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\マンスリーサポーター100名突破記念No2/ 親の「〇〇」という言葉が、私の挑戦を支えている

みなさん、こんばんは。
NPO法人キーデザイン代表の土橋です。

 日々応援してくださり、ありがとうございます!

 昨日の「なぜ代表土橋がこの取り組みをしているのか」の配信に続き、今日は第2弾です。

第1弾をまだお読みでないかたはこちら


今回は大学生になってからのことを振り返らせてください。 

前回お伝えした通り、大学に熱い思いを持って入った私は、入学後に見事撃沈しました。周りとの熱量のギャップに気持ちがやられてしまいました。

当時、大学内での孤独感を拭うように取り組み始めたのが学外活動。

栃木県は歴史の教科書で必ず見るあの「足尾銅山」がある県です。そこへの植林活動に始まり、学童保育の運営、また福島へのボランティア、企業インターンなど様々に取り組んでいました。

当時は目に入るもの全てに参加する勢いだったと思います。

当時一緒に活動していた仲間とパシャリ

学外に出ると、必ず多くの大人との出会いがあり、その後ろには私の知らない世界がたくさんあったのです。

ある時から思うようになりました。

周りの大学生にも、こうした社会(大人)との出会いをつくることで、夢や目標が見つかるのではないかと。

「参加するだけでなく、自分でそういう機会をつくれるようになりたいな」とその頃から思うようになりました。

 

大学2年生の頃には学業への熱意もだいぶ冷め、自分が単位をとれているのかどうかにすら関心がなくなっていました。

高校生の頃からあった「命の尊さ」への思い、そして同世代との関わりの中で感じた「とりあえず今を生きていること」への複雑な思いがあり、思い立った私は決心しました。

「休学して自分なりに活動をしよう。将来は世界の戦争や飢餓、貧困を取材するジャーナリストになって、それを伝えることで自分の人生を懸命に生きる人を増やしていくんだ」

ジャーナリスト堀潤さんと


ジャーナリスト田原総一朗さんと

※↑そんな頃から10年以上が経ち、ご縁がありこのお二人とお会いすることができました。10年前の自分に伝えてあげたいです。

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新たな目標を持ち心を決めた私は、休学するための手続きに入ります。

ここには大きな大きな壁がありました。

 

それは「親の理解」です。

言ってしまえば、個人の家族の話なのでスルーしてもよいのですが、私にとってこの親とのやり取りは、今の活動の根幹に関わる大きな出来事だったので、あえて書かせてください。 

私の両親は基本的に、自分のやりたいことを応援してくれる人でした。

ですが今回のこれはこれまでの「やりたいこと」とは全く色が違いました。

 

「せっかく入った大学を休学?」

「世界の戦争を取材するジャーナリスト?」

 

親からすると心配の嵐です。

なんとなくその親の気持ちを推察していた私も、電話で軽く話すわけにもいかず、ちょうど年明けの成人式があったので、地元青森に帰省したタイミングで話そうと決めました。

実家には4泊ほどしました。

夜になると、仕事から帰りリビングで休む両親を見て「よし話すぞ」と意気込みながらも、口から声が出ない、そんな日々を過ごしていました。

宇都宮に戻る前日の夜、「もう言うしかない」と思い、思い切って話しました。すると案の定、いえ、想像以上に重たい空気が襲ってきました。

 

特に父からは

「計画は?」

「どこの国に行く予定なんだ?いつからいつ?」

「海外に行く費用とあっちでの生活費はどうするんだ?」

「休学を終えたあとは大学に戻るのか?」

そんな質問の応酬でした。

 

全て答えられません。それもそのはず。そんなこと私は考えていなかったんですから。 

その場凌ぎの言葉を積み上げ、劣勢に立たされながらも、応援されていないことに悲しみと苛立ちを感じた私はついに言ってしまいました。

 

「認めてくれないんだったら、親子の縁を切ってでもやるから」

 

