんて、わたしにはムリ、考えられない
 
そうか。そう思うと思った。ワカル、その気持ちも

この話、わたしが言い出したんじゃない。いっとう好きな小説に出てくるんだ、ロマン・ロランの『魅せられたる魂』。そこで、主人公のアンネットが一人の男を愛していると信じてる時にいきなり別の男も愛するようになった自分を知って苦しむとこ

   やっぱり、苦しむんだよね、それ気づいたとき

そのさき読むと、アンネットは実は「自分が一人以上の人間だってこと知らなかった」って書いてあるの。それ読んだとき、正直、救われた〜って思った。自分も苦しんだから
  
   フツウ苦しむよね。自分の心がどこにあるのか。それに相手のことも

何人にも惹かれたけど、カレを愛したように愛したと思った人は出てこなかった。。。「あの人」に出会うまでは。もうずうっとずっと前から知ってたような気がした。幸せって感じたっていうのともちがう、ただ、会えてよかった〜って思った。心底生まれてきてよかった〜とも

   ソレは強烈だネ

                
   
    なぜそんなに惹かれたの、「あの人」に?何て言ってる、その

『同じ考え同じ感じ方するから』

   なるほどネ

好きだったのは『楽しいところ、やさしいところ、あいまいなところ、情熱的なところ、どうしようもないところ、

踏みはずしそうなところ、理想と現実のはざまで、あきらめかかりながら、希望を持たないわけではないところ、

バカするところ、素直なところ、がんばるところ、がんばりきれないところ、

自然なところ、きゅうくつでないところ、わたしを怒らせようとしたりするところ、

なりふり構わないところ、正直なところ、妻の「彼女」のことも含めて「わかる」ところ、

子供じみたところ、キチンととしてないところ、きどってないところ、

現実を知ってるところ、失敗するところ、恋を何度もしたことのあるところ、その楽しさや苦しさを知ってるところ、

平気なところ、悪いいみでも良いいみでも人の心がわかるやさしいところ、

気持ちを身体で表現するところ、そうカッコの良くないところ、ひどく人間的なところ。。。』

   もうイイ、もういい、ワカった、ワカった、それじゃあ、「あの人」、つか子、そっくりじゃない!

ふ〜〜ん。そう思う?でも、どっか、すごく違うヨネ

   ウン、全く同じじゃぁナイ。つか子は正直じゃナイ

ええっ!

   だって、自分に正直なら、つか子にとってそんな魅力のある人、あきらめなかったと思うヨ

ソウか。ソウ思うんだ。わたしも、ウソかなあと思ったことある

   でも、ソウと知りながら、つか子はあきらめたんダ

あきらめたって言われると「チガウ!」って叫び出したくなるけど、結局はソウなんだ。あきらめたんだ。こうしたいというのと、こうありたいというのと、どっちもつよくって、その間で、あがいた

   ちょっとよくワカんない、こうしたいと、こうありたい?

うん、こうしたいは、とにかく、このままドンドンもっともっとあの人に近づきたい、身も心も。でも、こうありたいは、「おんながおんなを傷つける、おとこをはさんで」に自分が加わるのはヤダ!ソウいう女でありたくナイ!

   ツヨかったんだねぇ、つか子

そう、他人ひとにも自分にもソウ見えた、でもほんとはそうじゃなかった

そのあげく、『。。。自分の選んだこと、した事、しなかった事、他にどうしようもなかったと思ってる。でも今がウソかなあと思うこともある。。。自分が選んだのだから、何もいうことはないけど、命の輝きでない方、安らぎの方を歩いて来た。。。今、心の奥底から叫び出したい。天地に向かってほえたい。。。』

   後悔したんダ?

うん、認めたくないけど、ソウ、後悔した。でも、あの頃のつか子に同じことあったら、同じコトするだろうと思う、つか子がつか子であるかぎり。。。

   いやぁ、しんどいなぁ、つか子って

ソウなんだ。リブの田中美津さん、みんなにいつも言ってたけど、「楽な方、楽な方、選びなさいヨ」って。それ、できなかった。それとも、そっちが楽だったんだろうか。気がとがめない方

別れた数ヶ月あとに書いてる。『楽しみはあるけど、つよい喜びはナイ』 

だから、いつか、ある日、吉本ばななの『幸福の瞬間』のネコのように、エビのご馳走前にして食べてイイと言われてガブつく瞬間、それが欲しい、その前に死にたくない、それまで、絶対生きていたい、そう思ってる。。。




                               第一章

東京


                     TOKYO - PHILADELPHIA - POKHALA - NOVA SCOTIA
       東京ーフィラデルフィアーポカラーノバスコシア
 
                春浅く
 
                TOKYO
 
                 1  

芽を出した願いは、今、つか子の胸で音もなくふくらんでいる。もうおさえようもない。

会いたい。「地上のどこかで息をしてさえくれればいい」そう言ったあの人。最後の息を吸う前に、つか子の手のとどくところにその姿を感じとりたい。

そんな願いがかなうと思うなんて。そう自分に言い聞かせても、しばらくすると、またその思いが胸にうかんでくる。。。何度も何度もこうくり返してばかりで、ついにつか子は心に決めた。「いつか便りしてみよう」そこで、気持ちがようやくすこし落ち着いた。

つか子はあの人の身体の動かし方が好きだった。背も高く四角ぽかったのにギクシャクせずにまるで指揮者のようにスムーズに動いた。

誰でも記憶はおぼろげでも写真があると、その時の瞬間が心にくっきりとよみがえる覚えがあるだろう。つか子の場合、写真でなく会話のやり取りまで綴ってある二十代の日記だ。それを開けるとつか子とあの人の数回の出会いがとび出してくる。

あの人の日本語は母語でないのが信じられないくらいうまかった。「あなた、やさしいね」つか子が言う。「うん、ワルイ意味でね」あの人が応じる。「その通り」それは書いてない。つか子の思っただろう心の中だ。それを読むと、その時飲んだコーヒーの香りまでする。

さびしいぐらい、世の中の誰もわたしたちの間に心が通い合ったことを知る人はいない。それに何もなかったのだし。あの人自身、すっかり忘れて心のどこにも残ってない可能性だってある。

その思うとつか子は悲しみに沈みそうになるが、たぶんその方が当たっているだろう。とにかく、何もなかったのだから。思えば何かあった人のことだって、忘れ去ってしまうのに十分の時間が流れている。

数回会った時、つい半年前から妻がいると知らされた。それじゃあこれ以上進むことはできない。あの人にもう一歩近づけば、きっと傷 つく人がでる。おんなが。つか子の会ったことのないひとが。一人の男を はさんで、おんながおんなを傷つける。

「いつかもう友だちとしてもいられなくなるかも、それがコワい」そう言ったあの人。それが二人の会った最後の日になった。あれほど惹かれあってなければ、そしてそれほどひとを傷つけるのを恐れてなかったら、会い続けることだってできたかもしれない。

でも、それは、あの人もつか子も選べなかった。数十年前のこと。

今、地上からいなくなる前に、何をしようと言ってるわけじゃない、もう一度、心を通わせても許してもらえるのではないだろうか。つか子はそう思おうとしている。それは、つか子にだけ通用する勝手な理屈だろうか。

いったい誰に許してもらいたいのか。そういう人がいるかいないか知らない今。知ろうともしない今。いてもいなくても、それはもう時効切れだとでもいうように、つか子の気持ちは開き直っていた。年齢としのせいとしか、いいようがない。年齢としがいけば、おんながおんなを傷つけることはないというのか。男をはさんで。

そうではないと、つか子自身知ってるじゃないか。七、八年前、ある朝、今は亡き夫がメールを開けたとたん、「ああっ」と声を上げた。そして、「バチが当たった。」聞いてみると、夫が30代の頃、フラッと気持ちが動いた人がいて、その人が会いたいと言ってるのだった、50年近くたった今。出会ったのはこの街からはるか遠い土地だったという。

見るからに動揺している夫。つか子と夫の静かな平和がやぶられた。結局、この人の息子が持ち主だというレストランで会うことになった。つか子は一足おくれてデザートで合流するということに話はついた。

まず会う前からこの女性ひとを嫌ってる自分に気づいた。別れにかたく抱擁する二人を見て、つか子もふだんの自分よりずっと強く抱擁してみた、それで二人のかたい抱擁の意味を帳消しできるとでもいうように。

そのとき次に会う機会を約束して別れたのだけれど、感謝祭が入り家族との約束が入りで結局これ切りになった。彼女が求めていたのもこれ切りだったのだろうか。年が明けて、ようやくつか子の気持ちの高ぶりがおさまった。

たぶん、つか子の場合も似たような結果になるのだろう。つか子が自分は何も期待してないと言いながら「何か」を期待してる出会いは、きっと100倍もうすめられて、それで人生の終わりを飾る。

ただきっと「あの人」ならたとえつか子のことを覚えてなくても、そこのところをうまくこなして接してくれる気がする。そういう「優しさ」のある人だから。これもつか子にだけ通用する話かもしれない。それでもぎごちない出会いにはならないだろう、

でもそれは数十年生きてきた「あの人」がすっかり変わってなければ、の話だ。どこかにきっと四十数年前につか子が見た「あの人」がまだ残ってる、そうであってほしい。

つか子は何が欲しいのか。ほかの誰からも聞いたことのない言葉をかけてくれたあの人、そんな言葉をもう一度聞きたいのか。そんな望みがかなうわけもない。それとも、別れたつか子の人生が無駄でなかったことをあの人に信じてもらいたいのか。それは他人にどんな関係があるというのか。つか子自身の問題でしかない。

いや、できないことと知りながら、あのときに時をもどして、二人だけの親密なひとときをせめて一度もちたいのか。あの時「こうしたい」でなく「こうありたいという道」を選んであきらめたあの人と。あの頃の日記にはだれにも告げなかったつか子のもがきが聞こえてくる。

『。。。自分の選んだこと、した事、しなかった事、他にどうしようもなかったと思ってる。でも今がウソかなあと思うこともある。。。自分が選んだのだから、何もいうことはないけど、命の輝きでない方、安らぎの方を歩いて来た。。。心の奥底から叫び出したい。天地に向かってほえたい。。。』

でもそれは、20代のつか子。今、40代50代じゃない、60代ですらない自分の身体に、そのときの熱い思いが芽を出して、それが自分を呼んでいるのにつか子は当惑する。それに応えようとしている自分自身になお驚かされる。なぜ?

鮭が命の最後に生まれた川に産卵のため川上 りするように、つか子はあの人に向かっていってる自分に気づく。鮭にしても、実際に川までたどり着けるのはほんの一握りでしかないと知りながらも。

つか子が自分の人生を思うと、目の前に円がうかぶ。暗いところも明るいところも見える。つか子の通った道だ。ただ、その円につながりのついてないところがある。それには前から気づいていた。その一か所は「あの人」。つか子はその空白をうめたい。そこをうめることで悲しさが倍になったとしても、空白のままよりいい。

つか子はこのごろ時の流れをあたまでなく体の中で感じる。この流れのつきる前に。。。

 触れもせず 見ることもなし キラキラと 光る波ざまに 時は流れる

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ついにメールを書いた。すると、すぐに自動的に「今、旅行中で、十日後まで、メールの読み書きが不可能」とあった。それでもその後、数時間もしないうちに返事がとどいた。

「近いうちに返事を出す」という返事にならない返事だった。
それから4、5日たち、「覚えてる」という一言の返事がきた。別のメール住所からだった。こちらも3、4日置き、「できたら会いたい」と書いた。すると、「僕も」とだけ返事がきた。

それだけで充分だった。
それで、しばらくそのままの姿勢でいたかった。もうこれでいいと。

すると向こうから数日後、「どこで?」
「行ったことのない国の空港で」
「?」
「ネパールは?」
「ない」
「ヒマラヤのふもとのポカラで」
「オーケー」
2、3日後、あの人から。
「いつ?」
「いつでも」
「いつでも?」
「うん、いつでも」
「じゃあ。明日」
「それは、むちゃ」
「一ヶ月後の同じ日」
「うん」

こんなにすんなり事が進むとは思ってもいなかった。あまりにもすんなりで、ふだんから夢みがちなつか子には、これが夢のつづきなのかどうなのかどうもはっきりしない。

                3

「あの人」はつか子のことを何も知らない。出会って、惹かれあって、それですぐさま別れた。つか子の生い立ちも何もかも知らないまま別れ、それっきり。

そのときから、もう四十数年生きてきた。自分だけ生きてきてとしを重ねた気がするが、あの人も同じ時間生きて、歳をそれだけとっている。頭ではわかるが、つか子にはそう思えないのがおかしい。出会ったときのまま。その時の声の調子、からだの動かし方。つか子が心を奪われたその瞬間。

人生の終盤、そう遠くない将来、つか子にもあの人にもこの世の別れが来るのはわかってる。でもその前につか子のことを知ってほしい。それまでは是が非でもこの世にいてほしい。つか子の胸のうちは、ガンぜない子供がいやいやをするように必死だ。

それがなぜだか、あの人のことをもっと知りたいとは思ってない、つか子はそういう自分に当惑する。知るのがこわいのだろうか。良いことを聞けば、それを共にできなかったくいが生まれるとでも思うのだろうか。悲しいことを聞けば、それも共にして慰め合えなかったので悲しくなるとでも思うのだろうか。知らなくていい。いや、知りたくない。ただただ、つか子のことを知ってほしい。それまでは生きていてほしい。

もしかして会える前につか子の命がつきたら、この書きものを残そう。手紙だと自分をかざる誘惑に勝てそうもない。できるかぎり、ありのまま、そのままに写しとることにしよう。つか子のことを何も知らずに心がいっとき通い合い、つか子のあがきをしることもなく、そのままきれいに別れたあの人へ。

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七十路の山 のぼりて ふりむく ふもとには 菜の花畑に 遊ぶわれ見ゆ

今、なぜ、一人、ネパールの空港に向かっているのだろう、それも、ずっと昔の「あの人」に会うのだと言って。

こうしている自分が自分で信じられないのだけれど、ふり返ってみると、幼児のころのつか子、10代、20代のつか子にここに来るまでの道筋がみえる。それからの四十数年間だってそうだ。他人がどう思おうと、自分の思う通りに生きていきたい、でも人との密接な深い愛情のつながりも求めないではいられない。独立独歩、なのにその底を流れる愛情への渇望 かつぼう

泣きむし
つか子の幼ななじみの友だちは言った。「つかちゃんはよく泣いたよね。近所中に聞こえるぐらい。」その泣きむしは大人になっても直らなかった。

二人の息子たちにクライ・ベイビーと呼ばれた。うれしくても悲しくても泣いた。人が悲しい目、うれしい目にあったと聞いただけで涙ぐみ、小説でも映画でも美しい愛情にあふれる場面に出会うと涙がとまらない。

何でも強く感じそれが尾をひいてしまう。20代で「あの人」に出会ったほんのひとときがこれほど深く印象に残って、その思い出箱を心の底から取り出せば今でも胸がキューンとなる。

惚れっぽい
惚れっぽいのは昔からずっとそうだ。あきれたことに、まだ二十にならない頃、ああ、何人とでも結婚できればいいのに。。。という気持ちをもったことを今でも覚えている。複数回「結婚」したが、あと幾人か「一緒になりたかった」人がいる。

まわりの人みんなそうだろうと思ってたけれど、そうではないのに若さを通り越してから気がついた。米国での二回の結婚を知っている同世代の友人に、なぜかいきなり「つか子、あなた、全然そう見えないのに、どうしてそうなるの?」「この人好きだと思ったら『アイラブユー』とか言うの?」と聞かれて返事に困った。「そんなこと言わなくてわかるもん」といってもわかってもらえなかった。

ここではっきりさせたいのは、これを聞いた彼女が万人認める美人で女っぽく魅力的。つか子の方はというと美人という範疇 はんちゅうから遠くはずれ特に女っぽくもない。なぜ彼女が惚れっぽくなく、つか子が惚れっぽいのかは、どうも外見とは関係なくもって生まれた性分だとしか思えない。

不思議なことだ、どうしてだろうと思ってたところ、九州は玄海灘 げんかいなだ育ちの母親の詠んだ歌にぶつかった。これを読むと、生まれは東京でも、胎内で吸い込んだ母親の情熱がつか子の性分まで決めたのではないかと思えてくる。一体そんなことがあるのだろうか。
             ゆうなぎ   ねつ
   玄海の 荒き風波と 夕凪は 南の 情熱を つくりあげしか

また、つか子のでも。。。が始まった
あと、子供の頃からのクセとは言えないクセらしいのだが、まわりの人にいわせれば「ああ、また、つか子の『でも。。。』が始まった。」とにかく賛成でも反対でも、そのまま黙って人の話など聞くかわりに、やたら理屈をこねるのだそうだ。「そうは言っても。。。」「そうとは言えない。」

批判精神が強いといえば、強い。女の子は素直が一番という時代、これは目立ったらしい。「でも。。。」のクセは大人になってもずっと続き、言わなくてもアンテナがピーンと張ってるようで、言っても大丈夫とみると、「でも。。。」の発言をする。それがもちまえの感情過多と一緒になって、人との間に起こさなくてもいい荒波をたたせてしまう。

                5

つか子の番
母親が晩年、知り合いで歳のいった人の死を聞くと、ああ、あの人は自分の人生に満足して逝ったのだろうかといつも思うと、つか子に言っていた。その母が逝って20年、そう言った母の歳に近づいた今、母親が自分自身の人生を見つめていたのだとようやくわかる。

つか子の番が回ってきたのだろうか。自分の人生を見つめるときが。つか子の人生はどうなんだろう。好き勝手なことをして生きてきた。。。はたから見たらきっとそう思えるだろう。20代後半にタイの美しい古都チェンマイで、その土地に住みついて地域に溶け込みながら生活している外国から来た人たちに出会って、その生き方に心がゆさぶられた。「そうだ、よその国で一生、生きていきたい。」そう思い、実際、成人した後の大部分を異国で過ごしてきた。

