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もう、不登校の親の不安を煽るのはやめてほしい。

さてさてさて。
やってきました。

だから「学校に行かない子」が増え続ける…SNSで広がる「無理して行かなくてもいい」論に抱く"強烈な違和感"
見守り、寄り添うだけでは問題が長引くだけ

こんなタイトルの記事が9月12日に公開されました。

プレジデントオンラインさん、この記事がどう親子に影響するのか、考えられましたか。
それも、1年の中でもっとも自死をする人が多いといわれるこの時期にこの記事をあげるなんて。

怒りと悲しみで、感情はずっと波打っていますが、なるべく冷静に発信をしたいと思います。

記事の文章を抜粋しながら、それに対する私の意見を述べていきます。
まだ上の記事をご覧になっていない方は、読んでから下に進むことをお勧めします。

それに加えて、「子どもたちの意見を尊重しましょう」とか「子どもの人権を大事にしましょう」といったことが叫ばれるようになった今の風潮も、背景にあると思います。
それはもちろん大事なことではあるのですが、問題は行き過ぎた解釈がされがちだという点です。そのせいで「ずっと家にいたい」「勉強はしたくない」「ゲームをしていたい」という子どもたちの声を聞くべきだという考え方がかなり広がっているんですね。
それを聞いてしまうと不登校も認める方向になってしまうのだけれど、一方で、子どもの人権を守るという考え方にはうまくフィットします。

>>「ずっと家にいたい」「勉強はしたくない」「ゲームをしていたい」という子どもたちの声を聞くべきだという考え方がかなり広がっているんですね。

子どもたちは「ずっと家にいたい」のではなく、外が怖いんです。

勉強をしたくないのは、学校の怖い記憶を思い出すことにもなるし、「できない自分」や「周りと違う自分」と向き合うことになってしまうからです。

「ゲームをしていたい」のも同様で、何もしていない時間は苦しいことばかり頭の中に浮かんでくるから、それを避けるために何か没頭する時間がほしくて、ゲームを選んでいるだけです。
本当に「ゲームを楽しみたい!」と思ってやっている子ってどのくらいいるんだろう、と思います。

次にいきます。

相手のお子さんは小学5年生ぐらいから不登校だった男の子で、当時は高校1年生でした。そこで「僕も普通に社会で活動しているけれど、もともとそうだったわけじゃなくて、全然勉強しない時期もあれば、ダメダメだった時期もあった。でも紆余曲折あって今に至っているわけで、まだ高校1年生の○○君だったら全然大丈夫だし、絶対に活躍できるようになる」みたいなことを、言ったんです。それが苦しいとかうざいみたいな感じになってしまって。
寄り添うところから一歩踏み込んだ時に難しくなるんです。踏み込んだ結果「もう嫌だ」と言われたら、われわれはそれ以上支援できなくなる。

「結局この人も他の大人と同じだ」と思われたんでしょうね。

「これをいつまで続けるんだろう」と葛藤をされていたということはしばらく長く関わってこられていたはず。
その子も信頼し(かけ)ていたのではないかと想像します。
ただ結果的にその子にとっては「信頼できない大人」になってしまったんだろうと思います。

>>全然勉強しない時期もあれば、ダメダメだった時期もあった

この言葉から「あぁ、自分はダメダメだと思われてるんだな」と思ったかもしれない。

>>絶対に活躍できるようになる

この言葉から「あぁ、活躍できないとダメなんだなあ。やっぱり今の自分は…」と思ったかもしれない。

>>寄り添うところから一歩踏み込んだ時に難しくなるんです。踏み込んだ結果「もう嫌だ」と言われたら、われわれはそれ以上支援できなくなる。

その論は理解できます。
だからこそ踏み込むときはとてつもなく慎重になるし、言葉のチョイスもタイミングもすべて考えに考え抜いて、直感を研ぎ澄まして行動します。
そしてそもそもの踏み込むベースには「その子が求めているか」が何より大切になる。

当時所属していた団体には、メンタルフレンドをやっている学生が10人くらいいました。そのメンバー同士でたまに会って話をしたりしていたんですが、皆さん本当にお子さんのためを思って、一生懸命努力されている方ばかりだったのに、再登校に導けたという話を聞くことはなかったんです。