自分でも驚くくらいに、口が震えていました。

実は地元に帰省する新幹線の中で考えていたんです。もし認めてもらえなかったら、その言葉を伝えて、覚悟をわかってもらおうと。

 

数秒の間があいて、父がぼそっと言いました。 

「縁なんて、そんな簡単に切れるものじゃねえ」

 

私は「なんてことを言ってしまったんだ」という申し訳なさと、想像と違った父のリアクションへの驚き、そして「それでもやってやるんだ」という覚悟の気持ちが絡み合い、もう混乱状態でした。 

近くで話を聞いていたのか、そのやり取りのすぐ後、兄が間に入ってくれ、その場は結論が出ないまま終わりました。

 

翌朝、早くに家を出る私。父とは気まずいまま何も話しませんでした。

母に車で駅まで送ってもらうのですが、車に乗ると父はリビングの窓から顔を出して、こちらを見ていました。

気まずいなと思いながら目を合わせると、なんと父は朗らかな表情をしていたんです。

少し微笑んでいるような、ちょうど光もあたって仏のようにも見えたのを今でも覚えています。

私には「もう自由にやってこい」とそんなメッセージのように感じました。

 

その後は休学届けもスムーズに出し(両親からももろん許可をもらい)、特段これについて深く話を聞かれることはその後一度もありませんでした。 

それからというもの帰省するたびに言われるのは「ちゃんとご飯食べてるか」「元気にしてるのか」という言葉だけ。

ある時は「生きて帰ってくればそれでいい」、そんな声をかけられたこともあります。

休学騒動から数年後、父と

もちろんここまで大口を叩いて休学したので、生活費のことはもちろん、何もかも宇都宮にいる間は親を頼ることはしませんでした。いえ、できませんでした。親を安心させるためにも。

 でもこのことがあってから私の中に確かなものが芽を出し始めました。


「ああ、自分は生きているだけでいいんだ」

「どんな状態であっても、生きていればなんとかなる」

「何もかもダメになっても、生きていれば帰る場所が自分にはある」

 

そんな折れることのない確信が、私の心の中に芽生えました。

よく言われる「自己肯定感」という言葉。
保護者の皆さんからも相談をたくさん受けます。

「うちの子、自信がないんです」
「どうしたら、うちの子の自己肯定感はあがりますか」

それに対して世間では

・小さなことでもたくさん褒めていきましょう!
・怒ることはせず、お子さんの良いところを伸ばしましょう!

そんな答えをよく見聞きしますが、私は本当にそれが正解なのかと懐疑的に思ってもいます。

自己肯定感というのは、「ありのままの自分でいいのだ」という気持ちを持つことを示すと思います。
それはつまり「ありのままの自分を受け入れてくれる人がこの世の中に存在すること」を信じる気持ちを持てている状態だと思うのです。

必要なのは「できることや成功を褒めてもらう」ことではなく、「できない自分に出会ったり、大きな失敗をしたりした時に、『大丈夫』『私は味方だよ』と言ってもらうこと」だと私は思います。 

私は自分の親との関係性の中で、その”ブレない芯”を得られたと思っています。

経営が苦しいとき、人間関係で辛いことがあったとき、仕事で大きな失敗をしてしまったとき、どんな時でも最後の最後にはその信じる気持ちが、心のブレーキをかけてくれます。

「自分なんて存在価値ないんだ」

「どうせ自分は何も...」

そんな気持ちにどっぷり浸かることがなくなりました。
そしてその「生きていればいい」の言葉は、挑戦することを後押ししてくれます。

だったどんな失敗だって「生きていればいい」んですもん。

私がこうして今の仕事に全力投球できているのは、親の存在のおかげです。

親子エピソードが長引きすぎましたね。笑
でも大事なことだったので、あえて書かせていただきました。

 今日も読んでくださりありがとうございます!

 次回は、どうして生きづらさを抱える子ども若者の支援をするようになったのか、というお話に入っていきます。お楽しみに!

つづき(第3弾)はこちら


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