第3回 『社会運動の現在』をどう読む?②
————:濱西先生は『社会運動の現在』をどう読まれましたか。
濱西栄司:よろしくお願いします。そうですね、僕もとくに第8章に関心を持っているんですが、その前に全体について少しだけ。すでに出ているように、多様な事例が扱われている本ですが、多様であるだけではなくグレーゾーンといいますか、「明らかに社会運動だよね」というものだけでなく「ボランティア活動と社会運動の境界かな」と思えるものまで、幅広く扱っているのはすごくいいと思います。
————:学生にとって身近な例も?
濱西:学生さんがまずボランティア活動とかで関わるような団体も出てきますし、学生にとって身近な例として読めるんじゃないかな。先に青木さんから、長谷川先生の関心に添ってエコロジー関連の事例が多いかもしれないという話題がありましたね。私も岡山で教えていますけれども、地方の大学では環境問題とか地域の暮らし、そのへんはまず学生が関心を持つところなんです。その意味で、環境社会学の授業でも使えるでしょうし、いろんな授業で使えるようになっていると思います。
————:長谷川先生の書かれた部分についてはいかがですか。
濱西:第1章については、いろいろと思うところもありました。小杉さんがおっしゃったように、私たちよりもはるか昔から社会運動を見ておられる、日本のいろんな事例をよくご存知の長谷川先生が感じる……英語タイトルはthen and nowだから、nowだけじゃなくて変化を見たうえでたどり着かれた境地なんでしょうね。変化についていえば、おもしろかった点はほかにもあります。長谷川先生は、2004年の『社会運動という公共空間』では「NPOの時代だ」という話でまとめられているんですが、それ以降いろいろなプロテストが起こってくる時代にあって、今回はどう書かれているのかな、と思っていたわけです。
————:時代の変化をいかに盛り込まれたのか、と。
濱西:やはり、さまざまな制度化の話で終わるわけではなく、また多様な盛り上がりまでフォローされているので、その点でもthen and nowというのをすごく押さえておられるなと思いました。経験運動の議論にも触れておられるのがけっこう衝撃的で、私の中ではたいへん驚きました。フラワーデモにも触れられていたり、本当にいろいろなことを押さえられています。現場の声、現場のことを把握して、そして現場の方に全体の見取り図を、と。研究者に、というよりは、まさに現場の方に「見取り図はこういう感じで、いろいろほかにも頑張っている社会運動がありますよ」「もしかしたらいろいろ連携を組んでいくこと可能ですよ」と、おっしゃりたいような感じを受けながら読み進めました。
————:なるほど。先ほどおっしゃっていた第8章についてはいかがです?
濱西:僕はどうしても理論的なことが好きで、第8章では記憶のことを挙げられているんですが、前からその点にずっと関心を持っていたんです。2016年に出した『トゥレーヌ社会学と新しい社会運動理論』のなかに、こんな話があります。サミットをめぐる運動に際して人が集まってくると、主張も一つでなくいろいろあるし、どのグループでも自分たち中心に歴史が語られていて、一人ひとり語る歴史が違ったりする。サミットをめぐる運動はこうでしたよね、という語り自体がグループによって違ったりする。でも当事者にしてみれば、間違いなく自分たちは運動に参加してきたわけで、理路整然と話されるんですね。いろいろ語り方があって、どれも間違いではないし、自分たち中心に見るといろんなイベントごとはそう見えるんだろうな、と。それぞれの語りには矛盾がなくて、でも、僕の中では4つくらいのストーリーがあるように見えて、それぞれがなんかずれているように思えるんですね。どこか統一されないようになっている。
————:語られるストーリーのずれ、記憶のずれですか。
濱西:グループごとの記憶があって、歴史についての語りがある。それぞれ対立しているわけでもなく、棲み分けをしているといいますか。たとえば、それぞれ自分たちのストーリーの中に、ほかのグループも出てくるんですね。語り(ナラティブ)の中心は自分たちなんだけれども、グループの外側らへんにそういう人たちが必ず出てくるので、ほかのグループを排除しているわけではなく、グループごとに重点の置き所が違ったりする。ある記憶についてみんなが語っていて、しかしそれぞれで記憶がなんかずれているのに、ずれていることには誰も気づかない。自分たちのことは自分たちで把握しておられるので、ずれていることに気づかなくても特に問題が起こることもない。けれども、俯瞰して見てみると、なんかずれている感じがする。記憶を振り返って「あれはこうだったよね」という認識をするときのずれとか、そのバラバラ加減というか、このあたりのことにすごく理論的な関心を持っているんですね。
————:ありがとうございます。今の点について、土田先生いかがですか?
土田:ありがとうございます。記憶や語りの「ずれ」というようなことは、日系人のリドレスの中でもたくさんそういうことがありました。強制収容について語るその語り方も、強制収容政策のどこを語るかというのも、運動が盛り上がっていた時期、また運動が一定のピークを過ぎて、リドレスを勝ち取って終わった後も、さまざまな語りのなかで拡散していく、散らばっていく、ということがあります。実際に運動が盛り上がっていた時期もずれていたし、そのうえ運動団体間での対立もかなりありました。
濱西:なるほど。
土田:今回の私の章では、「ずれ」自体を取り上げることを意図していなかったということがあります。ずれをどういうふうに描くのかは、私の中でも決着がついていないというか。それこそ青木さんが最初のほうでチラッと、運動の泥臭さについてお話をされていましたが、私も泥臭さというか、ざっくりいうと運動のグチャグチャした部分にけっこうひかれるところがあります。ただ、それを形として書いてしまった場合には、妙にきれいになってしまう。記述の枠組みについての勉強不足もきっとあると思うんですが、ずれというものをどう研究として扱っていけばいいのか、特に考えさせられることがあります。
運動の後、かなり時間が経っていますから、今もってリドレスの話をするときには、運動自体のピークはとっくに終わっているものの、やはり語りの事例というのが維持されたまま、今も収容経験を回顧するイベントであったり、運動自体を回顧するイベントであったりにしても、なんとなく参加した人たちの中でのずれというのを小出しにしながら、みんなで記憶をし続けている感じがあります。
(以下、第4回へつづく)