気がつけば、もう日本に住みに帰れるような歳はすぎてしまった。そんな自分はここで人生を終えることになるのだろう。誰のせいでもない自分で選んだ道なのだが、心の底をのぞくと、悔いとはよべなくても、そこに一抹いちまつ のさびしさがあるのに自分でも当惑する。

楽に自分が自分でいられる場所
つか子の世代はベビーブーム。敗戦を迎え、兵士たちが戻り、大勢が生まれ大勢で育った。雑多に。歳上の世代は次の世代の教育をどうしたら良いのかまだ模索中だったのだろう。そのおかげで学校での規則はずいぶんあったけれど、それをくぐり抜ける道も見つかった。

たとえば、朝礼で真っ直ぐならんで一列に「行進」するのだが、つか子は身体を列からちょっと外れたりしてみせた。なんだったのだろう。自分でも説明できないながら、その頃から「みんな一緒にきちっとする」ことへの抵抗があったのだろうか。

つか子はアメリカに住むようになるずっとずっと前に、「期待される行動」をとるのが苦手、出来ない、いえ、たとえ出来たとしても、したくない自分に気づいていた。要するにつか子は「ちゃんとする」のが苦手だった。何を期待されているのかは知っていたが、それがためにしたくない。でも目立つのもいやだ。こうしたつか子は意識せずに、楽に自分が自分でいられる場所を探してきたのだろうか。

カリフォルニアのホームステイ
16歳の時、アメリカで一年間のホームステイをする機会があった。不安はもちろんあったけれど、好奇心の方がつよかった。空港まで見送りに来てくれた人たちは口々に「つかちゃん、今のままでいてね。アメリカナイズされないで帰ってきてね」と言った。一人父親だけが、「何でもこわがらずに、とことん体験しておいで」と言った。その言葉がつか子の胸に残った。

二人の姉妹がいて、姉の方が同じとき一年間日本の家庭で住んでいて、つか子は妹と一緒にスクールバスで高校へ通った。

家族は敬虔 けいけんなクリスチャンだった。めずらしいことに、つか子はその当時キリスト教徒が一パーセントにも満たない日本で、家族全員洗礼を受けた家で育った。成長するにつれ、キリスト教の教えは日本人のもっている道徳などとどこか決定的に違うのを強く意識するようになった。あやふやなところがない、いや、許されない。神の絶対愛とか罪とか聞いて育った。

イースターなどの聖日には牧師の声を聞きながら小さな器にそそがれた葡萄 ぶどうジュースを飲んだ。「これはイエス・キリストがあなたのために流した血です。キリストがあなたの犯した罪をつぐなうために血を流したことを覚えて。。。」

教会に入りびたりで将来は宣教師になりたいと言って、兄弟に「教会病」だとからかわれていたつか子。それが17歳でキリスト教を去った。それには簡単明瞭な理由があった。米国で毎週必ず行った日曜学校で「イエスが救い主だと信じない限り救われない」と教えられたからだ。それでは一体日本人の99%はどうなってしまうのか。つか子には到底受け入れられることではなかった。

その後、『歎異抄』 たんにしょう親鸞 しんらんの言葉「善人なおもって往生 おうじょうぐ、いわんや悪人をや」もうそのままで救われているのだ。。。に傾倒 した。「もうそのままで」の思いは、ずっと後、つか子が50歳過ぎて選んだクエーカー教にもつながった。

春学期になってスクールバスのルートが変わり、一時間早く乗った時にこの地域全体の様子が見られた。そこで、人口三千人に十七の教会のある小さくても美しく整った町の外には、貧しい人々の住む地域があるのを知った。

戦争中、収容所に送られた日系人が10万人を越すカリフォルニア。その戦争の深い傷から十九年、この高校ではつか子が戦後初めて日本から受け入れた留学生だといわれた。いろいろな人種の集まったこの地域でつか子は肌で日系人への尊敬の念を感じた。そのせいだろう。つか子はどこへ行っても歓迎は受けてもさげすまれた覚えはない。

つか子と同い年の陽気なクラスメートと、一学年下の可愛らしいガールフレンドとの間に子供ができて、学年の途中で結婚して親になり、そのまま高校生活を続けているのにつか子は驚かされた。校長も、教師たちや事務職員まで一同サポートを惜しまずに彼が無事卒業するのを見とどけた。つか子が帰国してまもなく、このクラスメートは卒業するとすぐ兵役に取られ、ベトナムでその翌年に戦死したことを伝え聞いた。まだ幼さの残る妻とも母ともなったガールフレンドの嘆きはつか子の想像をこえる。

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自分の背中は、自分で
海外にいて親の晩年の世話を全く兄弟まかせにしたばかりか、もっと若いころ、つか子は親を嘆かせ心痛を与えたことがある。女性解放運動の洗礼を受けた20代で、同棲 どうせいしたカレの家を出た時のことだ。そもそも、日本の結婚制度そのものが女性差別につながっているのだから、結婚式とかできないと言って式などせずに一緒に住み、あげくにその家を二、三年後に出た。この時も何も相談などせずに、親に黙って引っ越しがすんでからの事後報告。

そうして、つか子が移ったのが、渋谷の中心街からほんの少し引っ込んだ、びっくりするくらい静かな通りを曲がったところにある畳敷きの四畳半。トイレとほんの付け足しの小さな台所。風呂は無論ない。気持ちの良いぐらい簡単な住まい。

生まれて初めての一人暮らし。ほとんど誰にも知らせなかった、秘密のすみか。自分が見つけて、自分で決めて、自分で引っ越してきた、というと威勢 いせいがいいが、実は、とことん正直になる瞬間には、カレがどのステップを取っても手助けを惜しまなかったことに思い至る。数日間は都会の片隅にたった一人きりでいる自分に興奮冷めやらず、夜、天井を見つめるばかりで眠りはやってこなかった。

親の保護下でもなく、カレが守ってくれるのでもなく、つか子一人で歩きたかった。それだけの理由で。

移ってすぐ近所の銭湯 せんとうに行ったら、12、3歳ぐらいの少女が、背中を流そうとする母親に「自分でする!」とむっとして言っていた。母親は「あんた一人では、うまくできないよ」と言って、そのまま少女の背中を流し続けた。「うまくできなくても良いもん」そう言いながら、顔を真っ赤にして不服顔で少女は体を固くして抗議していた。

そうなんだ。うまく出来なくて良いの。ただ自分の手でしたいんだ。

この引っ越しを後から、電話一本で聞いた家族は、想像以上に反応が大きかった。ものすごく驚いたらしい。つか子が当惑するほど。
「もし、カレとの関係がうまくいかなくなって、出なくちゃいけなかったのなら、なぜ一言いってくれなかったの。言ってくれさえすれば、家に戻ってくればよかったのに。。。なぜ、都会の真ん中で、若い女が一人住まいしなくちゃいけないの。家族がいないわけじゃなし。。。」

結局、「もう家族のえんを切ります」とまで言われた。実際、これからしばらく、家族に会うことはなかった。

そんなことではなかったのに。ただ自分の力で生きたかったんです。うまくできなくても、自分の背中は自分で流したかった。

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日本語教師
留学十年後日本に戻ってきたホームステイの家庭の「姉」に日本語を教えてほしいと言われた。偶然にもそのとき日本語教授法という耳慣れないコースができたのを知って、それを取り日本語を教える仕事にいた。今ではめずらしくないこんな仕事は、当時はほとんど知る人がいなかった。

女一人都会の真ん中に住んでいることへの家族の心配あり、理由といった理由なく別れたカレのつか子との関係への不安あり、それを知りながら、それが重くのし掛かる気持ちを自分の心から遠くに押しやり、つか子は大都会で初めてたった一人生きる自分に酔っていた。

語学校のある表参道の瀟洒 しょうしゃな建物までアパートから歩いて通った。どこかで耳にした阿久悠作詞の「ニンゲンはひとりの方がいい。ニンゲンはひとりの方がいい。。。泣かなくてすむから」を口ずさみながらステップを踏んでいた。泣いてしまうのは自分だと思っていたが、ふり返ると、自分を愛してくれたまわりの人間だったのだろうか。

東京での海外経験
この語学校では、主に20代後半ないしは30代の欧米人、そして少数だが、香港からの中国人、マレーシア、ナイジェリア、サウジアラビアなどからの学生が集まった。

教師たちは、つか子のような若い女性が多かった。都会の独立独歩の「強い」女性たち。その意味では、つか子にとっては先輩にもあたる女性たち。そのうちの一人の言葉「朝起きて下着をつけるとき、今夜は、どこで、どんな人と一緒になるかわからない。。。その気持ちのはずみで、下着をつける。」あからさまな内容につか子の方が赤面した。

言った彼女はほどなく妊娠してその相手と結婚することになって職場を去ったが、その時も「また、戻るからネ」と、現役を完全に退くわけではないということを公言した。彼女の話だけでなく、家族の心配は根も葉もないことでもないというのは程なく分かったが、それは、若いつか子を魅了し、不安にする材料にはならなかった。毎日の世界が急にぐんと広がった。

語学校だけでは家賃や生活費を払うにも足らないので、個人授業も持った。生 まれて初めて、仕事がない、それは、そくお金がない、それは、即食べられないということなのだというのを経験したのもこの時だった。近所のパン屋で、菓子パンを買う小銭もなかった日のことは忘れられない。それにしても、世界を見渡すと、これだけ長い間生きてきてお腹を空かせた経験がつか子のようにほんの短い間しかなかったと言うのは、実はまれなことなのだろう。

惚れっぽいつか子は、次々に惚れた。その人は、ものすごくカッコ良い車を持っていて、車と同じくらいカッコ良かった。そのかっこよさだけに惹かれたというとあまりに浅はかだが、自分に惹かれているつか子を意識して、「今は、誰とも付き合う気がない」「なぜなら」と、その人に打ち明けられた。「彼女がいたのだが、数ヶ月の間、夜中酔っぱらっては、彼女の家に行き、その後、ずっと連絡することもなく訪ねることもせずということを続けていたら、その彼女が苦しさ余って、つい最近、喉をかっ切って自殺を図った」というのだ。幸い助かったのだそうだが、「さすがに今、誰とも付き合う気がしない。」

そういう話を聞いたら恐ろしい男だと距離をおいたらいいのに、つか子は、ふだんのクールな彼からはうかがえない、いくらか辛そうに言う様子になお惚れ込んでしまった。

その頃通い始めた女性解放のグループ、「リブセン」(リブ新宿センター)の仲間の一人にその話をしたら、バカな男だというのでなく、女がバカだというのに驚かされた。恋をするなら、太る恋、やせる恋は解放された女のすることではないと。それを聞いて頭では分かっても、感情ありあまりついのめり込んでしまうつか子は、やせる恋をした彼女の気持ちがわかりすぎるくらいわかってしまう。

生徒の一人で、とある大使館員の自宅に招ばれた時、以前彼女が駐在したコロンビアの写真が多く飾られ、彼女の隣に立って微笑をうかべている農民たちを指して、彼女いわく「彼らは、幸せなんです。ほかを知らないから。」その明快な答えにつか子は言葉につまった。彼らの貧しさと我々の豊かさに何にも関係がないというのか。自分が何一つ人の役に立つことをしていないつか子は、何も言えない立場にいることだけわかった。

生徒の中に、特に親しくなった英国から来た歌手がいた。つか子は今まで見たこともない場末のクラブなど、好奇心満々で彼女について行った。その一つに、東京からちょっと離れたクラブがあった。彼女の出番には客に混ざってテーブルにいたが、ほとんどは歌を聴きに来た客じゃないのがわかって彼女のためにつか子は憤慨 ふんがいしたが、本人は慣れっこなのか気にしている様子はなかった。

その次に出たガイジン夫婦のラブシーンには、客は転じて、皆、興味津々 きょうみしんしんの様子だった。それから後、舞台裏に行くと、今さっき情熱的にラブシーンを演じていた二人が、生活の重みに疲れたそう若くはない夫婦だったことに、つか子は幻滅 げんめつではなく、ありのままの人生の一片 いっぺんを見せてくれる小説を読んだ時の満足感を感じた。

そう、こんな気持ちを別のときにも味わったことがある。つか子が若い女性ばかり安く泊まらせるパリの下宿屋に一ヶ月ほどいた時に、一人だけ30を越したかに見える日本人の女性がおり、名のある日本の大学でフランス語を専攻したが、今は、パリのかつら屋でバイトをして生活しているという。その暗い表情から、観光客でにぎあう華やかなパリの大通りからは想像もつかないところで、知ろうとも思わなかった人生の断片を知ってしまったのだということがうかがい知れた。この時もつか子は未知の世界を垣間 かいま見せられ、想像をかき立てられるばかりだった。

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ウーマンリブ
つか子は20代にリブの洗礼を受けたと言っていい。つか子の理解では、リブは学生運動の中から生まれた。命をかけてでも社会を変えようと言っている運動体の中、デモをかける男たちの周りで、女の役割が台所やベッドルームで男の世話をする。。。といった人格の根本に触れる矛盾。そんな矛盾に目を向け挑戦 し、これは自分たちの求めている社会改革じゃないと女たちが主張する。

現今社会にまかり通っている慣習を一から疑い、身体ごと、自分の芯 に誠実な生き方を選ぶ。つか子は、リブセンのおんなたちには、国内の海外体験より以上の強い影響を受けた。目立つのを嫌い、おだやかに見えるつか子の外見からは想像できないほど、つか子の内側には大きな変化が起こっていた。

たまたま
リブセン(リブ新宿センター)ドテカボ一座のはなったミューズカル『女の開放』の田中美津さんによる歌詞、(新)パワフルウィマンズブルース:『たまたま、日本に生まれただけなんだヨ〜。たまたま、プチブルに生まれただけなんだヨ〜。たまたま、おんなに生まれただけだヨ、だけだヨ』

ここで知った「たまたま」という世界観には、つか子は頭をなぐられたような衝撃 をうけた。自分が自分でいるのは、血のつながりとか血統とかじゃない、ほんの「たまたま」つか子はつか子なのだ。目からうろこが落ちた。。。という表現があるが、つか子にとり「たまたま」はそれだった。つか子は考えた。そうだとすると、つか子がパキスタンの路上商人 であってもおかしくはない。ペルーの農夫であってもガーナの少女であってもいいわけだ。

「たまたま」は、つか子にとり、一生離れずにいる。離れるどころか生きてきた指針ししん ともなった。海外に渡ったときも二人の息子をもらいうけ母となった時も、六十代で社会運動に飛び込む時も。

リブセンでは、つか子は数人のおんなたちと「プージン」、タイ語で「女」というグループを作った。アメリカ志向になりがちな時代に、今我々がつながるべきなのは、欧米諸国ではなく、アジアの女たちだと。そこで出会ったのがタイ人の運動家たち。彼らを通して、タイの女たちのグループに連帯したいと伝えると、早速「その前にすることあるでしょ。日本の帝国主義はあなた達にとって一体どうなの?」と折り返しの返事で、自分達の盲点をつかれた。

日本の侵略戦争は意識から遠のき、平和の時代を謳歌 おうかし、男女平等を主張していたおおかた戦後っ子のおんな達は、侵略 された側から、未だ戦争は終わっていないことを知らされたのだった。

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一つになりたい思い・カレ
カレは日本人離れの顔をしていた。そう聞くと、鼻すじ高く細長の顔と思うかもしれないが、カレの顔はまん丸、その中にこれまた大きなまん丸い眼。ユーモラスともいえる独特の雰囲気をもつ魅力があった。そのカレが熱をもって話すとつか子は溶けた。

愛情の表現でもユニークだった。まだ一緒になる前、うちのほんのすぐ近くまで来て、ポツンと丸っこい石を置いていく。「そんなに近くまで来たのなら会いたかったのにどうして家まで来てくれなかったの?」これはつか子の当たり前の反応。カレの方はというと、こんな逢瀬 と言えない逢瀬にロマンを感じ、そこはかとなく伝えたかった思いを伝える、そっちを選ぶといった人だった。

カレは、つか子にとっては、人生に二度は出てこないといった、どこかの神話にある、二人の人間が、実は一つの卵が割れて二つになり、世界中に散らばって会えることもあるが、それはマレだと思えるような相手だった。なぜ、そのカレとの家を出たのだろう。

仮に、そのカレは、つか子の思っているように、つか子の卵の片割れだったと想定しよう。昔々の大昔、二人は一つの卵だったとしても、いったん二つに割れたなら、もう一度ひとつになるなんて、できっこない。だが、それをしようと願うのも、人間の人間たるところだ。カレとつか子は、そうしたかった。ひとつになりたかった。そうなれないことに気づき始めて、苦しんだ。自分がそこを飛び出したい気持ちにかられたことに、気がとがめた。

つか子が出なかったら、いずれは、カレが出たことだろう。もう息が出来ないほどだったから。実際、カレはカレで自分の人生を自分の相手を見つけた。どちらが先に出るかはそれほど意味がない。当人たちにとっては大問題なのだが。

カレは、社会の常識はどうあれ、自分の心に忠実に行動する人だった。まだつか子が一緒に住む前のことだ。カレは自分が育った心地良い環境からは見えない膨大 ぼうだいな社会のその一端でも体験しようと、一年余り日本各地を周って行ったところの旅館なりで調理師として働いた。会いたいというつか子のために、たまに東京駅のプラットフォームまできてトンボ帰りをしてどこかしらに戻って行った。

つか子が信じるには、カレは常に、英語の表現にある「決まりきった箱(規制/常識)をやぶってその外に出て考えようとする」人だった。こういった資質を持った人だったので別々の道を歩き始めてから、つか子はカレの人生が目覚ましく展開するのを知って、感嘆の思いはしても驚かされることはなかった。カレは仲間をつくり斬新 ざんしんで地域をこえた社会に広く長く影響を与える運動体を創り上げた。その過程を楽しみながら。

