見出し画像

ああ、そうだよね。不登校への認識ってそうだよね。でも僕は違うと思う。

毎年秋になると「昨年度の全国の不登校の児童生徒は◯人でした」と、文部科学省から発表がある。
それに合わせて、メディアでいろいろと情報が取り上げられるのですが、どうしても「この内容は違う」と思ったものには僕は「NO」の意思表示をさせていただいています。

なぜならその記事によって、勘違いが生まれてしまい、より不登校の親子が窮屈になってしまう・孤立してしまうことが考えられるから。

不登校の親子に必要なのは批判の声ではない。
味方だ。気持ちを想像し、状況を理解しようとし、応援してくれる味方だ。

だから今回も書きます。

今回の記事はこちら

まだ読んでいない方はぜひ読んでから、下の私のお話を読んでもらえるとスムーズだと思う。

先ごろ、全国で小中学生の不登校が激増しているという衝撃的なデータが発表された。文部科学省が行った2023年度「問題行動・不登校調査」の結果、その数は34万6,482人と過去最多だったことがわかったのである。しかも11年連続の増加で、前年度からは16%も増え、はじめて30万人の大台を超えてしまった。

これはよく出てくる数字。
ただ実はこれにも私は言いたいことがある。

メディアでいつも取り上げられるのはこの「不登校」の人数だ。
違うんだ、大事なのはそこじゃない。

「え、何言ってんの?不登校の子たちの話をしたいんだよね?」

そんな声が聞こえてきそうだ。
でも実際に今年度の発表で注目してほしいのはこの数字だ。

493,440人

これが何の数字かというと、「長期欠席者」の数です。

今回の記事にも表記がありますが、文科省の発表する「不登校」には「病気で休んでいる子」や「経済的な事情」「コロナ感染回避」で休んでいる子は含まれていない。

どんな事情があったにしても、上記にあげた子は病気や経済的事情などで「義務教育」を受けられていないんです。

「(一般的に理解される)はっきりとした事情がなく休んでいる子」=「不登校」

となっているのが現状なんです。
大事なのは、1人残らず全員が「教育」を受けられる環境を整えることのはず。
そう考えると、取り上げるべき数字は「不登校」ではなく「長期欠席」です。

約34万人と言われていたものが、「約50万人」とぐっと大きな数字になる。
たまたま私が住んでいる栃木県宇都宮市は、人口約50万人。
市民全員が、義務教育を受けられずにいる、ということになる。
すさまじい数字だと思う。

メディアの数字に踊らされずに、真に大事なことに目を向けられるようにありたいと私は思う。

次に行きます。

学校の教室での大きな声や音に耐えられないなど、従来の学校生活のあり方に適応できない子が増えている、という指摘もある。実際、そういう子は増えているのだろう。だが、問うべきは、どうして適応できない子が増加しているのか、という大本の原因である。

おっしゃる通り、大きな声や音に耐えられないといった理由をあげる子も増えてきている。うちで運営する保護者向けのLINE相談でもそうした声はけっこうある。

ただその後の「適応できない子」という言葉がどうも引っかかる。
そしてその後「問うべきは、どうして適応できない子が増加しているのか、という大本の原因である」という一文。

ああ、違う。そうじゃない。
私から言わせれば、「どうして学校は時代の変化に追いつけないのだろうか」という大本の原因を問うべきだと思う。

続ける。

こんな状況だから、私自身、学校に行きたくないと思ったことが何度もある。だが、そのころの私には、学校に行かないという選択肢はなかった。行かなくていいといわれれば、きっと行かなかっただろう。だが、そんな発想は皆無だった。それにくらべれば、いまの子供たちは守られているし、状況はずいぶん改善されたと思う。

記事を読むと、この筆者の方も学生時代に苦しいことがたくさんあったのだと思う。当時それでも頑張って学校に登校していたその努力自体はすごいものだと思うし、認めたいと思います。

でも聞いてほしい。

「行かなくていいといわれれば、きっと行かなかっただろう。」

まずこれは違う。
ここには「子どもたちは親に『学校休んでもいいよ』と言われて、素直にそれを受け止め、安心安全に過ごしている」という前提の考えが見えてくる。

違う。

不登校になった子どもたちが、そんな簡単に安心した生活を得られるわけではない。子どもたちが親に「休んでもいいよ」と言われて「あ、あざす!」と、鼻歌を歌いながら自由気ままに過ごしていると思われては困る。本当に本当に困る。

子どもたちの中には、朝起きる時間が遅くなる子も多くいる。
その要因はいくつかあるが、その一つには「朝が怖いから」というのがある。

どうしてだと思いますか?