これについてはもう言うのも飽きてきたのですが、再登校だけをゴールに考えること自体が間違いです。

「2年間通っていても何も変わらない」といった話もいろいろ聞いたし、僕だけならとにかく、他のメンバーもうまく行かないと言っている。

おそらく「何も変わらない」は言葉のあやもあるかと思います。
でももしそれが本心なのだとしたら、あえて言わせてください。

2年間通っていて何も変わっていないはずがないんです。
そこに気付くことも、支える側の大事な大事な役割です。

出てきた芽を見つけて、丁寧に水やりをし、大切に大切に、それが育つのを支えていく。
そしてそれは1人ではなく、周りの人と一緒に変化を感じ、変化を喜び、1つ1つを受け止めていく。

不登校のお子さんを見守った場合にどうなるかと言うと、悪化していくケースが多いです。何が悪化するかと言うと、生活習慣がどんどん乱れていったりとか、スマホやゲームへの依存が加速したりします。そうすると運動不足にもなるし、生活習慣が乱れれば体調不良にもなるしメンタル的にも不安定になる。悪循環がたくさん起きてしまうんです。

見守るということは、言葉通り何もしないことだとたいていの人が解釈すると思いますが、本当に何もしないで不登校問題が解決するなら、そもそも不登校がこんなに大きな問題になってないと思うんですね。不登校が年々、増え続けているというのは、解決できるケースが少ない証拠ではないでしょうか。

>>お子さんを見守った場合にどうなるかと言うと、悪化していくケースが多いです。

そんなことはありません。
おそらく数的根拠もないでしょうし、肌感なのだと思います。
私が関わっているケースで言えば、前進していくことのほうが多いです。

その悪化していくケースには、「見守る」ということ以外の影響が大いにあるでしょう。

・子どもの意思を尊重しない、強い登校刺激がある(親、祖父母、学校、支援者から)
・生活の中に制限ばかりで、子どもの自由が阻害されている
・子どもが自分の悩みや苦しさを吐き出す相手がいない
・子どもにとって「味方」と思える存在が身近にいない

などなど、さまざまな別要因が考えられます。

>>見守るということは、言葉通り何もしないことだとたいていの人が解釈すると思います

ここは私たち支援者側も反省しなければならないところだと思います。
見守る=何もしないこと、と勘違いさせてしまっている責任の一端が私たちにもあります。

「見守る」は何もせず見ていること、ではありません。

私が代表を務めるNPO法人キーデザインでは、保護者向けの無料LINE相談窓口「お母さんのほけんしつ」を運営しています。
支援員のみなさんにも、ご相談いただく保護者の方にも意識して伝えるようにしているポイントです。

「見守る」の言葉の中には「子どもを信じる」という意味が内包されていると思っています。
それはあくまで「子どもが学校に行けるようになることを信じる」のではありません。

「子どもの存在そのものを認める」
「子どもは回復する力(つらい現実と向き合う力、壁を乗り越える力)を持っていることを信じる」

そんな意味を指しています。

そんな「子どもを信じる」ということができるようになると、自然と見えてくる子どもの姿が変わってきます。

これまでは「またゲームばかりやって」とイライラしていたのに、「今は心を休めている時間なんだな」と思えるようになったり、「この子がこんなにはまっているゲームはどんなものなんだろう」と関心が生まれて子どもと会話するようになったり

これまでは「今日も学校行けないのか。いつになったらこの生活が終わるんだろう」と心配、落胆していたのに、「今日は休むって決めたんだな。一緒にお菓子づくりをしないか聞いてみようかな」「今日は子どもも自由に過ごしてほしいし、私も外出してこようかな」と思えるようになったり

「信じる」とはこういうことを指しますし、「見守る」の中にはこうして視点も必要なんです。
念の為伝えますが、これをできない親御さんを否定する意図は一切ありません。むしろ私も親の立場だったら、みなさんと同じように悩むはずです。最初はできなくて当然ですし、頭で理解していても常にこの考えでいられるわけでもないです。
「見守る」はかなり難しいんです。

世の中のほとんどの人が「見守りましょう」と言っている中で、われわれの主張はなかなか信じてもらえない。われわれの言うことよりも、医師やカウンセラーが言っていることのほうがよっぽど信頼できると思うのは普通だと思います。