カレが人生の最後に一緒だった彼女は、カレより年下だったらしい。らしいと言うのは、つか子は会ったことがないから。まだカレが病気にかかる前のことだ。つか子にカレがこう言った。「僕が病気にかかったら、早く逝 こうと思う。そうすれば、若い彼女が存分、自分の人生を生きられるから」と。

それから何年か後に難病がわかった。つか子には早く感じられたが、カレの死を人から聞いて、カレが彼女への愛をまっとうしたのかと遠く離れた地で一人カレの胸の内を思いめぐらしていた。夫はそれを相手に伝えたら良いと言っていたが、いまだに伝えられないでいる。

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カレと別れてから次々に惚れた人は、カレと違い、つか子がひとつになりたいと思うような相手はいなかった。その時のつか子は、そんな関係を求めてはいなかった。ただそこにある日「あの人」が現れた。ほんの短い間のつながり。そして別れ。

別れた後、数ヶ月後のある朝見かけると、あの人の様子が嫌 に綺麗に見えた。朝一番これから仕事というときにくずれた印象を与えるわけはないのだが、つか子には何か整いすぎてるような気がした。それはきっと、つか子にもっとくずれていてほしいという理不尽 な欲求があったせいだろう。

つか子が米国に移ると決めた後、「僕はいつか、つか子の家の前に立ってドアを叩くかも知れないヨ」と言った。そのせいで、めったになかったが、たまにつか子の頭の中にドアを開けるとあの人が立っている!といったイメージがいた。その後を想像するのがこわくて、たいていは自分の心からイメージをすぐにしめ出したが。

別々に生きることがはっきりしたとき、つか子は奇特 きとくにも「あの人にふさわしい人でいよう」と心に決めた。その思いはそう長くは続かなかったが、何かの時にふっと頭をかすめることがあった。

つか子がアメリカに移り住み、結婚した相手はというと、カレとも正反対、「あの人」とも全く違う人だった。哲学が専門で日本に仏教の研究に来ていた。この夫との結婚についてつか子が思いうかべたイメージは、同じ方向に向けて、手もつながずに歩いていく二人、決してひとつにはなれない、そう思いたくなるような誘惑も心にうかばないような、落ち着いた 淡々 たんたんとした関係。

一つの愛情関係が終わった時、人は、その反動で、極端に反対側に走るというが、それだったのだろうか。そうだとしたら、つか子のように感情過多で密な関係をもとめずにはいられない者が、淡々とした落ち着いた関係を選んだ、その結果が見えなかった、見ようとしなかったというのは、どんなものだろう。それが日々の結婚生活の寂しさにつながることになるとは思い至らずに飛び込んだ。つか子にはその先を読み取れなかったとはいえ、その相手になった者にとって、その関係は一体どうだったのだろう。

つか子の日記には、知り合った初めの頃の思いが綴ってある。「彼のあたたかい沈黙が好きだ。。。」将来どういう関係になったとしても、あたたかい思いが通い合ったころがあった、そしてそれが出発点だったと知るのは救いだ。

彼から、クエーカーの精神で始まったフィラデルフィアのコミューンの話を聞いて、その運動体に大いに気持ちが惹かれた。あれだけ一人暮らしを求めたつか子だったが、二年目に入り、それは長期的にはつか子が求める生きていくかたちではないと思うようになっていた。

彼の言うコミューンでは、日々の折り合いをつけながら、七、八人から十人ばかり三階建ての大きな家に一緒に住むと聞いて、つか子の気持ちは好奇心で踊った。「非暴力で、社会の変革を、今!」それを、生活をひっくるめて共同で創り上げる!

つか子は、自分のもつ「資本主義の国アメリカ」というイメージと全く合わない彼の話のコミューンに半信半疑だったが、自分で実際に体験しなくてはという思いで胸を膨らませた。

今、日本を離れることは、別の意味があるのもわかっていた。

もう数ヶ月会っていない、これから何年も会うことのない「あの人」。それでも日本にいる限り会える可能性がある。いつかどこかで自分のせいでなくあの人に出会う。。。心ひそかに抱いてきた「風船」のような思い、今、その糸を手から離す。。。これで、つか子の内に巣をつくった葛藤 かっとうから「自由」になれる。。。

清水の舞台から飛び降りるという表現がある。三十歳になろうという年の夏、米国東部、フィラデルフィアのコミューンに向けて発った。




          

              第二章

ウエスト・フィラデルフィア


      TOKYO - PHILADELPHIA - POKHALA - NOVA SCOTIA  
      東京ーフィラデルフィアーポカラーノバスコシア         

               
              春深まる                               
             PHILADELPHIA  

                1                    

ウエスト・フィラデルフィアの街並みは19世紀に建てられた色とりどりの大きな三階建ての家が続く。1970年代、ツインと呼ばれる二軒続きの家の一軒は前面のかざりも美しくそびえ立ち、その隣はもうくずれかかった家というのも中にはあったが、どれも何かしら物語を語っているようでつか子には歩き回るのが好きな街になった。

コミューンの人々は、こういった二十軒ばかりの家々に散らばって住んでいた。黒人街と白人ばかり住むアイビーリーグの大学の周辺との接点といっていい地域だ。ベトナム戦争の終結から二年数ヶ月、この街にはベトナム山岳地帯からのモン族の人々が移民として住みはじめ、前から住んでいたエチオピアからの難民も少なくない。黒人街の商店主が黒人の手から韓国人に移っている頃でもあり、人種間の緊張感も身近にあった。

うちを一歩出ると、一つの人種だけが目に入ることはまずなかった。そしてこのあたりでは肌の色の差は言語や習慣だけでなく、貧富の差も容赦 ようしゃなく語っているのに気づかされた。

米国に着いて数週間、つか子はりんごしか口に入らなかった。なぜだったのだろう。リブの洗礼を受けた者が「資本主義の国アメリカ」に「男と」移ったせいだったのだろうか。

それとも、会うことがなくても心の底であの人とつながっていたいと思っていたのを、ついに自分の手で断ち切ったからだろうか。選び選ばれた結婚相手がいながら、なぜか心のどこか奥深くでは自分は一人だという思いがしていた。こうしてつか子は自分の中の矛盾と折り合いがつかないまま、新しい土地を踏んでいた。

環境に慣れてごくふつうに呼吸ができるようになるまで一、二年かかった。

母親の詠んだ歌にも、里帰り中の娘のふだんの気張りに触れている。
  くに            あこ           
この圀のしめりはよしと、ゐねむる吾娘 よ しばし普段の気張り忘れてよ

                2

コミューン
「サンフラワー」と名づけられた家に、つか子は夫と共に七、八人の「家族」になり一緒に住んだが、最初の「家族」にはインドやアイルランドからの人もいた。それにコミューンの「非暴力トレーニング」を受けに全米、海外から来た人たちがゲストとして短期間滞在した。

このコミューンは、カウンターカルチャーという点ではヒッピーと同じだが、一般社会から離れることなく、社会の中から変革をめざすという点では一線を画している。

貧しいため食料不足に苦しむ人々がすぐ自分たちのまわりにいることに目を向け、週に一、二度家族の食事を作るときに一食多く作り、それを近所の人へ持って行く「隣人から隣人へ」とよんだ簡単なボランティアもあった。ラジオでは、これを貧しい人が近所の貧しい人に手を差しのべるプログラムだと紹介した。

このプログラムのおかげで、つか子は南部ジョージア州から来た黒人老婦人と親しくなった。ベッドの上にはイエスの画像と十字架がかけられていた。政治問題を話すのが好きで「副大統領候補の女性、何とか言ったねえ」などと話し始め、つか子がわかったふりをしていると、「わかってないんだろ。もう一度ゆっくり話してあげるから」と言ってくり返してくれた。つか子のカラ揚げを気にいってくれて、帰りにはいつも「百万べん、ありがとう」と言われた。こんなつながりをつか子はものすごくうれしく感じ、それがつか子がここの生活に慣れるのを助けた。

収入を得るための仕事は週に20時間以内にして、それ以外の時間は「革命を、今!」のためにエネルギーを使うことになっていた。20軒ばかりのそれぞれの家でのミーティングがある。散らばって住む全員での集まりもある。その中には勉強会もあれば、抗議デモの準備や、パーティもあった。

問題とするのは、階級社会、男女差別、人種差別、性指向の異なる人に対する差別、貧困問題、多額な軍事費、反戦。。。つか子が感嘆したのはその取り組み方だった。この階級社会に生まれた者は誰でもそれによって傷を負わないではいられない。だから、まず自分達の内側の心的傷をいやすことから始める。

日本にいた頃、貧富の差がこれほどひどく米国は階級社会だという認識が十分でなかったつか子は、中上流階級で育った人も貧困の中で育った人も、皆の前で自分の育ってきた間の痛みを泣きながら語るのを見て驚かされた。自分の気持ちを不特定多数の人々に分つというその「勇気」にも動かされた。

どうしたら皆の前でそんなふうに自分をオープンにすることができるのだろうか。この参加者たちが自分自身の解放をめざして、今まで超えられなかった何かを超えようとしていることはつか子にも伝わった。個人の解放が社会の解放に不可欠であるというのもこのコミューンの主張だ。

つか子も参加していた非暴力トレーニングの真最中、スリー・マイル・アイランドの原子力発電所のメルトダウン(炉心溶融 ろしんようゆう)事故が起こった。フィラデルフィアからは120キロ、東京と大宮より近い。つか子も、この事故の重大さを知れば知るほどその深刻さにうたれ、恐怖にかられた。

このコミューンを立ち上げたクエーカー夫婦が、自分たちはふだんと変わらない生活を続けるつもりだが、どこか遠くの地に避難したいという人たちにはどんな助けもいとわないと伝えてそれをその通り実行しているのを見て、自分自身不安におそわれながらも、つか子は大地に足をつけたラジカル・クエーカーの生き方に感じいった。

この週、トレーニング中の仲間たちと一緒に、フィラデルフィア市庁舎の前でダイ・インをやった。核溶融のため死んだという設定で皆が仰向けに倒れる。つか子はいきなり頭上に広がった青い空を見て、この空でいやも応もなく世界中の人々がつながっていて、実際に大規模の放射能汚染が起こったらはるか遠い土地まで汚染が広がるという現実に思いやられた。

方々から来た身知らぬ人、その人たちも随時変わるといった「家族」と住むのはつか子には新しい経験だった。時にはまるで自分自身が洗濯機の中で回っているような気持ちになることさえあった。そんな時は息ぬきに外を歩いた。

それでも、身体や声の大きい人に「えっなに?」「聞こえないよ」「全然わからない」などと言われても、自分の言いたいことが相手に伝わるまでめげずにがんばる、といった今までにないつか子が生まれたのもこのときだ。「自分の言いたいこと」を伝える、それが家族であれ、職場のボスであれ、アメリカ政府であれ。そこで、つか子は自分に問う。一体自分は何を伝えたいのだろうか。是が非でも伝えたいことがあるのだろうか。

                3

寄せ集め家族
つか子の母親は、「混ざっているのがうちの家族の特長で、あなた達自慢していいのよ」と言いはじめて、信じられないという顔をして聞いている子供たちを見て、「いえ、ほんと」と言って続けた。「自分の母が団子家の商家の出、父がドン百姓、そして、お父さんの方は、家具作りの職人が父親で、一緒になった人は身分の低い侍の出、そうら、士農工商、みんな入っているでしょ。みんな違う。」

米国に来て二年目、親しくなったクエーカーの老夫婦に若い家族を紹介されて、つか子は言い知れぬ感動を覚えた。母親がインド人、父親はオーストリア人、子供たちはフィラデルフィア生まれのアフリカ系アメリカ人。「血の繋がらない寄せ集めの家族」、これはつか子の将来の家族になった。

19年間で離婚に終わったつか子の家族は、つか子以外、皆、米国生まれだが、ドイツ系の夫に、子供は韓国系とアイルランド系。夫の家族についてはその父親がエンジニアだとか「当然」分かっている。この「当然」ということが、つか子の子供たちにとって「当然」ではないというのがどんなに深い意味を持つのか、子供の成長と共に感じ入ることになった。

一人の息子は、成人して自分の産みの母親と父親を探した。ハッピーエンドの映画のような結末にはならなかった。その悲しみを抱いて生きている息子が愛おしい。夫とその悲しみを分かち合えなかったつか子は、フットした時、この深い取り去ることのできない悲しみをわかってくれるだろう「あの人」が、ドアの向こうに立っているのではないかという思いが心をよぎった。

そしたらどうするのか、それは怖い。それで、その思いにはすぐにふたをかぶせた。ただ、ある時、そのあり得ない場面を想像するあまり、実際にぶ厚いドアを開けて外をのぞき見たことがある。そこには誰もいなかった。つか子は一人だった。

それでも、つか子が自分は一人だと言っているのと、息子たちが一人だと感じるのと質が違うだろう。ただ母親になりたいという一心で息子二人を貰い受けたが、この二人の息子の心のうちは、その哀しみは、つか子には本当には知ることは出来ない。

アイデンティティ
息子の一人がいつか話してくれた。名前は西欧系だが、アジア人と見える息子に、勤め先で顧客が好奇心から「それで、君、君のバックグラウンドは?」と聞いて来ることがたまにあるそうだ。たいていは「母が日本人で、父がドイツ系アメリカ人」ということで済ませてきたのだが、それを言うたびに、心のどこかで完全には正直でない自分をトゲが刺していたという。

それが同じ職場に新人が入り、自己紹介で「わたし、マリア、メキシコ生まれ、そして、わたし養子なの」と、明るくあっけらかんと言っているのを聞いて、その勢いで次から、特に顧客でも付きあいの長い人には、「母が日本人で、父がドイツ系アメリカ人」「そして僕は養子で、韓国人です」と正直に言うことができたと、頬を紅潮させて教えてくれた。これを聞いたつか子の胸も十倍にもふくらんだ。

もう一人の息子の話だ。ある日職場から帰ると、近所の歳のいった婦人がつか子を待ち構えていた。「あんたんとこの子がうちの孫の顔をなぐった」と言う。つか子は驚愕 きょうがくした。さっそく子供をつかまえて「なんてことをしたの!」としかったら、「ママ、そうするしかなかったんだよ。あの子、ママのこと侮辱 ぶじょくしたんだから。」

これはつか子が知った例なのだが、他にもたんと、このヨーロッパ系の息子が「チャイニーズ」のママの「名誉」のために、非暴力とはいえない戦いを戦ったことがあるのだろう。

黒人ジョージ・フロイド氏が、警察による暴行で命を落とした事件をきっかけに広がった、全米と言わず海外もまきこんでのブラック・ライブズ・マター「黒人の生命を大切に!」運動がはげしかった時、抗議デモにこの息子も参加した。これは、息子のまわりで否定的なインパクトをもたらさないでは済まなかった。つか子には、それが、非白人の母を持つ彼にせざるを得なかったことだとわかっている。この息子のミドルネームはマーティン、公民権運動のキング牧師からとった。

                4

徹頭徹尾、自分のことだけ
離婚にいたる二年前、右の胸に何か違和感があると意識しはじめた。でもそれを放っておいた。今考えるとそら恐ろしいが、その時のつか子の精神状態ではそれに立ち向かうようなエネルギーがなかった。

実は、これでいろいろな悩みから自分のせいでなく「自然」に「解放」されるといった気にさえなったことも、今、否定できない。子供たちはどうなるのか、無責任もはなただしい。この時もふっとあの人のことを思うことがあったが、すぐに打ち消した。今さら遠くに住むあの人に何を頼ろうというのか。そんなことができるわけもない。つか子は一人だった。

つか子と夫の関係はもう口争いの時期を通り越して、お互いに無関心になっていた。つか子はさびしかった。人はさびしい時、そのはけ口をなんとしても求めるのだろうか、求めるエネルギーのある限り。それでだろうか、つか子はあの人ではなく、もう頼るまいと決めていたはずのカレに手紙で打ち明けた。正直なぐさめてほしかった。「大丈夫、結局みんなうまくいくよ」と言ってほしかった。

折り返しかえってきた手紙にはそういった意味の言葉もあるにはあったが、今覚えているのは、その時カレと一緒だった彼女が、どうして遠くに住む昔々のひとにそんなパーソナルなことを告げるのか全く納得いかないと言っているとあった。つか子はカレの彼女のことは自分の念頭になかったのに気がついた。そういう人がいるということすら頭になかった。徹頭徹尾 てっとうてつび自分のことだけ。カレの彼女を傷つけるかもしれないなどと思いもせずに。

大自然
夏の始まり。つか子は仕事の関係で南西部に行くことになった。この旅が翌年の離婚につながることになるとは考えもしなかった。つか子はただただ心身ともにくたびれ果てていた。行く道の飛行機の中で、この飛行機がたとえ墜落したとしても自分はそれでも良いという心持ちだったのを覚えている。他の乗客の安全など思いやる余裕はなかった。

一週間余りの旅で、高地砂漠とロッキー山脈の森を立て続けに味わったつか子は、いきなり「自分の今のままの生活をずっと続ける必要はない」という思いでいっぱいになった。初夏の空を背景にそびえ立つ雪をかぶったロッキー山脈。「自然はこんなに大きいじゃないか。なにも悩むばかりの今の生活を続けることはない」と。

 裸にて 生まれし 我は 裸足にて 若葉の大地 踏みしめて あおがん

                5

離婚
どんなにうまくいってない結婚でも、離婚は人生で最も辛い体験だと聞いたことがある。つか子には結婚していた間に味わった底のない寂しさと焦燥 しょうそう、たった今通り抜けようとしてる辛さ、惨めさ、そして未知なる将来への重苦しい不安。。。それが全部いっしょくたになって、つか子の気持ちをふさいだ。

当然だが、何より罪深いと苦しんだのは産みの親が良き家庭をといって信頼をおかれたのに、その家庭を今自らの手でこわすことだった。つか子は一人で泣いた。

子供たちにとっては、その二、三年前まで口争いをひんぱんにしていた親たちが「静かに」なったので、別居、離婚と聞いたその驚きはさぞ大きかったことだろう。しばらく時間をおいた翌年、子供たち二人とつか子だけで旅に出た。そこで、それまで何も言わなかった息子たちが「なぜ?」と初めて聞いた。

なぜだろう。水が流れる道がふさがれたとき、そこからこぼれ落ちて岩をもくずす。。。と言うのだろうか。

二十五年以上経った今、自分をいつわらずに語れるかというとまだ心もとない。夫に乱暴されたわけでもない、浮気を見つけたからでもない、甲斐性 かいしょうがなかったわけでもない。要するに、つか子がわがままだから、自分の生きたいように生きたいから。結局、今のままでは自分の生きたいように生きられないから別れたということに過ぎない。そんなことをして子供たちのことは考えなかったのか?