朝、7時8時に起きていてみてください。
外から聞こえてくるんです。
同級生や同じ学校に通う子たちの楽しそうな声が。
「おはよう」と明るい声、友達に向かって走っていく足音、いろんな音が聞こえてくる。

それが子どもにとってどれだけ苦しいことか。
どれだけ心の中に黒い影を落とすことになるのか。
想像したことがありますか?

「なんで自分はみんなと同じように学校に行けないんだろう」
「学校に行けるようになりたい。でも怖い、体が動かない。学校のことを考えると息継ぎがしんどくなる」
「自分は病気なのかな。病気なのかな。みんなと何が違うんだろう」
「自分はいつまでこうなんだろう。いつになったら”普通”になれるんだろう」

そんな気持ちが毎朝、頭の中を駆け巡る。
自分の存在自体を認められなくなる。
自分の存在意義を見失うようになる。
他の子と違う自分は”異常”なのではないかと思うようになる。

朝だけじゃない。
勉強だってそう、友達関係だって、部活動だって、何もかも不登校になってから、周りに追いつけない、周りよりできない自分で頭の中はいっぱいになる。

それが苦しくて、それと向き合うことで心が壊れそうになる。
だからそれを感じやすい朝を避けるようになる。

子どもたちが朝起きられなくなるのは、無意識に自分を守ろうとしていることでもあったりする。

ゲームやスマホに熱中するようになるのもそう。
起きている時間、何もしていないとずーっと頭の中は黒いものが駆け巡る。
だから何かに熱中・没頭することで、その地獄のような苦しい状況を避けるようになる。
自分を守るために「逃げる」という行動は大切な選択だと私は思う。
それをネガティブな意味で「現実逃避」「逃げた」と言う人もいるけど、ふざけんな。

子どもたちがただそこにいるだけで「逃げたい」と感じる社会を作ってしまったのは私たち大人だ。
ただ存在するだけで苦しくなってしまう社会を作ってしまったのは、子どもではない。私たちだ。

それを子ども1人に「弱い」「怠けだ」そんな追い詰めるような言葉で、自己責任で片付けるようなことを、僕は許すことはできない。

もう一つ、親も簡単に『学校休んでいいよ』と言っていない。それは最後のほうにまた書こうと思います。

続ける。

子供が少しでも「厳しい」と感じる指導は、すぐに「パワハラだ」「モラハラだ」と指摘されてしまうので、しばらく前から小中学校で、厳しい指導がまったくできないと、よく聞かされる。
横浜市の公立小学校に勤める教諭が言う。
「パワハラが問題視されるのはいいとしても、パワハラと厳しい指導の境界があいまいなので、子供に少しでも厳しいことを言うと、すぐ『パワハラだ』と言われてしまいます。学校でも問題になるし、保護者からもすぐ苦情がくるので、子供が明らかにしてはいけないことをして、ちゃんと注意しなければならない場面でも、厳しく指導することができないのが現実です。児童というお客様に教諭たちが気を遣っているようだ、と言っても過言ではありません。しかし、子供にはまだ知識も経験もないのだから、違うことは違う、ダメなことはダメだと教えてあげないと、成長する機会を得られません。」

先生もかわいそうだなと思う。
あまり私は人に対して「かわいそう」という言葉は使いたくないけど、ここはあえて使う。

注意の言葉も「誰が言うか」で、全然違う結果を生む。
先生が注意したときに(そもそも先生の注意の内容・仕方が正しいものと仮定する)、その子どもに「パワハラだ」と本気で思われた・言われたのだとしたら、「その注意がその子に響くだけの信頼関係を築けていなかった」のだと思う。

ただ私は、それはその先生個人の責任だとは思わない。

だってそんな余裕ないから。
仕事が盛りだくさんで、全く余裕のない、休む時間もない中で1日を過ごし、残業をし、週末だって部活やら何やらで仕事に追われる毎日を過ごす。それは、信頼関係を築くなんてことできるはずないよなと思う。だから私は先生もかわいそうだなと思う。

同時に悔しくも思う。
だって「子どもたちに良い教育の機会を」「子どもたちが笑顔になれる時間を」って思って先生になったのに、その子どもたちの表情を見るよりも、それ以外の時間が驚くほど多いから。