なんだかこの文章に違和感を持ったのですが、なぜだろうと頭をこねくり回してみてわかりました。

これはあくまで個人的な感覚になりますが、まず世の中のほとんどの人が「見守りましょう」とは言っていないんです。まだまだ世の中の9割以上が「学校は行かなきゃまずいよね」派です。

正直、私も時々勘違いしそうになりますが、支援者界隈で話をしていると、たしかにだいたいみなさん同意見で「見守ることの大切さ」「学校以外の選択肢の重要性」なんかを頷きながら話をするんです。

でもそれは支援者界隈や、学校教育関係者の中の一部の方だけで、世の中全体で見るとまだまだ「学校は行かなきゃまずいよね」派が大多数です。

そしてもう1点。
>>われわれの言うことよりも、医師やカウンセラーが言っていることのほうがよっぽど信頼できると思うのは普通だと思います。

医師やカウンセラーが言っているからではありません。
その支援方針に子どもの意思が反映されているかどうか、が大切です。

医師やカウンセラーが言うことでも、それが大人の期待や理想ガチガチで、子どもの意思なんて知らんがな、という方針であれば私は大反対します。

子どもは大人の物ではない。
子どもも大人と同じく1人の人なんだ。
私たちの思い通りにしよう、というのがそもそも間違えている。

最終的に子どもたちが社会の中で自立できればそれでいい、というのが私たちの前提であり考えです。だから、そうした学校以外の選択肢が子どもたちを自立に導いているのなら、それはそれでいいと思います。

いいですね。私も同感です。今学校に行くかどうか、ではなく、もっと未来を見て今の生活を見たいですね。

フリースクールも、ちゃんと早起きして朝から通った上で運動も勉強もして、社会性や生活習慣など人として生きる上で当たり前に必要なこともしっかりと身に付けられるのなら、僕はいいと思うんです。ただ一方で、それを学校以外の環境で身に付けるのは現実的に難しいケースが多いと思っています。

先ほどの「同感」とは一転。

>>ちゃんと早起きして朝から通った上で

いやいや、子どもたちと関われば関わるほど感じますが、朝起きるのって難しいんですよね。

「起立性調節障害」という自律神経の乱れを要因に、朝がしんどかったり、体が自由に動かなかったりする症状を抱えている子もいます。

そうじゃなくても、朝ってしんどかったりするんですよ。
だって朝は親にこんなことを言われることもある。

「今日は学校行かないの?」
「せめて午前だけでも行かない?」
「怠けないの!」
そんなことを言われると、朝が憂鬱になる。学校に行くどころか、起きることすらしたくなくなります。

親にそれを言われなくても、朝は家の外から子どもたちの声が聞こえてくる。楽しそうに友達と話している声が。
それを聞くと考えてしまうんです。

「楽しそうでいいなあ。でも私は…」
「どうせ自分はみんなと同じにできないんだ」
そんなふうに嫌な自分ばかりが頭の中に浮かんでくる。

だから朝起きるのがしんどくなる。

>>社会性や生活習慣など人として生きる上で当たり前に必要なこともしっかりと身に付けられるのなら、僕はいいと思う

「社会性」「人として生きる上で当たり前に必要なこと」なんていう抽象的オブ抽象的な言葉で、片付けないでほしい。

社会性ってなに?
学校に行くことでしか身につけられないの?
学校に行かずに、大人になって幸せに生きている人も大勢いるけど、それはどういうこと?

「人として生きる上で当たり前に必要なこと」ってなにを指してる?

これだけ時代の変化がある中で「生きる上で必要なこと」も変わってきているだろうに、もう何十年も前の不登校支援と同じことをしているのはどうなの?
ほんとにそれで必要なことは身につけられる?

いや、というかすごいな。
この多様な社会において、「人として生きる上で当たり前に必要なこと」が共通にあると思っていることが。それが学校に行くことで身につけることができると思っていることが。

例えばフリースクールは、一般的には登校時間も決まっておらず、勉強も別にしなくていいという感じの場所が多いです。いつ来てもいいから子どもは朝起きられなかったりするし、来ても漫画を読んだり、遊んでいるのもOKという場所も多い。先生も教員免許を持っているとは限らない、つまりきちんと勉強を教えられる人が必ずしもいないという現実もある。運動場や体育館もないから、学校と同じような環境で運動をすることも難しい。学校のように同年代の子どもたちと何か一緒にやっていく環境をつくれないところも多く、社会性を育てるのが難しい部分もある。
こういう問題が全てクリアできるようなフリースクールならいいんですが、現実としてはたぶん、難しい場所が多いと思うんですね。僕自身、運営をしていたことがあるのでフリースクールの抱える課題はよく分かります。