羨ましい気持ち
母親に会いに、たったの一週間の滞在日程で二、三年おきに帰った折の会話の一つ。「自分は人をうらやましく思ったことがない。いつも今が一番、今が一番と思ってきた。つか子もそうでしょ?」と母親に聞かれた。つか子は「とんでもない、うらやましく思ったこと大あり」という言葉がつい口から出そうになった。

最初の結婚が離婚に終わってから、知り合いでもう七十代の夫婦とアイスクリームを食べていたとき、この二人が一つのアイスクリームを注文して、二つのさじでからかい合って笑っているのを同じテーブルで見ていて、つか子はどっと涙が出てこの方たちを驚かせた。結婚していた十数年にあったかもしれないが、そんな時はつか子の記憶にはない。結婚した夫婦が一緒にいるだけでたわいもないことに笑ってる。それをつか子は心底うらやましく思った。

誰もうらやましく思ったことはないと言い切った母親だが、詠んだ歌には、そうばかりではなかったことが伺える。

 たてひざに ひたいをのせて 待つばかり うれいの雲の 通りすぎるを

   むらさきに 立ち昇る気の ゆさぶりを 押え 治めて 俎に立つ

離婚して一、二年後、夫の弟と会う機会があった。つか子が「わたしにはお兄さんを理解できなかった。どうしても通じ合えなかった」と話したら、弟は「ああ兄さんを理解するには、兄さんの聞いているクラシック音楽を聴きとれないと無理だ。兄さんは自分の感情を音楽にたくしてあらわす人だから」と言う。

ああそれではつか子には手の届くはずもない。クラシックは子供のとき毎朝両親が聞いていたので聞きなれてはいたが、そんな理解の深さはつちかわれなかった。夫は離婚後、数人の女性と付き合い、つか子より二、三年早く再婚した。よけいなお世話だが、つか子は時たま遠くから、夫と再婚相手は伝え合う言葉を共有しているのだろうかと思うことがある。

                6

女は、一生に一度、蛇になる
つか子は自分がヘビだった時のことを覚えている。だから、有吉佐和子の作品の中に「女は誰もが一生に一度は蛇になる」といった意味の不可思議な文章が目に入ったとき安堵した。そうだ、自分だけではない、ほかの女たちにも一生に一度はヘビになる時がくる。確かに、自分の身体から魂が抜け出てヘビになった、そうとしか説明のしようのない動き方をつか子は体験した。だからといって、自分のした行為は分別もある大人の自分であり、他の何者のせいにもできない、自分から出たものだ。

現実には、実際に人を傷つけた。それを知りながら、何度もそこをぬけ出ようとしながら、長い間ぬけ出ることが出来なかった。この時の状態を、つか子は「あの時、わたしはヘビだった」としか説明できない。それで罪を逃れきることはできないのだが。

あの時も、あの人は遠くの地にいてつか子は一人だった。つか子が呼んでも届くところにはいなかった。つか子の好きなシャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』の中で、ジェーンの愛するエドワードが「ジェーン、ジェーン」と魂の底から呼んだ声が、届くはずのない土地まで届き、「はい、今、参ります」とジェーンが答えたシーンが心に浮かぶたびに涙が出る。

そんなことはつか子にはなかった。たった一人で、自分の根っこが腐っているという感覚にさいなまされた。つか子は、この時も自分の掘った穴に落ちた苦しみだけでいっぱいで、人のことなど思いをいたらせることはなかった。「耐えられない」と言いながら、実際には耐えている。その方を選んでいる自分、その頃を思うと身ぶるいするほどいとわしいが、それがありのままの自分だった。

卒業して次に向かう
そういう時期に、日本に里帰りした。母親が誰にとも言うでもなく「『何か』に囚われている自分に気づいたら、それを『卒業』して次に向かうことにしている、自分は」と言った。部屋にはつか子しかいなかったので、自分に向けて言っているのだとはわかったのだが、何も話してない自分の悩みをどうやって母親は知ったのだろう。

「つか子のしてることは私が後ろを向いていてもわかります」とずっと以前に母親に言われたとき、つか子は正直怖かった。

離別を告げるのに母親に話すのは一番最後になった。年老いた母親はさぞ悲しむだろう、心配することだろう。遠く異国にいて半世紀を超えようとする歳で、二人の子持ちの離婚。そして、つか子に代わって悩むのではないかとそれが心配だった。ところが恐る恐る話したつか子の話を聞くと、間髪 かんぱつ入れずに「ああ、嫌な人と一緒にいるより、一人の方がずっといいじゃない?」と一言。

バチが当たるの反対はなんだろう。あれほど愛してもらっておきながら、何もしてあげなかった。自分のことでいっぱいだった。バチが当たっても当然のむくいなのに、母親の死をきっかけに、つか子は自分の人生が幸せに向かうかじを取った。母親がつか子に望んだのはただ一つ、幸せになってほしいということだと、あきれたことに初めて気がついた。それで幸せを求めた。

                7

再婚

再婚した夫は六十代でもどこか少年っぽい。そのままの自然体、どんな時も。ニューヨークに行った帰りの電車で何でもない話をしていたところ、「ちょっと聞いてもいい?」「いいよ、なあに」「僕と結婚してくれる?」

それを聞いたつか子の胸の中は、さまざまな思いが波のようにおし寄せた。そもそも結婚という形式、それにまたとびこもうとするのか。4年前に離婚に終わった結婚のこと、子どもたちのこと。もう一つ、自分の胸の中にほかの人が生きてないか。。。その時点で、あの人とは、もう25年どこからみても何の繋がりもなかった。それでもつか子は暗くなった窓の外に顔を向けたまま、自分の気持ちの底の底を覗こうとした。そこには何も見えなかった。

はっきりしたのは夫になった人を愛したい、愛そうとしている自分。それが出発点になった。

つか子の望んだ、二人が二人とも自分でいられてそれでいて寄りそい暖め合う関係、それは結婚生活の初めからあったとは思わない。衝突もあった。ただ幸運なことに、歳を重ねれば重ねるほどそれに近づいていける気持ちがした。

         里いもの皮むく 暮のしやわせよ

これは、母親が七十七歳の時詠んだ句だが、二番目の夫との日常のおだやかで幸せなつか子の時期をあらわしている。

ただ、自分の心にもう一歩踏み込んだとき、フェアではないと知りつつ、夫と話し合っているふっとしたときに、ああ、こういうときに、同じ感じ方のあの人とだったらすぐにわかり合い、対話がはずみどんどん考えも進むだろうと思うことがあった。きっと夫にもそういうことがあっただろう。つか子だけじゃない。夫だって、ああこれがほかの誰それだったら。。。と思った時もあったことだろう。どちらも一度も口には出さなかったが。

                8

「たまたま」で始まるリブの替え歌、ウィーマンズブルースの続きの一節。
「ワタシのサイコロ、ワタシが投げるヨ〜、どんなメが出ても、泣いたりしないサ〜しないサ〜しないサ〜〜」

米国に来てからも、この歌詞を頭の中でくり返し歌ったつか子だが、泣くのはワタシだけでないということに、今になって思いいたる。つか子が20代の頃、普段おだやかな叔父が「つか子が大型トラックかなんかで道を走りぬけると、ドロ水がまわりの人たちにひっかかるのを知ってるか」と言った言葉が今でも心に沁みる。そうかと言って「おじさん、今一度あの時にもどっても、ほかの道は選べなかった」と言うしかない自分があるのも知っている。罪深いことだ。

つか子は、いつか自分が日本に住みに戻れば、このドロ水がかかる人たちが必ず出てくるだろうと思う。そして、自分のようなものが楽に自分でいられるだろうか。。。「みんなガマンしてるのだから」と聞くと、この歳でもとび上がって抗議したくなる自分がいる。

ただし、その「みんなガマンしてるのだから」のおかげで、社会がスムーズに動き、それが時には生死に関わるのをつか子は最近再認識した。2024年元旦の羽田の航空機衝突事故で、大型の航空機から400人近くの乗員が20分足らずのうちに全員脱出できたと聞いて、見事だと、つか子の友人あたりでは話題になった。日本では、いざという時の訓練を普段から受けているのもこうを奏そうしたのだろうが、アメリカ人だったら、こうはいかないだろうと言う。それぞれが自分の意見を主張して、おそらく好き勝手なことをしだす。そのせいで、きっと大切な命を落とす者も出ただろうと。

市民権
いつごろからだろうか、住んでいる国の選挙で自分の一票を投じられないのは問題だと強く思うようになって、市民権を取った。取ってから初めて国外に出て米国にもどった際、空港の出入国管理局の窓口で、『Welcome Home』「お帰りなさい」と言われた一瞬、とまどった気持ちになったことを覚えている。その後続けて『Stay Safe』と言われて、つか子の心が騒いだ。飛行中、また何か事件が起こったのだろうか。『Stay Safe』は、『Take Care』「お気をつけて」と違って、「危険を避けろ」といった意味を持つ。

米国の特に大都市に住んでる限り、いつ何か危険な状況に出会ってもおかしくないということが常に意識上にある。つか子の日常にもこういったストレスが影を落とす。いつか友人と街を歩いていたら、日本人の観光客らしい団体と出会った。友人がつか子に言った。「この人たちの表情を見ると、今まで危険というほどの危険にあったこともなければ、これから出会うかもしれないと思いもしていないのがよくわかる。」

「そんな所によく住める!」と日本の人に言われそうだが、これは、つか子が「日本では、地震が日に平均50回ぐらいある」と言った時のアメリカ人の反応に似ている。答えは同じ。It’s my home, so…「だって、住み慣れたうちだもの。」

                9

静かな湖
運転している息子の隣に座っていたら、いきなり、「それで、母さん、クエーカーって、どんな気持ちがするの?」と聞いてきた。そんな話をしていたわけじゃない。なんでもないやり取りをしていた。どこからそんな質問が出てきたのかさっぱりわからない。普段からそんな疑問を持っていて、いつか聞きたいと思っていたのだろうか。

それで、つか子はモゴモゴと口を動かして答えた。「どの人の内にも、神が宿る、だからどの人も傷つけたりましてや殺したり出来ない。牧師とか神父とか法王とか通さずに直接、神とつながることが出来ると信じているの。だから牧師も何もいない。神にしても、それを内なる光と呼んだり、精霊 と見たりする人もいて、イエスの教えに習おうと想う人もいる一方で、イエスは『良い人間だった』と言う人もいる。聖書を読む人も中にはいるが、聖書をたのみにする宗教ではない。。。生きている間を問題にして、死後は問題にしない。そして、クエーカーが心にきざんでいるのは、簡素 かんそ、平和主義、真摯 しんし、平等、コミュニティ。。。」

言いながらつか子は、息子がそうしたことを聞きたいわけじゃないのはわかっていた。「クエーカーだという母親のつか子の心の中はどうなのか」と言っているのだった。

すると、これもどこから出てきたのかまったくわからないのだが、つか子は自分の口から「ママのことを言うと、自分の中に静かな湖があって、いつでもそこに行かれるっていう気持ち。」そこで、息子はだまった。こんな思いがつか子にわいたのは初めてのことだ。それまではなかった。それとも思いはあったのだろうか。それが初めて言葉になった。息子の思いがけない質問のおかげで。

クエーカーの礼拝
初めてクエーカーの礼拝に行った人は、まず「教会」のイメージをいだきながら部屋に入ると、そこには飾りが何もないことに気がつくことだろう。写真も絵もない。十字架も聖書もない。音楽もない。牧師/神父に当る人もいない。

そして初めから最後まで沈黙のうちに一時間が済むこともまれではない。この沈黙は「待ちのぞんでいる」時間で、もし、人がその時間中、沈黙が深まり、メッセージがうかび、そのメッセージは、単に自分へのメッセージでなく、そこに一緒に礼拝に参加している人々にも向けたメッセージだと確信すれば、立ち上がってそのメッセージを口にする。それは、前もって準備したものでなく、その礼拝中に浮かび、それがどんどんふくらみ、自分のしん から動かされ、時には身体まで震え(quake)、もう立ち上がるしかないといった心境になったときのことだ。クエーカーというあだ名はここから来た。ここで言うメッセージは、どこから来るのだろうか。それを神からという人もいれば、スピリットだと言う人もいる。人間を超えた存在。内なる光。。。

祈り
つか子は、どこか遠くで人間を見守っている存在としての神を信じていない。ただ、心を込めて、いや、魂の底から祈る人々の姿に心を動かされる。ロシアの片田舎の教会で祈りの列に入る機会があった。二列あって、一つはこの世を去った人のために祈る列、もう一方はこの世にいる人のことを祈る列。普段、祈りという祈りをしないでいたつか子は後者に入り、うす暗い会堂の片隅にマリアなりの像の立っているところで、神父の助けを受けながら祈りをささげている人々の後に並んで、自分の番を待った。

つか子は、今までの一生で渾身 こんしん込めて祈ったことが一度ある。その祈りがかなったため、神を信じないと誰にでも大っぴらに言える一方、祈りを信じないとは言えない自分がある。では、誰に向かって祈っているのかという当然の疑問が出てくるはずだが、それは触れずにいる。

               10

歳を重ねる
再婚の夫とはひと回り以上歳が離れていた。そして、二十数年共にした日々で、年齢の差が縮まるのを身をもって知った。歳を重ねる過程は簡単には言い切れない。変化は急激だったりゆるやかだったり、それが交互にあったり。ただそれを一人でするのと、誰か例えば夫婦の片割れがいてくれるのとでは、こなさなければならないハードルや不安の中身にずいぶんと差があるだろう。

ここにきて、父親、母親が病いにかかりながら歳をとる長い過程で、つか子はまわりにいることなく、一切世話をしないで、家族に精神的にもどんなにその負担をかけたことか、ようやく思いいたる。自分のために使えるはずの時間、エネルギーをどれほどさいてくれたであろうことが、やっと見えてきた。

夫がこの世を去ってからつか子の「日常の時」は止まった。まだそこに気持ちをもっていくことはできない。ましてや言葉は出ない。ただ一つ、夫が逝った後のこと。

夫のランニング
本当には、人を知ることは出来ないと感じ入った経験。
二十数年も朝夕を共にした夫が亡くなり八か月ほど経った頃、アパートを引き払うため、誰でも何かほしいものがあったら持って帰ってほしいと夫を生前知っていた友人知人に声をかけた。一人、つか子が名前しか知らない誰かしらから、次の週末の午後寄ってもいいかとメールがきた。もちろんと返事をしたが、どんな人だろうといくらか好奇心を持って待っていたら、そっとたたく音でドアを開けると、若さはもうとおに通り越したがそそとした美しいひとが現れた。つか子と目を合わせるでもなく、口数も少なく、ただシャツが一枚欲しいと言う。つか子が好きな一枚を出すとなぜか手を出さない。

欲しいシャツは、夫のランニングだとわかった途端、つか子は、自分の心持ちがそれまで好奇心だけだったのが、いきなり嫉妬心に変わったのに驚かされた。もう亡くなって、つか子にもほかの誰の手にも届かない夫。それでも他の人に取られないように見張ろうとしているつか子。何だろう。もう処分したので、それはないと言ったら、それならと、つか子の選んだシャツではないものを持って帰った。なんということだろう。もう二度と会うことのない人だから、いいようなもの。

こうして、人には知らない過去があるのは自分だけではないというのに気がついた。何が二人の間にあったのか夫に問いただしたくても、もはや夫は答えない。そこに気持ちをもっていくと未だに悶々 もんもんとするので、そうしないことにした。

               11

自由が一番、その次に、愛
つか子は、この歳になって、自分の生き方が表面全く正反対に見えて、実は母親の思いがずっと自分の指針になったのだと気づかされた。母親を超えて生きてきたはずが、実はそうではなかったという思いは、つか子には簡単には受けいれられない。

明治生まれの母親が80の祝いを自分で取りしきって、女性ばかりのパーティを開いた。つか子は日本におらず出席できなかったが、後でスピーチの一端を聞いた。「人生で一番大切なのは、自由と、そして、愛です。」その時、まだ40代の女性が、「でも、おば様。愛が最初で、自由が次ですよね」と言うと、つか子の母親は、キッパリと、「いいえ。自由が一番、その次に、愛」と言い切った。

そうかというと、「恋愛は計算し始めたらおしまいです。とにかくパッションがなくちゃ。」そして、時にいきなり、「生きてゆくのは、命懸 いのちがけ。。。」と歌い出したりした。

母親が今そばにいれば、「お母さん、今、こうして、どんなりくつにも合わない、誰に言ってもわかってもらえない旅に出て、ネパールの空港に向かっているのも、お母さんのせいでもあるんですよ。」もし、あの人が来なくても、それでも、この旅がなかったわけではない。つか子の人生を飾る一コマ。母親の口癖の一つ「人生に無駄なことは一つもない。」

空港に近づけば近づくほど、あの人は、やってこないだろうという気持ちが強くなった。この気持ちは、数十年前のあの時にもあった。新婚早々の自分の結婚を「どうしようかと思ってる」と言ったあなた。その時も、つか子は自分の部屋で一人になった時、「ああ、あの人は自分の元にはやってこないだろう」と思った。まず「優しさ」のあるあの人に、新婚の相手を悲しませることは、とうてい出来そうにもない。それに、自分の人生を作り上げている真っ最中のつか子と違い、あの人は、すでに自分の目的に向かって進んでいる。その情熱の前には、どんなものであれ、ほかの熱情は影がうすれる。その通りになった。あの人は、自分の人生をひっくり返してまでつか子を選ばなかった。

               12

ズシンと、つか子の身体に振動が走り、飛行機が着陸したことを知らせた。

その時、つか子は、20数時間前に米国を出て以来初めて、覚めた自分に戻り、「あの人」は来ない、いえ、来るはずがないという事実を直視した。「あの人」に書いた手紙は、今、つか子のバッグの中に入っている。推敲 すいこうを重ねた手紙は、つか子の手元を離れなかった。だから「あの人」にとどくはずもない。手紙を「受けとったあの人と、つか子のやりとり」は何度も頭の中でくり返し、ソラで言える。それは、つか子の心のどこかで欲しかったやりとりだ。あったかもしれないやりとり。でもそれは心の中だけのことだ。「夢のつづき」、現実にはなかった。何度も開けては読み、また閉じた手紙。でも投函することはなかった。なぜ?