「学校という環境じゃなかったら、もっと子ども一人ひとりと理想の関わり方をできていたのに」そんな先生も大勢いるんじゃないかと思う。

ちなみに↓、精神的な理由で休職している教員が過去最多、なんていう情報も最近入っている。もう先生が限界になっていて「学校に行けない」状態になっている。

ちなみにもう一つ。
「子供にはまだ知識も経験もないのだから、違うことは違う、ダメなことはダメだと教えてあげないと、成長する機会を得られません。」
という言葉についても、私も教育者の端くれとして一言だけ、一応付け加えたい。

まず私はそもそも子どもたちにも彼らが今の年齢を生きるだけの知識も経験もあると思っていますが、100万歩譲ってそれがないのだとしたら、『教えてあげる』という考えからそろそろ脱却しないといけないと私は思います。
子どもたちには驚くほどの考える力があります。感じる力もとてつもなく持っています。これは私たち大人の力を超えるかもしれませんね。

すごいですよ、子どもたちって。

『子どもは、大人が教えてあげないと生きていけない生き物である』
まずその前提から変えていくことが、私たち大人には必要なのだろうと思います。

あ、でもこの先生はわかった上でそれを言葉にしなかった、もしくは記事の文量の問題で記載できなかったのかもしれませんね。もしそうだったとしたら、失礼しました。

 どうしても耐えがたいことに、耐えるように指導する必要はない。しいたけが嫌いな子に無理に食べさせても、ますます嫌いになるだけだろう。でも、やらなければならないことはあるし、耐えて乗り越えなければならないこともある。自分で自分を律する方法をまだ知らない子供に律し方を教えるのは、教育の責務であるはずだが、いまの教育はそれを避けている。その姿勢では、子供は学校で少しでも嫌なことにぶつかれば、すぐに通いたくなくなるのではないだろうか。

「その姿勢では、子供は学校で少しでも嫌なことにぶつかれば、すぐに通いたくなくなるのではないだろうか。」

ほんとにもう

”少しでも嫌なことにぶつかれば”?
え、何言ってるの?

少しでも?
ほんとにそれ言ってる?
情報収集できてる?
どれだけ子どもたちの声聞いた?
せめて子どもの取材できなくてもいいけど、親の声は聞いたよね?
プロだもんね?そうだよね。
その上でそれを言っているんだとしたら、とっても偏った取材をされたのか、相手の気持ちを理解するのが苦手な方なのか、、、すみません。これ以上はよくないですよね。ああ、ごめんなさい。

完全に感情的になってますね、自分。
でも子どもたち、そんなちょっとしたことで不登校になってるわけじゃないです。

もっと子どもに目を向けてほしい。
もっと子どもの心を見てほしい。
私が普段関わっている子どもたちを目の前にして、そんなことは口が裂けても言えないはず。

まあもし目の前でそんなこと言おうものなら、自分が全力で子どもたちを守りますけど。

もう一つ。
この文章だと「やらなければならないことや耐えて乗り越えなければならないことから逃げていることは教育として良くない」というニュアンスだと私は捉えていますがあっていますか。

筆者さんは「嫌いなしいたけ」で表していたので、それを引用します。
ちょっと極端な話になります。

子どもたちって、ずーっと目の前に「嫌いなしいたけ」をぶらさげられ続けているんです。
その先もずーっとしいたけしかない。それを食べないと前に進めない。何度吐いても、「嫌だ」「苦しい」って嘆いても、それでも「食え」「お前に選択権はない」「これを食べるしか生きる道はない」って言われ続けているんです。

嫌いたしいたけを食べた先に、美味しいフルーツは用意されていないんです。
嫌いなしいたけを食べないと前に進まないと言われているし、食べないと何より周りに怒られるから、周りが悲しむから、それをずっと食べ続けているんです。

「嫌いなしいたけを食べた先には、フルーツ(いい進学先やいい就職先)がある」なんて大人は言い出しますよね。

そんなの子どもにとっては関係ない話です。
それはフルーツじゃなくて、ネギやピーマンです。
大人が美味しいと思っているだけで、子どもにとっては美味しいものではありません。大人にならないと美味しいとわからないものでもあるし、今の子どもたちが大人になった時にそのネギやピーマンが存在しているかもわからない。

そこで示しているのは、大人が期待する「大人にとっての正解の未来」なんです。
子どもたちが今生きている社会を見てみてください。
5年10年経てば、こんなにも大きく変容していく社会の中で、大人が言う「正解」は「過去にあった正解」です。