問題ばかりに目を向けている感がすさまじい。
いや、日々運営していれば問題はもちろん起こりますよ。改善したいと思っている課題だってあります。
だって全く異なるキャラクターの子どもたちが来る場なんですもん。仕事なんですもん。問題が起きて当たり前です。

でもそれは学校も同じ。学校もさまざまな課題を抱えている。

そして文章を読んでいて気付いたのは、大切にしたいことが異なるんだなということ。

私たちが大切にしたいのは、子どもの心です。
それはその子が「大人の設定した目標に対して、何をどこまでできるか」じゃないんです。

・自分が何をしたいか、何を大切にしたいかに気付くことができるか
・その子の今していることは、自分の意思で取り組んでいるか
・困った時に頼れる誰かがいると感じられているか
・周りに味方がいると感じることができているか
・自分は自分でいいんだ、と思えているか

そんな視点で子どもたちの生活環境を整えるお手伝いをしています。

周りと比較してどのくらいできるかじゃない。
大人の期待にどれだけ応えられるかじゃない。
周りからの評価ではなく、その子の意思が大切なんです。

その子の意思が大切にされることは、そのまま生きるエネルギー源になります。その子の自信につながり、「やってみたい」につながり、「もっとがんばるぞ」につながり、「困ってるから助けてほしい」につながり、「ありがとう」につながり、「生きるって楽しい」につながる。

生きるために必要な力をまさに養っています。

>>僕自身、運営をしていたことがあるのでフリースクールの抱える課題はよく分かります。

なるほど、そうなのですね。どのくらいされていたんですかね。どのくらい子どもたちの心に目を向けてくださっていたんですかね。
フリースクールといえど、100箇所100通りのやり方・考え方があります。

私たちとは全く異なるフリースクールだったのかもしれませんね。

再登校を目指した上でだめだった場合には、フリースクールとか他の選択肢を選んでもいいと思うのですが、今って不登校になった子ども全員に対して「学校に行くのが無理ならそっちに行っていいよ」と簡単に言いすぎるところがあるように思います。

>>再登校を目指した上でだめだった場合には

目指すというのはどこまでを指すんですかね。数値化できない、かなり難しいところだなあと思いました。
そしてやはり「だめ」という表現も...。

>>今って不登校になった子ども全員に対して「学校に行くのが無理ならそっちに行っていいよ」と簡単に言いすぎるところがあるように思います。

「簡単」には言っていません、少なくとも私は。いや、というか多くの方はそのはずです。
その子が本心から学校に行きたいと思っているのか、それは子どもの目や表情や言葉やその間から感じ取って、判断しています。
「周りの期待に応えるため」に「学校に行きたい(行く)」と言う子が大勢いるので、そこも1つのポイントとして捉えて判断しています。

先ほどもお伝えした通り「学校復帰がゴール」が世の中の大多数の考えとなっています。なので、逆にそれ以外の道を示す側は、より強く意思を持って伝える必要があるとも思っています。

だって無思考に「学校には行かなければならない」と言う人が、世の中には大勢いるから。(あぁ、言い方きつくなってごめんなさい。でも「なぜ」を何度も繰り返していくと、学校でなければならない理由ってほとんど残らないはずなんです。)

多数派の時は、特に気をつけなければならない。
なぜそれが正解なのか、を。

少数派は問われる機会が多い。
「なぜ学校を休んでいいと言うのか」
「なぜ学校以外の場をつくる必要があるのか」
「教育はなんのためにあるのか」
「安心とはなんであるか」
「子どもたちの成長にはどんな機会が必要か」
「幸せとは」
そんなことを周りからも問われるし、実践している私たちは毎日毎日これと向き合っている。自問自答の日々です。

多数派のときは、そんな問答をする必要がない。
だってみんな何も言わずとも頷いてくれるから。
困ることがないから。

長くなりました。とりあえず「簡単に」は言っていません。
四六時中、問いと向き合った上での「学校は必須ではない。社会が学校以外の選択肢を用意し、子どもたち一人ひとりにあった場を整えていかねばならない」という答えです。

