怒りを感じさせてくれる相手はメッセンジャー
自分を大きく見せる人にはなりたくない。
昨年後半から心掛けてきたその想いについて、最後は語ろうと思っていたのだけれど。現時点での僕はどうやらその想いをなくしてしまっているらしい。
何かを強く心掛ける、ということは、それができていません、と自ら認めているようなものだ。本当に強い人は、「自分が強い」だなんて自明のことをわざわざ言わない。「自分を大きく見せる人にはなりたくない」と己に言い聞かせなくなった、ということは、つまりそういうことなのだろう。
まなざしを世間に移す。SNSでは今日も身の丈に合わない投稿で溢れている。いいね欲しさのあまり、むやみに趣向を凝らし、芸能人のゴシップを叩き、他人の仕事を盗んでは我が物顔で紹介する。それらの発するメッセージはおしなべて「自分はすごくて価値ある人間だ」という強がりだ。
つまり、自信がない。心のどこかでは薄々「自分はすごくなくて価値がない」ことに気付いているから、不安で仕方がない。認めたくなくて不安を掻き消したいから大声を張り上げ、自分を大きく見せる。そういう人は、なんだかいつも怒っている。その人も、その人の声に反応してしまう人たちも、かわいそうだなとおもう。
以前はそういう人たちを見かけると、ふつふつと怒りが湧いてきたものだった。でも怒りは第二感情と呼ばれる。第一感情は不安やさみしさ。「自分も自信ないとき、自分を大きく見せようと頑張っちゃうなー」と共感する小さい自分が心の隅っこにいて、そいつの不安センサーが反応している。すると「いや認めんな!そうはなりたくないんだろ!」と別の小さな自分が声を張り上げて、怒りというかたちで過剰な防衛反応を示してしまう。
自分を大きく見せたい自分。見せたくない自分。どっちの自分もいるんだなあ。そう素直に認められるようになった頃から怒りが消えた。どっちの自分が真実かなんて誰にもわからないし、だからどっちの自分になるかは自由に選べばいい。
怒りを感じさせてくれる相手はメッセンジャー。自分の心の声を聞けてないんだ、というお知らせ。聞き逃していた自分の声が外側からやってきて、それを聞かされている状態。そう思うだけで、怒りを感じさせてくれる人との出会いが少し楽しみになった。その人は迷惑な人ではなく、役立つ人だから。
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なんか、まとまったような、まとまらないような。今年の1ヶ月連続ブログ更新チャレンジ、その向こう側の景色はまあこんな感じでした。
気が向いたときだけまた更新しようと思います。これまでもいまもお読みいただいた物好きな方々、どうもありがとうございました。またどこかで。