それは、つか子が四十数年前と同じように躊躇したからだ。この年齢だからもう許されるといった勝手な論理が通るのは、事実を自分の都合の良いように曲げてるからだという明白な点を、直視せざるを得なかったからだ。「ヘビになった」中年のあの時の何かに憑かれたようなつか子と違って、躊躇する壁を取っ払うようなエネルギーはもはや無い。

「あの人」に会いたい、いや、命あるうちにもう一度、目の前にするのだという思いに駆られてから、自分の人生をふり返ると、よくもというほど人を傷つけてきたのに気づかされる。この年齢で、後、数年の命で、人を傷つけるかもしれないことを知りながら、今一度罪を犯そうとするのを躊躇した。そんなところかもしれない。

それでは、なぜ書いた手紙を破りすてられないのか。同じ内容のメールもボタンを押すだけになっている。そのボタンの上を震える指が何度交差したことか。

つか子はたなから荷物を取り下ろしそれをつかんで、通路からドアに向かった。外は明けがた、うっすらとした光がひどくゆっくり周りを照らし始めていた。



    


                第三章  
   

ネパール

          
     TOKYO - PHILADELPHIA - POKHALA - NOVA SCOTIA
      東京ーフィラデルフィアーポカラーノバスコシア
 
               夏の夜明け
 
               POKHALA
 
                 1
    
指は震えていたが、つか子の胸のうちは決まっていた。行きつくところまでいかないではすまない。ポカラに着いたその晩、つか子の指はひとりでにあの人へのメールに向かい、今いる宿の名を足してから「送る」を押していた。そして、コンピューターを閉じた。
 
知らない土地を踏んだとき、つか子の闘いは終わっていた。吸ったことのない空気を吸いこみ、自分の身をおいたことのない山々の狭間 はざまで、見たこともない色合いの家並みや色鮮やかな服装をまとう女たちがいっぺんに眼に入る。ここまで来た自分は、もういつもの延長のつか子ではない。つか子は普段のさまざまな制約をこえていた。
 
ロッキー山脈に囲まれて息を吸ったアメリカ南西部の旅を思い起こしていた。あの時、高くそびえる雪をかぶったロッキーを見上げて、なぜか、ああ自然はこんなに大きい、このままの生活を続けなくて良いんだという思いでいっぱいになった。
 
今、ヒマラヤの ふもとで何かが生まれようとしている。つか子の今は魂がぬけ出てヘビになったときと似ていた。でも今度はヘビではない。鳥だろう、大きな鳥、コンドルか。
 
その後すぐ寝床に入りぐっすり眠った。今朝はメールを見ずに、食堂の朝食に向かい、窓の開いた外の見えるテーブルで、母親の分も空気をいっぱい吸い込んだ。そのまま出口から町に向かった。
 
つか子は、あの人の今を知らない。胸の中で想像しているあの人は、息子二人に娘一人、多分、犬一匹。聡明 そうめいな人と暮らしている、心地よい生活。娘も息子たちも独立して、それぞれ家庭がある。退職した後は、社会の役に立とうと活動を続けている健康な七十代。何一つ、欠けたところのない人生。おそらく、大抵の人の経験する傷は負っていることだろうが。旅行は、アジア、ヨーロッパの国々は、ほとんど行っていることだろう。オーストラリアもニュージーランドもアフリカも。趣味は豊富。一つ、つか子が驚くような趣味を持っているかもしれない。スポーツもやる。音楽も聴く。落ち着いた七十代。そんな人が、つか子の突然のメールに、すぐ腰を上げるだろうか。おそらくそれはないだろう。
 
どこかで、人生に物足りなさを感じているか、寂しいか。。。そういった状況をつか子は想像したいのだが、どうしてもそんなことは思いつかない。健康に問題があれば別だが、あの人には多分これといった大病はないだろう。
 
そうなると、どんなにつか子が想像をたくましくしても、つか子への対応は、良くして、「メールもらって、嬉しかった。幸せそうで何より。。。」といったたぐいだろう。もし、一歩進むとすると、好奇心。むしろ、つか子の嫌いなインテリ、あるいは、自信たっぷりな人になってしまっている可能性は大。そうなると、つか子の方でごめんこうむる。
 
                2
 
外から戻って一息つき、ようやくつか子は自分にメールを見るのを許した。

そこに、あの人からのメールがあった。
「つか子、木曜日、午後着く。ホテルで会おう。」生まれて初めてもらったあの人からのメール。
 
つか子は動転した。今日は、日曜日。
一度に、色んな思いが交錯こうさくした。ベッドに倒れ込んで、窓の外を見上げると、ヒマラヤは、つか子の世界がひっくり返ったことも何も知らず、半時間前と同じ、そのまま何一つ変わらずに、知らん顔してそびえている。遠くの廊下には、客たちが見物からもどったのか話声が聞こえる。
 
それにしても、なぜ、あの人が、遠い昔、ほんの少し気持ちが触れ合っただけのつか子に、メールを返したのだろうか。一日に何十ももらうメールの中で、なぜつか子のメールが生き残り、あの人の眼に触れ、読む時間を与え、それで、このような返事をすぐに書かせることになったのか。メールを出した本人のつか子さえ、「統計上」そのあり得ない事実に困惑こんわくした。
 
ありのままのつか子の胸のうちは、あの人への手紙にしろメールにしろ、あれだけ躊躇し、出そうという誘惑とたたかってきたのが、新しい土地を踏んだ途端にそれに負けてメールを出した今となっては、こちら側の責任!は果たした、向こうがどう出るかはつか子の責任外だと、やっと楽になったところだったのだ。
 
思い出箱にフタをして閉まっておいたあの人を、実際に自分の目の前にするという思いがけない事態の展開に、どこから手をつけて良いのか分からないといった気持ちだ。初めて、あの人がどんな外見だったのか、つか子はどう対したら良いのか思いめぐらした。初日に空港で出会ったのなら、どちらも準備なく「いきなり」会えたのだが、あと三日もあるとなると、つか子のネジはキリキリ舞いしてしまうことだろう。

写真など一枚も撮った覚えがない。ただ、二十代の時の印象だけ。髪の色や目の色、顔形、どれもはっきりしない。四十年以上経った今となっては、昔の記憶があってもおそらくムダだろう。気持ちの良いほど大胆 だいたんだったのだけは記憶にある。そのおかげで、つか子も大胆な自分を出せてそれがつか子は好きだった。あの人の前にいる自分がいっとう好きなつか子だ。
 
「ハワイ、ハワイ」「ハワイに行きたい」「ハワイに住みたい」と言っていたつか子に、息子たちが聞いた。「どうして、そんなにハワイが好きなの、母さん」たどり着いたその本当の理由は、「それは、ハワイの自分が、自分の中でいっとう好きだから。」どこまでも、広々とした海、息をのむ景色、火山、珍しい植物、気候、ハワイの良さを言い出せばキリがないほどだ。でも詰まるところ、つか子はハワイの自分が好き。なぜか自由に気楽にのびのびできる。人とつながるのもつか子がつながりたいと思うまま。そのつか子が好き。
 
それで、今、たった今、気づいたのは、あの人といる自分が好きなんだ。あの人が好きというより、あの人といるつか子が好き。いっとう好き。あの人といると幸せというのとちょっと違うのだろう。
 
                3
 
ここに来て、今まで思い出箱に閉まっておいたあの人が、つか子に向かって跳び出してきてつか子の胸を打つ。
 
一度つか子が仰天したのは、何人もいる人前で、つか子の耳にあの人が自分の指を突っ込んだときだ。そんなことをしたひとに会ったこともない。無論、クールを看板にしていた若いつか子は、そんなことは毎日経験しているといったように、驚かされたとはお首にも出さなかったが。
 
数人で議論している最中、あの人が理不尽な要求を言っていると感じたつか子が、いつもの「でも。。。」で話し始めた。「でも、それは、大抵の人に要求するのはフェアじゃない、出来ることではないから。そこまで考えられるわけがないから、それが出来るのは、例えば。。。例えば。。。」と言ってつか子は言葉に詰まった。それを言ってしまえばあの人を持ち上げることになるので、躊躇したのだ。すぐに気づいたあの人は「言ってくれ、君に、言って欲しいんだ、僕は。」それで、一呼吸おき、つか子は「あなたみたいな人」と言葉を続けた。その時、つか子は、なぜか「自分は負けた」という気持ちに襲われ、その瞬間、自分が恋に落ちたのを知った。おそらくあの人も同じ瞬間。
 
ほかに、覚えている会話といえる会話は、つか子の言ったことにあの人が本気になって怒った時。つか子はタイとフィリピンから帰り、そこで見た、外国から来た男たちが地元のうら若い女性と腕組みして、あさましくも「得意気に」街を歩いているさまだった。日本の男たちもいたのだろうが、集団で動くことが多いらしく、この旅ではつか子の目にはつかなかった。
 
「タイに行ったことあるでしょ」
「うん、行った」
「それじゃ、そこで、『女』を買った?」
「つか子!なんて言うことを言うんだ。どの国だって、日本人同様、いろんな人間がいるんだ。一緒にしないでくれ」
 
あの人が怒ったのを見せたのはこれが初めてだった。グループが、もう問題にする価値もない(あの人に言わせれば)討論のトピックにまだ止まっていると、文句を言ったのは覚えているが。同性愛者についての話で、それは、我々のような者たち(つまり、進んだ思考のできる者たち)にとっては「もはや古い問題で、討論するに値ない。」というのだ。1970年代のことだ。

ああ、そんな風に言い切れるのはどんなに気持ちが良いだろう。。。と、うらやましく思った。自分も、人がどう思うか気にせずにスパッと言って、その時のまわりの人の驚いた表情にかすかな喜びを見つけることが出来るなら、自分が何倍にもふくらんだ気分にひたれることだろう。
 
写真など一枚もない。交わした手紙もメールもない。耳の件以外、お互いに触れ合ったこともない。何もない、とつか子が思う心持ちは本当だ。それでも、思い出だけは、そびえている山のように微動びどうだにせず、つか子の胸に数十年の歳月生きている。
 
                4
 
ようやく木曜日がきた。午後の飛行便は二本しかない。つか子は胸が踊り、ホテルでじっと待ってなどいられないといった気持ちで、早い方に合わせて空港に向かった。迎えに行くとは言っていないので、つか子の前を通りすぎる可能性もある。写真もなく、四十数年前のうろ覚えのあの人。でもきっと、姿、身体の動かし方を見たらわかるだろうとカケをして行くことにした。
 
七十代ぐらいの男、二人、似たような人が降りてくる。
一人は迎えがいるらしく、そちらに向けて手を振っている。するともう一人のグレーの長袖を着た方なのだろうか。つか子は胸の動悸が激しくなったのが気になった。肩で息をしてる自分。その人はつか子の方を向いて、頭をかしげて、君は?といった動作をしてみせた。つか子は、こくんとうなずいてみせた。なんともロマンチックでない出会い。
 
なんと言っていいのかもわからない。男は寄ってきて「つか子?」と聞いた。
「うん」
「そうか、つか子か。」
つか子は、相手が、自分の身体全体を一通り目の中に入れているのを感じた。がっかりしたのだろうか。
つか子はどうだろう。座って一緒にコーヒーを飲んだ時の印象が強く、すぐ隣に立ったのは記憶にないつか子には、あの人が思っていたより背が高いのに気がついた。表情はもっと柔らかかったという印象があったのだが、そうじゃないのが微かに気になった。正直に心のうちをのぞくと、つか子もがっかりしたのだろうか。つか子があれほど夢みた瞬間がやってきたが、思い描いたような光に輝いた波が寄せてくるような感動はない。

握手をするのも抱き合うのも二人の関係にそぐわない。全くの他人でもなく知り合いでもなく。その人は荷物を下に置いて両手をつか子に差し伸べたので、つか子も自分の両手を出した。あの人の手と言わず身体のどこにも触った覚えがないので、両手が触れたその瞬間、ピリッと電気が走った気がして、それが相手に気づかれないようにつか子は祈りたい思いだった。

その後、どう気持ちを操縦そうじゅうしたら良いのかわからないといった状態だった。つか子は、互いにぎこちないのが、内心、実は気に入っていた。どちらもスムーズにこの場を通り抜けられないのが、逆に気持ちよかった。
 
しばらく、タクシーをひろうとか、ホテルはここに近いとか、そこからの眺めはどうとか。。。そんな話に終始して、ともかくホテルに着いた。
ホテルに着いてから、つか子は、食堂の外のベランダにいるからと言って、フロントに行くあの人と別れた。正直に言えば息をつくために。

今、一体、何が起こったのだろうか。つか子は深呼吸してみた。そして、はたから見たらおかしいと見られるかとちらっと思いながらも、これからマラソンをする選手のように、手足をぶらぶら振ってみた。そして身体全体も。そうでもしないと自分で自分をどうして良いかわからない。そうして、あの人の眼は、夫の青い眼と違い茶色ぽかったという点が心をよぎった、だからどうだというのかつか子自身にも説明出来ない。

しばらくして、あの人が亜麻色あまいろの半袖でベランダにあらわれた。こういう時に、自然は良い。歴史は良い。今まで経験したことのない、習慣も良い。そこに二人は「逃げた。」その日の予定、次の日からの予定を立てるのに頭を使った。
 
行く先には標高がいくらか高い所もあるので、呼吸にさわりが出るかもしれない。あの人は夫のように肺活量が少ないのだろうか。それを聞くには遠慮がかって聞けない。
 
ほかのことは忘れても、大胆さだけはつか子の記憶にはっきりときざみ込まれている。それは一体どこにいってしまったのだろう。言ってみようか。
 
                5
 
会って数時間だけの二人には、互いの間にける橋がない。

別れる前に、数日でも一緒に生活したという歴史などあれば、別だ。英語にオールドタイムセイクという言い回しがある。日本語なら、昔のよしみで。。。だろうか。それが全くない二人には、どうやってこの膨大な時間のギャップを埋めるのだろうか。

つか子は、近年歯医者通いをよくしたが、そこで、問題の歯と支える歯の話を聞いた。問題の歯をどうとかするのに、両側のささえる歯の骨が十分ないとどうすることもできないというのだった。四十数年のギャップ。それを今つなげようとしても、そのギャップ前の時間にそれをささえるような「骨」がないことには、どうにもならない。
 
木曜日に来ると聞いてから、それじゃ、つか子の帰国する月曜日まで正味しょうみ丸三日しかないとその短さに心の中でひめいを上げたが、今となって思いまどうのは、丸三日どうしたら良いのだろうか、何を一体話したら良いのだろう。「いいとこ」だけ出して、それで分かった気になって別れるのだろうか。
 
他にも、つか子の心のうちを騒がせた「心配」もあった。もしあの人が一人ではなく、彼女とあらわれたら、つか子はとても一緒にはいられない。返事の中に「木曜日に着く」と書いてあるので、一人なのか、他の人と一緒なのか判断できない。

夫に、昔の人が「会いたい」と言ってきたとき、つか子は迷った。夫は「一緒に」と言ったが、たまたま、その日は用事もあって、会う時間には間に合わないのは分かっていた。つか子が全然顔を出さなくても構わなかったのだろうが、つか子は気になった。最初の用事を済ませた後、行こうかどうしようかと迷いに迷っていたとき、親友の女友だちに電話で自分の迷ってる気持ちを伝えたら、「堂々と、行くべきだ」と言われ、それに押されて行ったのだった。その言葉を待っていたのかもしれない。行って良かったと思う。行かなかったら、つか子のことだ、想像が十倍にも二十倍にも大きくふくらみ、その想像に食べられてしまったかもしれない。
 
あの人に「一人で来るの?それとも?」と、聞くに聞けない。もし「僕と家内だ」とか言われたら、つか子はさっそくなんとか逃げ出す道を探したことだろう。
 
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会ってわかったのだが、あの人は、自分のことを話すつもりはないらしい。その気持ちになれないらしい。ただただ、つか子の話を聞いてくれた。驚くべき忍耐で。
 
朝食の後はツアー。そうして、ツアーから戻ってからは、それぞれの部屋にいて、夕食で会い、その後、散歩をしながら話すのだったが、話すのは、いつもつか子だった。あの人は話したがらなかった。たわいもない話をつか子がしてる間、あの人は、自分のところはこうだったと口をはさむでもなく、ただ黙って聞いてくれた。調子に乗って、つか子はどんどん話した。
 
日常、つか子はいつも聞き手に回るのがたいていなので、おかしな気分がした。普段、たとえつか子に順番が回ってきても、話してる最中、自分の番から一刻も早く他の話し手にバトンタッチをしようしようと、そのチャンスをねらっていた。ところが、今たった一人バトンタッチのできる人が手を出さないのでバトンが渡せない。
 