フリースクールの中には、子どもたちにとっては好きなことを好きなだけできる、という環境も多いです。その環境に1度慣れてしまってから、朝から放課後まで授業がある学校に戻れるかって言うとかなり難しい部分があります。
それに、元々学校に戻れる状態のお子さんが不登校の状態からフリースクールに行って、そこからさらに学校に戻るとなるとハードルを2回越えなければならない。また、フリースクールを挟むと結果として元の学校に戻るまでの期間が伸びるということもあります。

うちのフリースクールに通った子たちの中には、自分の意思で学校に行くようになる子もいます。
週数回、学校に登校するようになる子もいれば、うちに通った結果数ヶ月から数年が経ってフリースクールを卒業、学校に完全復帰する子もいます。

それは本人が元気になったから。
フリースクールでの生活や、その間の家族や学校の先生など多くの方の支えのおかげで、元気を取り戻し、自分なりにがんばろうと思えるようになったから。
本人の意思で決めたことです。
そしてそれを決めることができたのには、もう一つ理由があると思っています。

それは「何かあったら戻って来れる場所がある」という安心感です。

フリースクールがそうなのかもしれない。
そこにいたスタッフの誰かなのか、一緒に過ごした友達なのか、はたまた家族なのか。
その長い時間をかけて育んできたものが、たしかなものになって、その子のチャレンジを生んだんです。

文章を読むと「学校に戻るまでの期間は短いほうがいい」と考えているようにも捉えられますが、私はそこの期間が短いかどうかにはたいした意味はないと思っています。
その期間にどれだけ多くの応援者を見つけられるか、その中で表面的ではない”たしかな安心”をしっかり心の中に育むことができるかが大切だと思っています。

実際問題として掛け算もできなければ漢字も読めないとなったら、仕事をすることはできないですよね。

掛け算も漢字も、必要になった時に学べばいいんです。たとえばですが、7歳の時と12歳の時の学ぶスピードを考えてみてください。
脳も発達し、確実に12歳の時のほうが早く学ぶことができます。やる気になればいつだって勉強は取り戻すことができます。

でも心は、一度壊れてしまうと簡単には元には戻りません。

子どもは家に住ませてもらって、ご飯を食べさせていただいている立場です。

いや、すごいな。
子どもは、どの時代に、どの場所に生まれるかを自分で決めることはできないのに、それを生まれたあとになって「子どもは住まわせてもらって、食べさせていただいている立場です」って、なんという理屈。

言ってしまえば、子どもを生もうと決めたのは親なわけで。
だからと言って、子どものことは全て親の責任だとは一切思っていないけど、「子どもは親にお世話になっている」なんてそんな言い分あるの?
もしそれが本来ある姿でないのなら、子どもはどうやって生きていけばいいの。
いや、もっと他に選択肢があるのならいいのかもしれないけど、それこそ今の時代はまだまだそうなれてない。

なんだろう、これはもうちょっと自分でも深掘って考えたい。
おっしゃる通り、子どもにも生まれた後、どこで育つかは決める権利があるかもしれないですね。どこで学ぶかを選ぶのと同じように。誰と関わるかを選ぶのと同じように。

これはちょっと宿題に持ち帰ります。

仮に、中卒で働くとなった場合にどうするかといったことを現実問題として考えたら、結構きついですよね。だから、あなたは今小学生で、仮にずっと不登校で中卒となった場合どうなるか。今の世の中って、給料を中卒と大卒で比べたら中卒のほうがずっと低いし、選べる仕事も非常に限られてくるよ、といった話をしてみてはどうでしょうか。実際にこのような話をすると、驚いて学校への意識が変わるお子さんは多いです。そのような現実を伝えたうえで、どの選択肢を選ぶかを考えようと問いかけることが大事かなと思います。
通信制の学校にいったとしても、自宅で学校と同じように勉強をできるのかを考えさせる。たぶん子どもたちも「けっこう大変そうだな」みたいな反応になると思うんですね。そういう点を考えたうえで本当に学校なんて行かなくてもいいのかを親子で話し合うのが大事かなと思います。

いや、え…あれ、なんだろう、イメージが全然噛み合わない。
うちに相談に来てくださるご家庭のほとんどは、そんな話をまともにできる状況じゃない家庭のほうが多いのですが、、、。

子どもの頭の中は、これまで書いてきたように相当いっぱいいっぱいで、将来のこととか冷静に考えることができる状況にないことのほうが多い。

例えば小学生にそんな話したって理解するのは相当むずかしいだろうし、そもそも、子どもを脅して行動させる、ってどうなの?
それって子どものためになるの?本当に?