時代が変わりゆく中で、本当に変わるべき人は誰なのか。
改めて自分自身に問い直さないといけません。

ちなみに私にとっての教育は、嫌いなしいたけを食べさせ続けることではありません。

自分の好きなフルーツはなんだろうっていろいろな場所、人と出会う中で考える。フルーツを見つけたら、そのために自分で情報収集し、考え、道を選び、途中に嫌いなしいたけがあっても『フルーツのために』と自分でそのしいたけを食べることを選び、食べきる。

しいたけの食べ方もいろいろあってもいいですよね。もし、しいたけじゃなくて、エノキでいいんだったらそれでもいいし、トマトもきゅうりもいろいろあっていい。調理方法だって、どんな種類の食材だって選べればいい。

それだけ人生は多様で、幸せの形もさまざまで、自分で考えて、自分で選んで、自分で歩んでいくことができるんだよ。それがどんなに楽しいか。それを教えるのが私は教育の真髄だと思います。

「何のために今しいたけを食べるのか」
その理由と、その先に見える未来が、自分で考えて納得するものだったら、子どもたちは頑張ってしいたけだって食べます。

今大人に必要なのは、子どもを納得させるだけの丁寧な説明と、それを支えるための考える力・物事に疑問を持つ力です。

「学校に行くこと」
「勉強をすること」
「苦手なことに取り組むこと」
「運動すること」
「早寝早起きすること」

この全てを「なんでこれをするの?」と子どもに問われて、回答できる大人がいますか。
子どもたちは求めています。

「それが正解だから」
「それが常識だから」
「それが普通だから」以外の答えを。

子どもたちと向き合う私たち大人こそが、考える力、世の中に疑問を持つ力が問われています。

続きます。

こうして頑張れなくなった子供が「学校に行きたくない」と言ったとき、「無理しなくてもいいんだよ」と親が答えれば、子供は不登校になるだろう。

まずこれ。
「こうして頑張れなくなった子どもが」とありますが、不登校になる子どもたちは、がんばってがんばってがんばってがんばって、その結果倒れ込んでしまったんです。

マラソン選手が、息も絶え絶え、足がもつれてつまづくそうで、もう汗も出ないくらい身体中の水分を出し切っている状態。それもどこまで走ってもゴールテープが見えない状況。
沿道にいる人はみんな口々に「がんばれ!」「怠けるな!」「努力が足りん!」そんなふうに言うんです。

そんな状況で、結果あるとき力尽きて倒れ込んだ。それが不登校です。
「怠け者」とか「弱い」とか言うのはほんとお門違いもいいところです。

そしてもう一点。
子供が「学校に行きたくない」と言ったとき、「無理しなくてもいいんだよ」と親が答えれば、子供は不登校になる

これほんとに親の声を聞いてほしい。
世の中の99%の親御さんが、そんな軽々しく「無理しなくてもいいんだよ」なんて言ってませんよ。

「なんとか学校に連れて行かないと」
「少しでも学校につなぎとめて、この子が学校に行けるように」
「この子の進学や将来にも影響するから、この子のためになんとしてでも」
「私のことも家計のこともいいから、仕事を休んででも」

そんなことを思いながら、何度も何度も試行錯誤します。
これまで出会ってきた方の中には、「5年、母子登校しました」なんていう方もいました。
ちなみに母子登校って、送り迎えだけじゃないですよ。
学校に一緒に向かい、教室の中に入って、お母さんは教室の後ろや廊下に椅子を置いてそこに座る。それを朝から夕方までずっと。
これも子どもが学校に行くために、です。

仕事だって、子どもが学校を行き渋り始めると、遅刻・早退・欠勤が増えるんです。「会社へ迷惑かけて申し訳ない」「今日は大事な会議がある日なのに」そんなふうに思いながらも、電話越しに何度も頭を下げながら、子どもの登校を優先して、学校に行けるようにサポートするんです。

子どもが「学校行きたくない」と言って「あ、おけおけ」って即答できる親なんて出会ったことありません。
数えきれないほどの親子での朝の格闘と、学校行かせたい思いと子どもを苦しませたくないという葛藤と、「私は親としてこれでいいのだろうか」という苦悩と。

そんな多くの感情や時間があって、結果「学校、無理しなくてもいいんだよ」なんです。

お願いですから、実際に親御さんから声を聞いて、認識を改めていただきたいです。

どうしても学校に通えない子供に、教育の機会を確保するという発想自体は、否定されるべきものではない。だが、この法律のおかげで「学校に無理して通う必要はない」という意識が急速に広まったという指摘がある。最後の最後に頼るべきシェルターとして機能するなら有益だが、安易な逃げ場になっているとしたら、この法律自体を見直す必要もあるのではないだろうか。