なぜそうなのかと、つか子は、毎晩部屋にもどると思いあぐんだ。
気分が滅入っているようには見えない。楽しんでいないわけでもなさそうだ。ただ自分の話をしない。それに反比例して、つか子はいつになくおしゃべりになった。本当にささいな子供のときの話。
 
子供の時、「空襲くうしゅうだあ」と言ってみんなが逃げまわる遊びをしたと話しはじめた。しばらくすると、「今のは九州のまちがいでした」とか言って、おしまいになる。それに、近くの神学校のビルが空襲にあって土台だけ残っていて、それが近所の子供たちの大の遊び場になっていたことも。夏には路地ろぢでお化けごっこをした。暗くなってからその路地を通らなくてはいけないのだが、こんにゃくだったのだろうか、いきなり素足にぬるぬるした冷たいものが触って、つか子は大声あげて泣いて、泣きやまなかった。家に風呂がなかったので風呂屋に行った。そこで女風呂と男風呂があって、子供はそこを行き来できた。あるとき、女風呂の着衣所の大きな鏡に四歳年上の兄が走り回ってぶつかり、鏡がこなごなに割れたことがあった。それから話はなぜか兄の話になった。毎週のように教会の日曜学校へつか子を連れて行ってくれたのだが、あるとき、つか子がまだ二歳になるかならないかで、トップだけで下は何も履かないまま連れて行ったという。それに気がついた母親が走って追いかけて行ったという話。つか子は覚えてるわけがないのに、あまりにしょっ中聞いたおかげで、まるで、その時の記憶があるように鮮明だ。お尻に風が吹いた感覚まで「よみがえる」。デパートの屋上で一度クリームパフェをつか子にご馳走したというのも、何十回も!聞かせられた。つか子がアメリカから帰ると、必ずその話をそこにいる人みんなにくり返した。歌が好きで、つか子の小学校から大学までの校歌も覚えていて、お酒が入ると声を上げて歌った。夜寝る前に、兄は「お父さん、お母さん、お姉ちゃん、つか子、世界中の皆さん、おやすみなさああい」と言って寝るのが常だった。「世界中の皆さん、おやすみなさああい」まで話したところで、つか子はいきなり泣きだした。号泣ごうきゅう。思えば、七年前の兄の死以来、通夜でも葬式でも、一度も兄を想って本気で泣いたことがなかったのに気がついた。「優しい、おかしいことを言う兄だった。」そう言いながら、涙がどんどん出た。その肩を黙ってあの人が抱いた。その抱き方で、抱いてくれているのは男と女の間でなく、人と人との間の同情のそれだとつか子にも伝わった。
 
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つか子は、あの人の話を聞いた。
 
あの時の新婚の相手とは数年で別れ、その後は結婚はせずに、幾人かの女性と生活を共にしてきたという。今も。互いに自由を与え合うような関係、パートナー。続かなかった結婚は「自分のせいだ」と言った。「そうだろう」とつか子は思った。
 
あの人が話したのは、それだけだった。
 
「ぎごちなさは、おそらくないだろう、あの人は『優しさ』のある人だから。。。」とつか子が思っていたのは、あやまりだったと初日にそう思った。「人生には、何も無駄なことはない」と言い切った母親にも、あれはまちがいだったと訂正したい。「お母さん、でも、そう思いたくても、やっぱり、人生、無駄なこともある。」間違いだった、みんな。でも、まあいいや後三日のガマンなのだから、これで、飛行機を乗りつぎ乗りつぎ、懐かしい家にもどり、夫のいないベッドに大の字になって、転がり込みぐっすり眠ったら、それで良い。
 
そう言いながら、つか子が本当に恐れていたのは、あの人が、「僕は、もう帰る、急用ができたんだ。家から連絡が来た。ワルイね、つか子」と言い出すことだった。そうしたら、あまりにみじめだ。『たまたま』の歌の続き、「自分のサイコロ、自分で投げるよ、どんなメが出ても、泣いたりしないサ、しないサ」は、どうなったのだろう。つか子は、そうなったらなったで、自分が「大丈夫」なことを知っていた。立って歩けることを。ヘリにつかまる必要が出たとしても。
 
日中のツアーでは、訪ねるところどこでも、あの人には聞きたい質問がわき、それをガイドに尋ねているところを側で聞いていて、つか子はそういう訓練を自分に課さなかったことの悔いがよみがえった。これはずっと以前、高校の親しい友人と歴史の古い街を訪ねたとき、はっきりその差を感じた。物事を理論づけて考える力、これは生まれつきではなく、訓練なのだと言うことを思い知らされた。

ずいぶんの時間をつか子はぼおっとして過ごした。その時間は無駄ではなかったと思ってるのだったら、つか子はそれこそ極楽ごくらくトンポだろう。もしかしてあの人が胸の中で、もっと組織だって考えられる別の人とつか子を比べているのではないかとも思い、辛かった。そんなことはお首にも出さなかったが、双方。
 
ただただ、はやく最後の晩が来て、はやく帰りの飛行機に乗って、はやく自分の街の自分のベッドに帰りつきたかった。
 
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二日目につか子が泣くのは、二十代にボーイフレンドだったカレのことになった。

つか子のしてしまったことで、辛い話。カレの最後の手紙をつか子は捨ててしまった、クズかごに。その瞬間を覚えている。つか子がその大切な手紙を捨てた理由は、久しぶりに日本に行くといったつか子の手紙の待っていた返事がなかなかこなかった上に、ようやく手元に届いた手紙が、書きなぐったような字面だったから。それだけで。

いつも、丸まった字で、自分の思う気持ちをそのまま詳細に、紙面全部使って書いて寄越してくれた「つか子のカレ」。長い間何の返事もなかった時の落胆らくたんがあったとは言え、どうしてだろう。あれだけ、二人の間に深くつながった歴史のあるカレを、失礼な人!としか思わなかったつか子。それで、つか子は怒り、カレの最後の手紙をすぐそばにあったクズかごに捨てたのだった。後で、どんなに後悔することになったことか。
 
数ヶ月後、東京の電車の駅で会った時のカレのつか子を見る表情は、今、目をつぶっても浮かぶ。この世で、幼い子供以外はつか子に見せてくれたこともない、顔全体、体全体で表す100%うれしそうな顔。そして、理解した。カレが脳の病いにかかっていることを、脳のどこか一部がちぢまるといった病気で、進むにつれだんだんと身体全体の機能のコントロールが効かなくなる。

歩きながら「難病にかかっちゃった」と、調子は軽いながら、そうつか子に言った。つか子も知っている気持ちの優しいカレの母親はどうしているかと聞いたら、「自分は長生きし過ぎた」と言っていると、これまた軽い笑みを浮かべて話してくれた。つか子にはその母親の気持ちもその母親を想うカレの心持ちも痛いほど伝わった。
 
いつものように、一緒に食事に行った。レストランの隅に座って注文し食べ始めたのだが、食べている最中、カレがフォークを持つ手や話し声を調節できないことがわかった。その時、レストランの主人がつか子のテーブルにやって来て、「他のお客さまたちが怖がっています。お子様たちも怖がっているようで、今すぐお引き取りを。。。」と言いに来た。聞いたつか子の胸は針で刺されたように痛んだ。フェアでないかもしれない、でも正直この時ほどつか子が自分の生まれた国をうとんだことはなかった。

このカレがどんなにすごい人なのか「みんな、知らないのか?!」と、つか子は心で泣いた。カレが、常に社会の中で弱い立場に置かれている人の側に立って闘ってきたことを。見た目にしろ行動にしろ自分と違う人々とソデを触れ合う機会の少ないこの国の人たちが、事情がわからない場合不安になる気持ちはつか子にも十分理解できる。それは自然な感情と言えるだろう。でも、そういった時にこそ、自分と違った人たちへの思いやりを見せてほしい。

出来るかどうかわからないが自分もがんばってそうしたい。つか子はそう思った。その場で立ち上がってそう言えなかったつか子は、カレに何が起こっているのかなるべく知らせないように横を向いて、店の主人に「もうすぐ、食べ終わりますので」とだけ言った。「そしてこの時がカレに会う最後になった。」そう言った途端、つか子は泣き出した。
 
このカレが自分より若い彼女のことを思い、病気にかかったら早く逝って彼女に存分生きてもらうんだと言い、それを実行したというところは、もう涙で言えなかった。ただ、カレはすごい人だったと、つか子は言い続けるだけだった。

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三日目になると、あの人は今夜は誰のことでつか子が泣くのだろうと思ったのだろうか、黙ってつか子の話し出すのを待っていた。
 
母は母は。。。と始めた途端、すでに涙がどっと出て続けられなかった。あの人はつか子の頭を上げ、両肩を抱こうとしたが、つか子は絶対あの人に母の話を聞いてもらいたいと思い、それを突っぱねた。目を両手の甲でふき、もう一度始めた。母は。。。最後に会った時のことを話そうとしたのだが、つか子はそれは無理だとあきらめた。小さな思い出を話そう。つか子が小学生だったとき、夏になると毎年、ほたるをどこかしらから集めて放す庭園への遠足があって、母も付き添いで来ていた。つか子の友だちの一人が、「あっおばさま、蛍が、髪の毛に」と言ってそれを取り除いてあげようとした。すると母は、「これはね。私の髪飾り」と言ってにっこり笑った。つか子のしたことはどんなことでも喜んでくれた。歳をとってからは、つか子が帰ると、母が自分の部屋に座り、朝早く雨戸を開け、庭先の鳥の鳴き声を聞きながら、つか子が背中をさすって上げるのを喜んでくれた。もっと、帰ってあげればよかった。つか子が帰ってくるならと、好物のものを買い集めておいてくれた。まだ飛行場に行けるうちは、大好きな飛行場までついて来てくれた。もっと帰ってあげればよかった。もっと帰ってあげればよかった。帰って、背中をさすって、いろんな話をしてあげればよかった。どこか連れて行ってあげればよかった。つか子は、ただただ、後悔こうかいが胸にせまった。つか子のやりたいことは何でもやらせようとしてくれた。家族中の反対にあってもその矢面やおもてに立ってくれた。いつか、いくつか壊れかかったネックレスを日本に持ち帰り、近所の修理屋さんに頼んだ時、一つ母の注文のせいでか、直るどころかもう使えなくなってしまった。それをつか子は、まるで子供のときのように文句を言い、母を傷つけた。何も返答しなかったその時の母の表情は今でも忘れられない。

   若い日あなたに死ねと言った、あの日のわたしを殺したい 
        
八木達也作(『日本一短い「母」への手紙 一筆啓上』)
 
母が逝った年、一月につか子は訪ねて行くはずだった。「つか子が来るから。つか子が来るから」と懸命になって健康でいるようがんばっていた母なのだが、つか子は最後の最後になって取りやめた。それを姉から聞いた母は落胆のあまり食事を取らなくなり、それから一ヶ月もしないうちに、病院に入院した。やっとつか子が帰国した三月に会った時は、もう言葉が出なかった。もうちょっと早く帰ってあげればよかった。もうちょっと。。。つか子はしばらく泣きやまなかった。
 
その晩、つか子は自分の部屋で天井を見ながら、あの人がつか子にくれたものを思った。悲しさに沈むつか子の話を黙って聞いてくれた、何という贈り物だろう。
 
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四日目、最後の晩、「公認」の話し手のつか子には、不思議なことに悲しいことは全く思いつかず、おかしいことばかりうかんだ。母親は指圧師しあつしに来てもらうことがよくあったが、ある時、兄がもどったちょうどその時と指圧師の帰る時とがかち合った。兄が母親の部屋に向かって「お母さん、僕のいない間に、変な女を連れ込まないでください!」と大声でいうのが聞こえた。父や母は、ヨーロッパかぶれだった。映画は洋画、音楽はクラシック、朝食はパンにコーヒーか紅茶。楽器など何もやらない父が、いつか家のオルガンで「サ・セ・パリ」を弾いたのを、どういうわけか誰かがテープに取った。短い「演奏」の後で、父が「うん、これぐらいで良いだろう!」と自己賛辞じこさんじでしめくくったのが残っている。かくれんぼを近所中でやっていた時、つか子は少し離れた知らない家のうらに回ってかくれてたのだが、急に一本の足が立っていた板をおり、スキ間から落ちた。つか子はそれが肥溜こえだめだったのに驚愕きょうがくした。半泣きしながらなんとか家までもどり、前庭の水道で水をジャンジャンかけた。かけてもかけても匂いがぬけない。肥溜めの板がどうなったかは知らない。親があやまりに行ったのだろうか。六歳上の姉は何人もお見合いをした。その一人が来て、玄関で脱いだ靴の先がとがっているのを見た母が、ああ、この人はダメだと言ったのを聞き、つか子はそれがどうしてだか分からないながら、どこか信じられる気がした。姉は『ハムレット』が好きで、最初のところを暗記して抑揚よくようをつけて兄やつか子に聞かせた。つか子はその迫真はくしん迫った演技がものすごくこわかった。こわかったのに、何度でも聞きたくてせっついた。正月になると、一年中家にいない父が、子供三人に向けて「百人一首」の講義?をれるのが常だった。「むすめふさほせ」のどれかで始まる上の句は、下の句は一つの可能性しかないというのを、一番歳下のつか子も負けずに覚えた。

こういう家族以外には何の意味もない話を、あの人は、全部、黙って聞いてくれた。コメントも何もつけずに。つか子は、自分がまるでとても大事な話をしているように得意だった。
 
つか子は、無論、あの人に声を上げて笑って欲しかった。もう、口をはさむのはあきらめていたが、一度、大声上げて笑ってほしかった。それで、あの人がつか子の耳に自分の指を突っ込んだ時の話をした。それを聞いたあの人は、びっくり仰天し「信じられない」と言う。

それで、つか子は「40年前の日記に書いてあるのだから、ウソじゃない」と言ったら、その日記を見せろと言う。持ってきてはいたが、絶対に誰にも見せるつもりはない。ましてや、あの人には。勢いのついたあの人は、「見せてくれ。見るまでは、そんなこと、絶対に僕は信じない」と言い、つか子はつか子で、「絶対に見せない、死んでも見せない。あなたがこっそり見たらそれはプライバシーの侵害しんがいで訴える」と言いはった。

それが、二人の間の初めての、いや40数年ぶりのいさかいで、なぜかその後、ずっと気が楽になった。それまで一ヶ所で止まっていたまわりの空気が初めて流れ出した。
 
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その晩は、いつも通りドアまで送ってきたあの人は、「入っても良いかい」と言って、つか子がこっくりすると、入ってきて、そのまま真っすぐベッドの上に寝転がった。つか子も、となりに寝転がった。二人は、そのまま、しばらくじっとしていた。

そして、どちらともなく、一方の手を伸ばし、相手の手をとり、それを自分の唇にもっていき接吻した。そうされた方もまたゆっくり同じことを返した。ゆるやかに、かるく。それで満足したかのように、二人はそのまま、また、静かにじっとしていた。少しでもはやく動くと互いの間のあやういバランスがくずれるのをおそれるかのように。

それからどのくらい時が経っただろうか。気がつけば、二人は互いを抱擁していた。はげしさはどこにもない、ただやさしさだけ。ベッドの上に服のまま寝転がって。部屋はうす暗く、互いが見えない。見えない分、温かい互いの身体をもっと感じていた。

40数年前の二人だったなら、はげしさもあっただろう。大胆にもなれただろう。ただ、これほどのやさしさは二人のあいだに流れることはなかったことだろう。今の二人は、別のところにいた。二人とも、相手をどんなことがあっても傷つけることはできないと知っていた。
                            たま
 触れあいの ほほより昇る 甘きもの ゆらゆらゆれて わが魂をつゝむ

二人は、二人きりで身も心も密接にしていられるのはこの晩が最初で、おそらく最後だとどこかで意識していた。何も言わなくても。それで、それだから、二人は互いをこれ以上大切にはできないほど大切に接した。たった一度の人生で、幸運にも触れ合った二人として。

翌日、午前の便で出るあの人は、そのまま飛行場に向かった。別れはつか子の部屋で、早朝。
 
さよならを 云うが ごとくに もみぢ葉は そっとふれあい 潮流に乗る
 
つか子は、あの人が出て行った後、ベッドの温かみを確かめ、確かにあの人がいて、確かにあの人が去ったことを確認した。つか子は音を立てずに泣いた。なぜ涙が出るのかわからなかった。そのままの姿勢で、ずっとじっとしていた。山は、というと、相変わらずつか子の身に起こった旋風せんぷうを知らずに、立ち続けていた。動き出さないのが不思議なくらい。
 
自分の街に戻ったつか子は、旅の前の自分と、今の自分を見比べていたが、どこがどう変わったかは、目をつぶり、息を吸い込み、あの部屋の窓から見える山の様子を思い浮かべ、それで、自分が太る体験をしたのか、やせる体験をしたのか思いめぐらした。

あの人のことを思いこがれるのはまれだった。あの人の手がつか子の手をとり自分の唇にもっていって接吻したその感触かんしょくだけは、街を歩いていても、今、そこにくちびるが触れているかのように感じた。
 
    奥入瀬の水に流れる もみぢ葉を 想いて 街の騒音を行く
 
お母さん、あなたはやっぱり正しかった。人生、何も無駄なことはないと。

 

    


                        第四章

ノバスコシア

    
    TOKYO - PHILADELPHIA - POKHALA - NOVA SCOTIA
     東京ーフィラデルフィアーポカラーノバスコシア
               秋の光
 
             NOVA SCOTIA
 
                1

つか子の胸がドキンと鳴った。ポカラの旅からかっきり三週間目。ケータイからあの人が跳び出してきた。20代のある日の日記には、『心ぞうが裂かれるようなドキンを感じた』と書いてある。それは、別れてから、あの人によく似た人が向こうから歩いてきただけでのことだ。