というかそもそも「学校に行かないデメリット」なんて、親の頭の中は常にそれでいっぱいだと思う。出尽くしている。それを親が子どもに対して一言も言っていないとでも思っているのだろうか。

給料の高い低いを基準にしているのも、幸せの定義の軸が浅いように思うし、選べる仕事も限られてくるって、この子たちが働く頃にどんな未来が待っているのか全然わからないのに。。。むしろ今働いているみなさんの仕事すら存在しないかもしれないのに、選択肢が少なくなるなんていう常套手段の脅し文句を使うのもどうかと思うし。

>>通信制の学校にいったとしても、自宅で学校と同じように勉強をできるのかを考えさせる。たぶん子どもたちも「けっこう大変そうだな」みたいな反応になると思うんですね。

いや、なりませんて。
少なくともうちが関わってきた保護者の方に、こんなことを子どもに言ってもらっても、子どもが「じゃあ学校行くわ」なんてなりません。一切想像できません。

というか親御さんもそれはわかった上で子どもにも話していたりするし、本当に子どもの支援者の発言なのだろうか…。

あ、そうか。
子どもと直接関わることはしていない、って何かで読んだ気がする。
それなら、この「子どもの気持ちがわかっていない感」も納得がいく。

全体を通してそう。
大人の描く正解を信じきってしまっているように感じる。
自身がこれまで積み上げてきた価値観をアップデートする意思が感じられない。

子どもは大人の期待に応えるために生まれてきた、くらいに聞こえてしまう。

ああ、これは私が冷静じゃないからなのだろう。
もう、感情に支配されて、クールに文章を読めていないのだろう。
目が血走っている、もしくは目に涙を浮かべているから、文章もまともに読めていないのだと思う。

ごめんなさい、全く見当違いなことを言ってしまっていたら。
全く論理の通らない、意味のわからないことを言っていたら。

でもこれだけは言わせてほしい。

子どもは大人の所有物ではない。
子どもは大人のコントロールする対象物ではない。
子ども一人ひとりに、自分の生きる道を選ぶ権利がある。
そして大人はそれをサポートする役目を持つ。
大人にとっての正解の未来ではなく、子どもが創造する未来が大切だ。

学校は、1つの手段でしかない。
国の施策も不十分で、学校現場の仕事は増え、教員も減るばかり。
教員すらも「学校に行くのがしんどい」と言うこの時代に、子どもにも同じ場に行かせるしかできないのか、この社会は。

未熟すぎる。
まだまだまだまだ変わっていかなければいけない。

変わるべきは子どもではない。
大人だ。
私たち大人が変わっていかなければならない。

子どもが希望を持てる社会にするためには
私たち大人が自身の固定観念を見つけ
それを問い直し、向き合い続け
新たな道を作っていかなければならない。

ビジネスとしてやる分には、勝手に自由にやってもらっていい。
でも子どもを傷つけ、親を傷つける、そんな内容の発言があれば、それは私も自由に発言させてもらう。

お願いがある。

「子どものために」と言って、大人の正解を押し付けないでほしい。
「子どものために」と言って、親に責任を押し付け、不安を煽らないでほしい。

そして、できる範囲でいいから、子どもの声に耳を傾け、子どもの表情に目を向けてほしい。

以上です。

ああ、またこうして反応して、書いてしまった。
これは炎上商法なのかもしれない。というか、そうと思いたい。こんなにも時代錯誤で、子どもの気持ちを無視した支援はないと思うから。

炎上商法に巻き込まれるのも嫌だけど、それでもやはりこの考えが本心であることよりも、まだそっちのほうがいい。

ふう、疲れました。

言い訳をさせていただくのですが、最近文章を書く機会が多く、頭が疲れてきています。文章のロジックがあっちこっちいっていたり、よくわからないことを言っていたりしたらすみません。

過去に書いた記事もありますので、よければそちらをご覧ください。


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