これよく当事者でない方から言われることなのですが、本当に見当違いなことを言っているので、勉強しなおしたほうがいいです。

まずもって「普通教育機会確保法」の存在を知っている親御さんってどれだけいるでしょう?
私よく講演会の場で、50人100人と保護者を前にして「教育機会確保法ってご存知ですか?」質問しますけど、毎回9割以上「?」ですよ。

いろんな親子での事を経て、専門機関や相談窓口を頼る中でやっと知るんです。

子ども「学校に行きたくない」
親「じゃあ、教育機会確保法もあるし、学校以外の場所を探そうか。休んでいいよ!」
子ども「うん、ありがとう!」

そんな光景を想像しているんでしょうか。
ありえません。

保護者だけでなく、学校関係者だってどのくらいこの法律のことを知っているんですかね。私が知る限り、不登校を担当する教員や教育委員会の方でない、一般の教員の方はほとんど知らないのではないかと思います。

「逃げ場」になんてなってないんですよ。
この法律を知ったとて、まだまだ強い武器にはなりえません。
現状「ほんの少しの希望」程度です。

「法律自体を見直す」より前に、不登校に関する知識を世間が知ることのほうが先ですね。何度も言いますが、まず保護者の声をぜひ聞いてほしいと思います。

不登校の増加への対処法として、「子供たちにとって安心、安全な環境を作っていくことが大切」などという指摘がなされている。それが大切なことはいうまでもないが、それ以前に、どんな環境にも慣れ、また耐えられる子供たちを育成しないかぎり、不登校は増え続けるだろう。耐性のない子供が増加すれば、ひいては社会が立ちゆかなくなる。大本を見据えて対策を講じてほしいと切に願う。

最後に、とっても大事なミスをしてくださってありがとうございます。
誰かが間違っことを発信することで、それが訂正され、「実は同じように思っていた」という人たちも考えを改めるきっかけになりえますから。
とっても貴重な発信です。

筆者さんは
安心安全な環境を作ることより前に、どんな環境にも慣れ、耐えられる子を育成すべきだ

ということをおっしゃってますが、それ”人”ですか?
ロボットの話をしていますか?
もしそれが”人”の話なのだとしたら、その”人”は幸せを感じられていますか?

人は「安心安全な場」があることを知って、初めて外の世界にチャレンジでできます。
外の世界には、これまで自分が体験したことのない怖いことや苦しいこともあります。

でもそれも何とか乗り越えようと自分の意思で頑張れるんです。
それはなぜか。
「安心安全な場」があるからです。

失敗しても、どんな状況であっても「あなたはあなたでいい」「あなたのことを愛している」そんなメッセージをくれる人が身近にいるからです。

その苦しい体験が耐えられなくて断念したとしても、その人は別の道を選んだり、いったん休息をとったりして、また歩みを進めます。
そしてまた壁と出会い、それを乗り越える努力をするんです。

それは「安心安全な帰る場所」があるから。
「ありのままの自分を受け止めてくれる人」がいるから。

以上です。
途中、筆者さんに対して、失礼なことを言ってしまったようにも思います。
反省しています。もし心を傷つけてしまっていたら本当にすみません。

この記事で傷つく子どもや保護者が容易に想像できてしまいました。ちなみに僕もずっと涙を流しっぱなしで、記事を書いていました。
約1時間半。ああ、水分がないですね。肩も痛いです。
ちょっと休憩しようと思います。

あ、ちなみに9月にも怒り?の記事をアップしていました。
あれから2ヶ月ですか。

世の、不登校の子を支える保護者のみなさん、この時期はいろいろと大変ですね。一緒にがんばりましょう。
あ、でも保護者のみなさんはできるなら休息を大切にされてくださいね。難しいとは言いつつ、支える側にも余裕が必要です。ご自身のためにも、子どものためにもぜひ一呼吸を。

またこの記事とは別件ですが「学校復帰はすべきか否か」というテーマで不登校経験者と対談しました。よければご覧ください。 ▼対談動画

もし「この人普段なにしてる人なの?」と思ったらこちらをご覧ください。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
保護者のみなさん、いつも本当にお子さんのためにありがとうございます。今日1日が昨日より少しでも安心を宿して過ごせますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?