それから40数年後のつか子は、心臓がドキンと鳴った後、一瞬、ケータイを見るのをためらった。でも結局指が動いて、つか子にメッセージを見せた。

「つか子、旅行に行こうか」
「いいよ」これも、指が自然と動いていた、心の中は「あれっ?」と思いながら。もう二度と会うことはなくてもおかしくない別れ方をした二人が、次の旅行の話をしている。

「モントリオールは?」
「モントリオールはだめ、ごめん」
「どうして?」
「夫と行ったから」
「そうか」
つか子はもう一言加えようとしたが、よした。言い訳は要らない。妥協も不必要。夫と旅をした所は、あの人と行きたくなかった。それで良い。

間をおいて、
「じゃあ、ノバスコシアは?」
「行きたい」『あなたと』とタイプしてから、言い過ぎという気がして消した。「荒削りの岩が見たい」にした。

「僕、カナダ生まれなんだ」
「うん、そうだと思ってた」

「またつか子と旅行に行きたくなった。驚いた?」
「ううん」
「そうか。僕は自分で驚いてる」
つか子はこれにはどう答えて良いかわからずに、何も答えなかった。あの人の気持ちがどう動いているのかつかめずにいる。

「9月の第三金曜日、都合はいい?』
「その日も次の数日も空いてる」
つか子はなぜその日も次の数日も空いてるとまで言ったのだろう。旅行二日目は夫の命日だと付け加えなかったのが気持ちの底に残った。

「そしたら、僕が飛行機の切符を買う。パスポートの番号、教えてくれ。それから、フルネーム、生年月日。。。」
何も知らないあの人は自然に続けた。
「そう、何にも、知らないんだもんね。じゃあ、私が宿をとる」

「今度会った時、言いたいことがある」
「何?」
「会った時がいい」
「そう。。。」

何だろう。言いたいことって。良いことじゃなさそうで、不安になった。つか子の想像力がふくらんで、破裂はれつしそうになる。そして、つか子の方には聞きたいことがあるのに、まだ聞いていないことが急に気になった。
「私の方からも、聞きたいことがある」
「わかった。じゃあ、あいこだ」

                2

二人とも午後着く予定の飛行便を取った。夕食前に岩の見られるところまで散歩ができるから。つか子の便は問題なく着いたのだが、あの人の便に遅れが出て、夜ずいぶん遅くまで到着しないことがわかった。

つか子は、一人で岩まで出かけることにした。海の入った景色は知ってるつもりだった。

子供のとき年に一度の家族旅行で行った興津おきつ。海藻の匂い。夜、枕の下にきくリズムある波の音。父の馴染なじみらしかった旅館。

アメリカに来てからは、最初の夫の親戚の家がケープコッドにあり、松林を通っていつもおだやかな浜辺まで歩く静かな楽しみを味わった。子供たちは自転車に乗って。つか子はその時、海の匂いのしない海を不思議に思った。それでも、年に一、二度フィラデルフィアの街の喧騒けんそうから離れて、美しすぎるぐらい美しい人のいない海辺を楽しめるのを心待ちにした。

それから、つい四、五年前にはハワイの海も。夫と二人で海の上と言いたいぐらいの家を借りて、目の真下に黒い火山岩がくだけた浜、その向こうは何もへだてるもののない、目に見える限り広がる太平洋の中に身をおいた。身体全体でまだ鮮明に覚えている。

ノバスコシアの景色はそのどれとも違った。大小の赤黒いとがった岩やもう丸くなった岩が、好き好きにあちこちに眺められる。優しい海景色とは言えない、つか子にはまた違った海の体験になった。

夕食は外で済ませてホテルに戻った。もうあの人が着いても顔を見ることはない時間になっていたので、つか子は海の空気を吸った勢いでその晩ぐっすり眠った。

                3

翌朝、早起きのつか子は、ホテルの朝食の始まる頃には起きて、夫の命日だという思いにひたった。しばらくして、あの人からの連絡が入った。嵐のため遅れた飛行便がなお遅れて昨夜には飛ばず、嵐が通り過ぎてからの出発で到着は昼頃になるという。

それを聞いてつか子は、今日午前中は一人海辺で過ごせることに誰にともなく感謝の念がわいた。

散策のあと部屋に戻り、あの人の連絡を待った。

ノックが聞こえてドアを開けると、ザックリとしたあい色のジャケットを着たあの人が立っていた。表情からはつか子が知ろうとする何もうかがえない。少し背が伸びたかなと思った。そんなはずはない、やせたのかもしれない。

ここで、抱きついても良いのだろうが、どうも、それは今の二人の間ではそぐわないという気がした。まだぎごちなさが残っているのを感じながら「おはよう」と言って微笑んだ。ポカラで最後に会った時、もうそれで終わりと思った二人が、こうやってまた会っているのがまだ説明できていない、自分にも互いにも。

昼食は美味しかった。そのあと、ベランダに散らばるパラソルの下の丸いテーブルに座って、岩の削りは荒々しいがやはり美しい自然を目の前にして、二人はしばらく黙ったままだった。

つか子とあの人が同時に話し始めた。それで二人は笑った。それだけで、つか子の気持ちはずいぶん楽になった。つか子はもう一度「それで、言いたいことって?」するとあの人は、「つか子の聞きたいことって何?」

いつものつか子だったら、相手の言いたいことをまず言ってもらうのだったが、ずっと気になっているこのことを聞かないと、胸に何かつかえている感じがぬけない。それで、つか子は切り出した。

その答えによっては、この旅行の意味が変わってしまうのを知りながら、つか子は切り出さずにはいられなかった。つか子のこういうところが、自分でも厄介やっかいなところだと思っている。自分にあるいは「不利」になるとしても、明らかにしようとするところ。

つか子は思い切って口を開いた。
「私があなたに近づくことで傷つく人がいるの」
つか子は、あの人に、スパッと「いない」と言ってほしかった。あの人は、
「いない。つか子以外は」
「それ、どういう意味?」

「僕が思うつか子の言ってる傷つく人はいない。でももし、いつか将来、つか子が僕に『愛情』のような気持ちをもったとしたら、僕が同じような気持ちで答えられるか自信がない。僕にはそういう感情が無理なのかもしれない。その結果つか子が傷つくかと思うとそれが今から辛い」
   
つか子は、今聞いたことを反芻 はんすうしていた。傷つく他のひとはいない。それがはっきりして安堵の波に乗った。その後のことは言葉は聞こえたが、どうもよくわからない。今理解するのは無理だと観念して、あの人の言いたいことをまず聞きたい、これは後にしようと思った。

                4

それで、今度はあの人にバトンを渡すことにして、
「そう」
「それで、あなたが私に言いたかったことは何?」

「うん。それを話したら、僕の今言ったこともわかってもらえるかもしれない。まず、どこから始めて、どう言ったらいいのか。。。」
あの人はしばらく下を向いて、それから思いきったように話し始めた。つか子の顔は見ていない、どこか空間に目をおいて。
「僕は農場で育ったんだが、めいにトビーというのがいて」

思いがけず、今まで話したがらなかったあの人の生まれ育った家族の話が出てきて驚いたが、気持ちをおさえて、つか子は「ええ」とだけ言ってうなずいた。

「僕がものすごく可愛がっていたんだ。三歳だったんだが、上二人がお兄ちゃんで、やんちゃで、男の子の好きなものばっかりで遊んでたから、僕が誕生日に、真っ赤なトラックを買ってやった。初めて自分のトラックをもらったんで、それがものすごく気にいっていて、その夏は、それでよく外で遊んでいた」

そこで、あの人はいったん言葉を切り、続けた。
「ちょっと書いたもの、ここに持ってきた。読んでくれないか」
「うん、ここで?今?」
「うん、僕の前で」
「わかった」
あの人はつか子にタイプ打ちの紙を渡した。

「僕の歴史:つか子と会ったとき、僕は二十八歳だった。それから、つか子はアメリカに発って、僕と妻は横浜にうつった。妻とは五年で別れることになったが、その二年前、僕の弟に大変なことが起きたんだ。

兄弟はみんなで三人、僕と弟、それから妹。農場で育った。僕が父と母の後をいで農場をやると思っていた親戚もいたんだが、僕は絵が好きで、農場を継ぎたくなかった。それで高校に入ってからそう言ったら、それじゃあ、弟が継ぐかということになって、弟がいやといえばどうなったかはわからなかったが、やっても良いというので、結構スムーズに僕の責任がなくなって、僕は好きなことができた。

弟は早く結婚して三人の子持ちになって、農場の方もうまく行っていた。 それがある日、急に近所で修理に人がいると聞いた弟は、いろんな道具をのせて車庫からトラックを出したんだが、その時車庫の前の地べたにしゃがんで遊んでいた娘のトビーが見えなくて、いてしまった。

音を聞きつけた弟の妻と甥たちが悲鳴を上げたんだが、間に合わなかった。トビーは死んでしまった。それは僕が31の時で、日本にいた。僕はすぐさま飛行機にとび乗って国に帰った」

「間に合わなかった。トビーは死んでしまった」そこまで読んで、つか子は息を止めた。そしてあとは涙があふれ出て読み続けられなかった。そこでつか子は顔をあげ、あの人を見た。「どこでどうやってあなたは聞いたの」あの人はつか子を見ずに、遠くを見ながら答えた。

「妹のミッチーからの電話だ。僕はパートで働いてた事務所で、次の会議にいる書類をプリントしようとしているところだったが、プリンターがうまく動かなくてイライラしていた。カナダから電話だと誰かが取りついでくれて、返事をした。ミッチーが何か言っているのだが、耳に入ったのはトビーとトラック。それで、トビーがトラックで遊んでる話かと思って、耳半分で聞いてたんだが、そこで、トビーの葬式と、ミッチーが言うんだ。

『葬式?誰の?』とび上がって僕が聞いた。
『トビーのよ。わたしの話、聞いてなかったの!』と妹が怒った。そこで、初めて、ことの重大さを知った。『ライアンを出してくれ。ライアンと話したい』『ライアンは、今、話せない』『じゃあ、ジュリー』『ジュリーも、子供たちのことで手一杯』『何があったんだ一体?』

そこで、妹は、もう一度、始めから話し出した。『今日近所の人がライアンに、小屋を修理するのに手伝いに来るはずの人が急に来られなくなったから、すぐ来てくれないかというんで、ライアンはトラックに機械を積み上げ、車庫からトラックをバックして出たんだけど、地べたで一人で遊んでいたトビーが見えずに、轢いてしまったの。

それを家から出た途端に見たジュリーが悲鳴を上げ、後ろからついてきた、トビーの二人の兄弟も大声を上げた。でも、間に合わなかった。。。』そういう話だった。妹は、まだ何か言っていた。『兄さん、お葬式は土曜にするから、来られるの。来てよ』ということだった。

『もちろん行くよ。明日にでもここを出る』と言って、電話を切った。プリンターは止まらずに何十枚もプリントし続けていたが、僕はその場で立ちすくんだままだった。僕の頭は混乱に混乱していたが、まず、僕が農場を継いでいたなら、こんなことは起こらなかった、トビーはまだ生きていて、これから大きくなったはずだと、そればかりが何度も何度も頭に浮かんだ」

そこまで聞いたつか子は、もうもらった紙は折りたたみ、自分の顔をあの人の方に向けて、話の続きを待った。眼は涙でもう開けられないほどだった。

「カナダの家に着いたとき、弟のすっかり面変おもがわりした様子を見て胸がつぶれた。こんな時に何が言えよう。抱き合ったが、弟も僕も涙なんか出なかった。口には出さなかったが、心の中で、俺はライアンに謝った。ジュリーにも謝った。謝り続けた。僕に起こるはずのことが、僕が勝手に家を出たので、それがライアンに回ったんだ。

葬式は教会でしたが、もともと信仰のうすかった僕は、いよいよ神を信じるなんてことはできなくなった。『主は与え、主は取りたもう。主の御名みなは、むべきかな』とんでもない。神がいるとしたら、とうてい神を許せない。あのトビーが何をしたというのか。ライアンが。。。」

「神がいるとしたら、とうてい神を許せない。。。」この瞬間、つか子の心持ちはこの人と一つになった。この気持ちを過去にも抱いたことがある、いや今でもその心持ちはつか子の中にある。「もし神がいるとしたら。。。許せない。。。」戦火を逃げまわってきた母親が飢えて声も出ない幼な子を胸に抱きかかえて呆然としている姿。。。

「葬式が終わり、僕は残った。勤め先にはしばらく戻れないと告げた。その先もどうするかわからなかった。弟はひどく打ちのめされていた。ジュリーも。幼い兄弟二人も。ライアンは、事故以来、人が変わったようになって仕事が出来なくなった。しばらく時間をおけばということだったんだが、それがうまく調子が出なくて、長いことかかった。

結局、一年近く僕は日本にもどらなかった。その後も、毎年、できる限り長い間家に帰って一緒に過ごした。それが何か役に立ったかわからないが、弟は良くなっているようだった。帰るたびに、ジュリーの顔も明るくなってきた。弟は立ち直ったかに見えたんだ。。。」そこで、あの人は口を閉じた。

つか子は口をはさまなかった。何が言えよう。しばらく黙ってから、あの人が続けた。  
          
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「毎年、トビーの命日には皆で墓参りしたんだが、十年近く経った頃、僕は学校に職場を変え、その日には、もう学期が始まっていて帰れなくなった。それでも、家族や親類はいつも集まっていたし、僕も毎年いつもその日には電話を入れて、ライアンと何でもない話をしていた。

事故から13年経った年、いつものように、ライアンと電話で話した。何か新しい作物を始めるとかで、張り切っているようだった。それを聞いて僕もすごく嬉しかった。ただ最後に、名前は口に出さなかったが、前後の脈略 みゃくりゃくなしにいきなり、『今年十六歳になってるはずだ』と弟が言うのに驚かされた。

そう、弟も僕も毎年心では思っても、『トビーが今生きていれば幾歳いくさいになってるはずだ』などと、一度も口に出したことがなかった。そこで、僕は、おやっと思った。そうだね、とだけ言って、電話を切った。

ジュリーにこのことを言った方がいいのか迷った。せっかくジュリーが、ここの所ライアンが今度こそ本当に立ち直ったみたいと喜んでいるのに、要らぬ心配をかけたくなかったし、そして僕は学期の初めで、考える余裕は全くなかった。そもそもライアンの言ったことがどんな意味をもつのか検討もつかなかった。。。」

ここで、あの人は、大きなため息をついた。つか子も、息を大きく吸った。英語で「もう片一方の靴が落ちるのを待っている」と言う表現があるが、それが来そうで、つか子の胸はおそれで締めつけられそうだった。

あの人は続けた。「それから五日後、僕は夕食を作り始めたところに電話が鳴った。カナダからだが、それはしょっ中あるので、何とも思わずに電話を取った。ただ、カナダ時間のことを思い、ずいぶん早起きだなというのがちょっと頭をかすめた。

ジュリーだった。声がうわずって、何を言っているのかはっきりしない。ジュリーは、『今度は、ライアンだ』と言うのだ」

つか子は眼をつむった。

「『ライアンが死んだ、交通事故で』早朝、ジュリーも気がつかない間に、ライアンが一人で車を運転して、少し離れた登り道が曲がろうとする角の大きなカシの木にぶつかった。その道を朝早く車で通りかかった人が見つけたんだそうだ。車の中のライアンにはもう息がなかった」

あの人は、苦しそうにつけ加えた。「それが、事故だったのか自殺だったのかが問題になって。。。僕が継ぐはずの農場を好きな絵をしたいからと言って継がずにいたのが、結果的に弟まで殺したとそればかり頭にあった」

ここで、つか子はもうこらえ切れなくて両手で顔をおおって泣き出した。あの人が自分をどう見ているのか、もう考えにいれることは出来なかった。

つか子が落ち着くまで、あの人は、そのままの姿勢でただ黙って待っていた。そして、口を開いた。

「もちろん、僕はすぐ帰った。それで、農場をどうするということになって、結局親戚が買ってくれたので、弟の嫁も甥二人も生活は一応できる形になった。この間、僕の絵の方はずいぶん遅れたが、ともかく一応けりがついて、定職に就くこともできて、それからは、僕には仕事の上で幸運が続いた」      

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あの人が肩で大きく息を吸って続けた。「ただ、夏の終わりになると、毎年毎年、僕の気がめいり、どうしたらよいかわからなくなる時がある。そんな時につか子のメールをもらったので、何も考えずにとびついたというわけだ。つか子も驚いただろうと思う。正直言えば、つか子もだが、ヒマラヤというのにとびついたのかもしれない」

話している合間合間に、あの人は、真前の海を見ているはずなのだが、つか子から見ると、見えるはずのない、ここからはるか遠くにそびえるヒマラヤを見上げているように見えた。つか子が顔を上げると、これからが本題とでもいうようにつか子の顔を見た。

「僕はやっと気づいたんだが、長い間、ずいぶんさびしかったんだって。それで、つか子がああやってメールをこの夏くれた時、驚くより前に、『これを待ってたんだ、僕は』って思って、それで、そのまま、ポカラまで飛行機にとび乗って行った」

つか子は何も言えなかった。いったん涙の乾いた頬に、涙が一すじ、二すじほおをこぼれ落ちるのに気がついたが、何もせず、じっと耳を澄ませて聞いていた。

「仕事はやったし、良い同僚も友人もいる。気持ちの良いパートナーもいる。離れてはいるが前の妻との子供もいる。健康だし、ハイキングでもなんでもできる。 でも、胸のどこかで風が吹いているような、そんな気分になることがたまにあった。

いや、今もある。むなしいと言っていいのか、何だろう。何か分からない。だから、さっき言ったように、もしつか子が僕に将来『愛情』のような気持ちをもったとしたら、それに同じような気持ちで迎えられるか不安だ。僕にはそういう感情が無理だという気がする。その結果、つか子が傷つくかと思うとそれが辛い」  

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つか子は、よっぽど立ち上がってあの人を自分の腕で抱きしめたかったが、それはがまんした。それで、あの人の手を取って、自分の両手でつつんだ。人間は悲しい存在で、それは古今東西変わらないのだと思う。ただ、つか子が伝えたかったのは、あの人が今抱いている感情、それだけで、つか子には十分だと言いたかった。それで、そう言った。

「もうずいぶん生きてきた。愛したこともあるし、愛されたこともある。辛いこともあったし、まちがいも犯した。人生にむだなことは何もないと母は言っていたが、ずいぶんむだをやった気がする。宇宙から見れば、ほんの短い間生きて、いつかそう遠くない将来、この人生を終える。その中で、このひとときはそれだけで十分。もう何も要らない。将来の約束など願ってもいない」

そう言ってから、実際に、将来の約束など、つか子には何も意味がない気がした。これは、人生の終盤を迎えた者たち、自分を愛してくれた人の多くがすでにこの世を去った者に共通の思いなのだろうか。ただ、それに反比例して、たった今、この瞬間が黄金 おうごんにもまさる気がする。

そして、つか子は「たった今」に戻った。あの人の言った言葉の中で、「むなしいといったらいいのか、胸に風が吹いているような気持ち」というのが、つか子の胸に刺さった。涙をふいて、なぜか、つか子はこう質問した。「そんな気持ちが起こらないのは、どんな時?」

あの人は少し首をかしげて、答えた。「そうだなあ。子供に絵を教えてるときかな。ちっちゃな子供にずっと絵を教えてきたんだけど、ある日、一人の生徒の母親がやってきて、娘の二歳年下の妹も連れてきて良いかと聞くので、もちろんと答えた。母親が続けて、それが障害のある子だというんだ。

その子がやって来た。他の子供たちは、僕がびっくりするぐらい、すぐにその子に慣れた。そして手伝ってくれるんだ、僕がこの子に絵を描かせようとしたりするとき。この母親が話したのか、どこかで聞きつけたのか、それからは、身体のどこかしら不自由な子供たちが来るようになった。

その中には、交通事故にあった子供たちもいる。僕は子供のクラスを教えるとき、トビーがあの日、どんな障害があっても生き残ってくれさえすればと思わない日はない。そしたら、あのおてんばのトビーのことだ、きっとがんばって障害を乗りこえて、生き続けてくれただろうと思う。そしたら、ライアンだって死ななかっただろうと思う。でも、こう思ってる限り、僕の内で締めくくりがつかず、いつまでも後悔にさいなまされる、それがわかっていながら、。。。」

ここで、つか子は、つか子の母親の「卒業」するという言葉を思い起こしたが、それが簡単にできるぐらいなら、あの人はとおにしている。それが出来ないから苦しんでいるのだ。

つか子は聞いた。「その子供たちの中の誰かのこと、話してくれない?どんな子がいるの?」

すると今まで辛そうにしていたあの人が、一変して、何とも柔らかい表情になった。

「あいちゃん。あいちゃんは、満月みたいにまんまるい顔をして、口が聞けないけど、僕のやってることが気に入らないと顔をくしゃくしゃにして首を横にふり、それを僕に伝えるんだ。絵を描くのは足の指先に絵の具ペンをはさんでやる。自分でうまく出来たと思った時は、ものすごく嬉しそうに、小さな身体を左右にふるからすぐわかる。僕はそれを見たくて、一生懸命あいちゃんの絵がうまくいくようにがんばって教えてるんだ」あの人は、笑顔になった。

「あいちゃんがもし、あなたのとこに来られなかったら、どんな日を送るんだろう」
「う〜〜ん、医者の診察がない日は、テレビを見たりタブレットで遊んだりしてるんだろうと思う、一人で」
「そうか。そうすると、あなたのとこの絵教室は、あいちゃんの週のハイライトかもね」
「僕のハイライトであるのは、確かだ」

つか子は、心底あの人のことをうらやましく思った。それで、そのまま言った。
「あなたがうらやましい」
「どうして?」
「だって、一人の子供としっかりつながったひとときをもって、あなたは自分の持ってる技術なり知識なりで、その子の生きてる瞬間を明るくしてるんだもの」
あの人はそれを聞いて肯定も否定もしなかったが、表情は明るかった。

調子がついたのか、あの人は続けて「そして、きみお君がいる。きみお君は、あいちゃんと反対で、教室に入った途端にしゃべり出して、さよならするまでノンストップ。でも、絵を描き出すと、それがうまいんだ。こっちから、これ何?とか言わなくても、上手に説明してくれる。ああ、てっちゃんのこともいわなくちゃ。てっちゃんは耳が聞こえない。だから。。。」

つか子が何かいわない限り、ぶっ通しで、あの人は、次々に、自慢の生徒たちのことを話してくれただろう。                 

                8

「なんだ、あなた、話せるんじゃない」そう、つか子は、からかった。「どうして、ポカラでは、無口だったの?」
「だって、つか子の一人舞台だったから、遠慮してたんだ」
「なんだ。それじゃあ、私の話なんか、耳半分で聞いてなかったんでしょう」「そんなことないよ。肥溜めの話は、まず、忘れることはできない!」
「いやだ。その話はやめて」
「お父さんがサ・セ・パリをオルガンで弾いたこと」
「あなた、ピアノなんか弾けるの?」
「うん、ちょっとやった」
「いいなあ。うらやましい。音楽できる人、尊敬しちゃう。特に男の人」
「尊敬してくれてもいいけど、恋には落ちないでくれ」
「落ちるわけないじゃない。落ちそうになったら、日記を読み直せば、あなたが本当はどんな人かすぐわかるもん。それより、あなたの方こそ、私に片思いなんかしないようにね」

「その日記だが、本当は、ないんだよね」
「それがあるのよ。残念でした。でも、心配しないで、公表するつもりないから、本名では」こういう軽口を交わすようになったのは驚くべき、「進歩」だ。四十数年前は、こうだった。

「それに、百人一首。僕も練習したことあるよ」
「へえっ。それじゃあコンピューターでやってみようか。どっちが勝つか」
「僕が勝ったら、日記を見せろ」

「でも、つか子は、本当に泣き虫だね」
「感情過多なのよ。でも、泣けてよかった。あれだけ泣くと、どこかスッキリした。話、聞いてくれてありがとう。あの涙だけでも、旅行の価値あったと思ってる」
「そう、僕も、今日、話を聞いてくれて、感謝してる」
「おあいこね、じゃあ」
「うん。あいこだ」  

               9

もう夕方になっていた。ポカラでは、今ごろ部屋に戻って、夕食は食堂で一緒にし、そのあと散歩しながら話すのが二人の「日課」になっていた。

でも、今日は、夫の命日。それを言うのは、明日にしたかった。普段だったら一日中、夫の思いと過ごすのだが、あの人の到着が遅れたおかげで、昨日わかち合うはずの話が今日になり、半日あの人と過ごした。その半日がどんなに大きなものだったか。。。それだけでも、つか子の胸はいっぱいだった。あとの時間は、一人でいたかった。

何も言っていないあの人に、ただ、今日は一人でいたい。明日の朝食を一緒にしたいと告げると、ほんの少し驚いた表情をしたが、すぐに「わかった、明日、朝食に迎えにくる」と言って、あの人はすぐに腰を上げた。

これだけ生きていると、自分の思いもつかない説明もできない何かがどの人にでもあるだろうという想像力が生まれる。生まれる人には。

「今日は夫の命日だ」などと言わないで済むのを心の中で感謝した。やはり私が昔、惚れ込んだだけのことがある!そして人生で傷を負った人は人のそれにも敏感で、自分にわからないところもそのまま受けとめてくれる。

つか子は感謝していた。そして、自分が愛し愛されたカレ、そして夫。今、繋がりが生まれはじめた大昔のあの人。この人たち一人一人の人生の重み。それをつか子の人生もいっしょに大宇宙が抱き抱えてくれているのを感じた。

一人になって、つか子は、自分にも「あいちゃん」や「きみお君」がいてくれるのに気がついた。

一人は、もう五十年近くグアテマラの手作り品をフィラデルフィアの路上で売り、村人たちをサポートしてきた友人。つか子が退職して没頭ぼっとうしたフェアトレードの運動で知り合い、すぐに息が合った。

この友人についてアティトラン湖畔の郵便局も病院も消防署もない彼女の愛する原住民の人々の住む村を訪ねたことがある。この友人には品物が売れないときの心配はあっても、虚しさはない。あるクリスマスイブ、フィラデルフィア路上の彼女を訪ねたら「道を通る人たちが、あっちらこっちら、どこを向いて走ったら良いのか、皆目見当がつかないようなんだけど、こっちはこの場所でこれを売るというのが、私の今日だと知っているから、ほんとにラッキー」と言った。つか子も彼女の幸運を思った。この友人が愛する村は、つか子の愛する村にもなった。

まだいる。自分の愛するアメリカ先住民の、もう絶滅言語ぜつめつげんごとなったレナペ語を生き返らせようという不可能を可能としようとしている友人。近くの大学で、地域に一万年以上前から住んでいるレナペ族のすでに絶滅状態の言語を教えるコースができたと聞いた。そこでありあまる情熱をもって教えるこの友人と初めて会った。この友人の絶滅した言語をよみがえらせようとする熱い思いは、つか子の胸をも熱くする。

こういう人々が周りにいてくれるおかげで、つか子は、毎朝起きるのがつらくない。今また、あいちゃんやきみお君に繋がっているあの人を知って、つか子自身の人生もまたぐんとあったかいものになった。

              10

つか子はその晩、一人、枕の下に耳を澄ませた。時も所もはるか遠い北の国に旅をした母親がそうしたように。

    北国の 旅の枕の 下に聞く 地球自転の 音のない音




        エピローグ : 強 烈 な          瞬 間

流れ星

今どこにいるのだろう。

あついカーテンにさえぎられ朝の光は入ってこない、カーテンのめくれたひとすみのほかは。。。

海のそば。。。岩。。。農場。。。そう、おもちゃのトラック。。。そして教会。。。満月のようなあいちゃんとあの人の柔らかい表情!

いきなりあの人への熱い思いが湧いてきた。

大急ぎで着がえドアの外に耳を澄ませた。

ノックの音で跳び上がったつか子はドアを開け、眼の前に立つあの人を見上げた。藍色の上っ張りに辛子色のシャツがのぞいている。

つか子は立て続けに「おはよう!きのうはありがとう。ほんとにありがとう。あなただから。。。」まだ何か言おうとしている。

それには何も答えずに、あの人はそのままほんの二、三歩部屋に入りドアを軽くしめ、そこですっぽりとつか子を抱いた。

つか子はその胸に顔をうずめた、じっと眼をつむって。それまでの胸の動悸がしずまって、内で何かが溶けていくのを感じた。

すると、あの人はつか子の耳に「ただいま」とささやいた。
つか子は「おかえり」と自分でもびっくりするくらい大きな声でかえした。

そして背伸びして今度はあの人の耳に「ただいま」とささやいた。するとつか子をもっと自分に引きよせて、つか子の耳に「おかえり」とささやき返した。

ただいま    おかえり      ただいま      おかえり

つか子は日本語にこれほど美しい言葉はないという思いでいっぱいになった。

30年も日本語を教えるのを職業にしてなぜ気づかなかったのだろう。

おかえり     ただいま      おかえり     ただいま  

つか子の胸は膨らみ目をつむったままもっともっとあの人の胸に自分の身を寄せた。二人はそのままベッドに倒れこんだ。まるで二匹の犬がたわむれるように。身体中に染みわたる感覚、手先も足も血はめぐり今まさに生きているという思い。

「我が家」。。。たどり着けるなんてとうてい思えないほど長い旅だった。その旅が今おわった。からだ全体、張り詰めたところがなくどこもゆったりとした。

胸いっぱいふかく息を吸い込み、もう一瞬。

するとほとんど同時に「朝ごはん?」「お腹すいた?」それで二人は助け合いながら起き上がった。つか子はふと寝転んでいた草原から立ち上がるずっと若い二人の様子が目に浮かんだ。秋の陽のふりかかる中で。

               ・・・

時間のせいだろう。朝食のカフェテリアには人が少なく海に向かう窓際の席もいくつも空いていた。

ビュッフェには定番の朝食のほかに海の美味も並んでいる。
菜食のつか子がなぜか甘エビをみて皿にとった。「食べられるの?」内からの声が聞こえる。

    「飲み物持ってくる、つか子もコーヒー?」皿をおいて、座らずにあの人はそのままコーヒーをとりに行った。

コクンとうなずいたつか子は、指揮者のように動くその背を眼で追いながらお皿を前にして座った。

そのとたん思い出した。「あれは三ちゃんダ!」

ネコの名は三ちゃん。吉本ばななの『幸福の瞬間』のネコ。大好物のエビを前にするとおかしな鳴き声を出し、「これ食べてもいいの」といった仕草をして、オーケーがでるとすぐに「何のためらいもなく」かぶりつくのだった。

あれは、三ちゃんだ!

思い出したとたん、つか子は笑いがこみ上げてきた。ものすごく嬉しくておかしくて笑い出した。

大ぶりの白いコーヒーカップを両手に持って近づいてきたあの人は「どうした?」と声をかけた。

すると、つか子はそれを聞いてもっとおかしくなって、もう笑いがとまらない。ネコの三ちゃん、こんな大事なことを知らないんだ、あの人は。。。それがなぜかおかしかった。

もうガマンできない。幸いベランダに通じるドアが開いていた。それを押してベランダに出たつか子は、「そうだ、三ちゃんダッタ」と言いながら、身体を二つに折って息がつけないほど笑い続けた。

つか子が涙もろいのはもうポカラで知っていたあの人だが、こんなに笑うつか子は昔も今も見たことがない。つか子だってそうだ。こんなにおかしくてお腹の底から笑ったのはいつ以来だろう。母親が「ハシが転んでもおかしがる」年頃と呼んだ中学生のころだろうか。

生まれて初めてのような気がした。

今、自分はヘビじゃない、コンドルでもない、エビのご馳走を前にしたネコの三チャンだ。

               ・・・

笑いがすっかり収まったわけじゃないが、お鍋の底のようにお腹の底の方でぐつぐつしてるだけで一応落ち着き、あの人のいる席に戻った。

見ると、ケータイでニュースを読んだり知り合いからのメールを見たりして待っててくれたと思っていたのだけれど、あの人は、ケータイを手にしていない。

「ケータイは?」

   「部屋にある」

「えっ、忘れてきたの?」

   「ううん、つか子と丸ごと一緒にいようと思って」

「ほんと?わあっ、あなたに惚れなおしそう。。。」

そんなつか子の爆弾発言に答える代わりに

   「一緒だったら、どんな生活だったのかな」

「笑ったり泣いたりの毎日。。。ううん、あなたもわたしもものすごく忙しくて、泣いたり笑ったりする暇もなかったりして」

   「うん、でも、子どもができたら」

それを聞いて、つか子は黙った。

「好きな人の子供を産む」まっとう正直になれば、そう言っていいのだろうか、古今東西、多くの女の願いでもあったろう。不思議なことに、つか子は母親になりたいと思ったが子供を産みたいという強い願望は覚えていない。

自分の人生をみると、母親になったというところは何よりも大きい。

あの人との子どものことに思いがいく自分を制した。無理したのでなく、自分が母親だという事実の前には、ほとんどと言っていいほど意味がない気がした。

               ・・・

そこで、三チャンに戻った。

三チャンのこと、知らないんだ、この人。でもそう思い出すと、また笑いがこみ上げてきた。知らないんだ。知らないんだ。。。

でもこの人だったら、言ったらすぐわかって一緒に笑い出すかもしれない。

「三ちゃん」

  「三ちゃんってダレ?」

「サンちゃんはネ」と言い出したら、また笑いで続けられない。

そして、急に涙が出た。。。こんなに笑ったことなかった。ずっと。。。それで今度はそんな自分を思って悲しくなったのだろうか。

「サンちゃんはネ、サンちゃんはネ」と言いながら、手の甲で涙を拭こうとした。

ああ、ここ数十年、本当の笑いなんてしないで過ごしたのかと、今度は胸が詰まった。。。

それで知った。今、自分が強烈な幸福の瞬間を味わってることを。

それだけはわかった。

それで、「サンちゃんは、強烈な幸福の瞬間」と意味の通じるはずもないことを言った。

そうなんだ。今、つか子は、強烈な幸福の瞬間を味わってる。

ここにくる長い長い間そして、これから先どのくらいあるか知ることなんてできない時間のこと、そんなことどうだって良い。

今、たった今、この瞬間だけ。

穏やかで平和で安心できる幸福じゃない。

強烈でいきなりやって来て、またいきなり去ってしまうだろう

継続しようがない瞬間。

今つかまないと

もう二度とはつかめない。

三チャンみたいにガツガツと

息がつけないほど、狂おしいほど

食らいつかなきゃ

味わわない前に 

跡形もなく

消えてしまう

   強烈な

      幸福の

         瞬間。



           
               (完)


   (無記名の短歌及び俳句は、全て木下タカの作品です。)



              ーーーーー   

      

最近の作品: 
『田中美津さん:ミューズカル・女の解放 『おならがなんだあ』再考』
『田中美津さん もしもあなたに逢えずにいたら』
『切花と先住民』   『人[.を ]見たことのない土地』   
救急車のサイレン』 『夫の質問:タンスの底』 
『外せないお面』   『みじか〜い出会い・三つの思い出』


『スイカと鳩:ひとりの小さな平和活動』 『昭和40年代:学生村のはなし』『クエーカーのふつうしないこと:拍手』
『アフリカ系アメリカ人:一瞬たりとも』   『明治の母と昭和の娘』 
『本当の思いを云わ/えない本当の理由』
 
『伝統ある黒人教会のボランティア』   
『スッキリあっさりの「共同」生活』 


木下タカの短歌作品
母の短歌 [1]   母の短歌 [2]  母の短歌 [3]  母の短歌 [4]  
母の短歌 [5]  母の短歌 [6]  母の短歌 [7]  母の短歌 [ 8]
母の短歌[ 9]


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



   


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