だめだめな期末レポートを載せてみる。

環境が変わって最初の学期が終幕した。
規模がデカくて移動するだけで疲れる&自分が何言っても大スベリというタフな半年だった。でもとりあえず終幕。乙、自分。

単位を取得するには当然レポートを書かないといけないので無理やり書いた訳だが、書いてて面白かったものがあった。日米比較文学の授業で扱った、バーナード・マラマッドと筒井康隆の作品だ。マラマッドは20世紀アメリカで活躍したユダヤ系作家だ。ものを書くスピードは遅く、作品の数自体も多くなかったと言われるが、かれの描き出したアメリカに生きるユダヤ系移民としてのアイデンティティは非常に強く打ち出されていると思う。そんなマラマッドの作品を下敷きにしたのが、筒井康隆だ。「筒井といえば」というほど私は筒井フリークではないし、ほとんど読んだことはないが、なかなかに問題多き人であるのは記憶している。ふたりを比較する際に読んだのは、マラマッド「ユダヤ鳥」と筒井「ジャップ鳥」だ。作品の内容はインターネットに転がっているのでここには詳しく記さないが、タイトル通りの名前をもつ鳥が出てきてかれらは元いたところとは異なる場所に降り立つ。自分の専門とも少なからず共鳴するような部分もあって書きながら大変勉強になった。なのでここにも残しておきたい。参考文献も下に記したので、よければご参照ください。

(*昔の作品に今日的にはあまりよろしくない表現が使われているのはよくあることだがこの2作で使われているのは大変ヘビーな言葉なので、それを了承の上この先のだめだめレポートを読んでいただきたい。)

それでは。

On Bernard Malamud and Tsutsui Yasutaka: Being as Others in a Place
(ある所で異者になる--バーナード・マラマッドと筒井康隆を例に)


 本稿では20世紀アメリカにおいてユダヤ人作家として活躍したバーナード・マラマッドの短編「ユダヤ鳥」(1963)と、現在も積極的に執筆活動を続けマラマッドの作品の翻案とも言える筒井康隆のもうひとつの短編「ジャップ鳥」(1974)を比較し、人々が特定の場で異者、つまりその場所から遠く離れた場所から来た人としての、文化的な困難さや祖国との違和感などを検討する。また、筆者の専門領域である在日コリアン文学にも言及し、永遠に異者でありながらもその国に生きることがかれらのようなディアスポラの人々にとってどのような経験、どのような希望となり得るのかも検討したい。
 マラマッド「ユダヤ鳥」は、そのタイトルと同じ名前を自称する鳥がイーストリバーのユダヤ系家庭に飛んでくるところからそのストーリーが始まる。安藤あや子は、19世紀末から始まる合衆国へのユダヤ系一世移民の流入はそのほとんどが東欧・旧ソ連からの移民だったと述べ、彼らの多くがアメリカ・ニューヨークのロウワー・イーストサイドに居を構え、およそその占有率は75%だったと述べている。(安藤 2000, 65) ユダヤ系家庭に「ユダヤ」という名を冠した鳥が来るとなると、おそらく鳥は歓迎されるのだろうと考える。紀元前586年に新バビロニア王国国王ネブカドネザル2世によってかれらの地を追い出され、その後何世紀も放浪を重ねてやっと再会できた同胞とも言えるコーエンの家族と鳥だが、決してその再会は友好的なものではなかった。  
妻イーディスと息子モーリーは鳥に対して穏健な態度で接する一方、家長であるコーエンは隙あらば鳥を追い出そうと必死である。なぜ同じ祖国を追い出され何千年ぶりに再会した同胞をここまで追い立てるのだろうか。歴史家の馬場美奈子曰く、ユダヤ系移民といっても宗教的な個人と世俗的な個人とではそのアイデンティティが「必ずしも一致するわけではなく」「その隔たりも大きい」という。(馬場 2001, 2) 本作のなかで、「ユダヤ鳥」は自らをold radical、柴田元幸の訳では「古参の革新派」(Malamud 1997, 323; マラマッド 2009, 47)と、プロテスタント系源流の牧師的な立場で祈りを捧げるシーンがあるが、それに対してコーエンは全く相手にすることなく揶揄うような態度を見せる。もちろん鳥はロシアで起こったホロコーストである「ポグロム」、それを引き起こす「ユダヤ迫害者」から逃げてきた新移民として考えることはできるが、それよりも前からアメリカに居住しているコーエンにとって、鳥は今さらユダヤ教を信仰させにきた「とびっきりの厄介者」としか映らないのだ。コーエンがこの後にどこに行くのかと尋ねると、鳥は「慈悲の心のあるところ、どこへでも行くんです」とユダヤ教の博愛精神を彷彿とさせることを口にする。この「慈悲」という言葉は、マラマッドの1971年の作品『テナント』でユダヤ人作家のレサーと黒人作家のウィリーがお互いを殺めた後、「白人」のユダヤ人であるレヴェンシュピールによってじつに100回以上唱えられる。視覚的にも非常に強いインパクトを読者に残し、ユダヤ教という一大宗教の支配力を物語っている。
 さらにレヴェンシュピールがユダヤ人のなかで「白人」だったように、ユダヤ人のなかにも人種対立は存在し「ユダヤ鳥」でもその片鱗は現れている。鳥はみずからを「シュヴァルツ」と呼ぶが、これはドイツ語で「黒」を意味する。フィリップ・ロス『グッバイ・コロンブス』には、自身の麦わら帽子について、バルバドスの波止場で「いちばんかわいい黒人の子供(ルビ:シュヴァルツェ)から」買ったと話すこれまた白人のユダヤ人女性が登場する。(ロス 2021, 21) バルバドスは旧イングランド王領植民地であり、そこでのサトウキビプランテーションにはアフリカからの黒人奴隷が労働力として従事した。その名残のある土地で「シュヴァルツ」の子供から買ったというのは、現在では人種差別的発言として取られるだろう。アメリカ人社会に溶け込んだ白人のコーエンにとって「ユダヤ鳥」のシュヴァルツは、怠惰で人に助けを求めるばかりの「黒人」の立場を押し付けられていたのではないだろうか。マジョリティからマイノリティに対する人種のステレオタイプを、マラマッドが人間と動物との対立軸にうまく重ね合わせていたことがここから分かる。
 さて、話を筒井康隆「ジャップ鳥」に移そう。東欧・ソ連への取材旅行の道程で、完全に「遊び」として訪れたイタリアで主人公は現地で日本語を学ぶイタリア人女性ジーナと出会う。本作が所収されている『ウィークエンド・シャッフル』巻末の著者自身による年表を見ると、筒井が実際に日本対外文化協会の派遣で1972年にソ連やポーランドといった東ヨーロッパ諸国を旅し、その後西ヨーロッパ4ヵ国に立ち寄ったことがわかる。作品の発表がその2年後だったことを踏まえると、おそらくこの時の経験が作品の源泉とみて差し支えない。また、本作最後の部分で主人公が日本に帰国した際、顔馴染みの新聞記者にイタリアでの出来事を話すと、記者はその女性はマラマッドの「ユダヤ鳥」を読んでそんな嘘をついたのではないかと推測するし、柴田元幸が翻訳に関してのフォーラムに参加した時の講演原稿には、筒井がマラマッドに触発されて本作を書いたとしているので、やはり前者が後者に影響を与えたことは間違いないのだろう。(筒井 1978, 82; 柴田 2012, 185)
 ジーナから「黄色くて、眼鏡をかけている」ジャップ鳥の大量繁殖について教えてもらい、主人公はその正体が気になり、セックスが途中でできなくなるほど彼女に質問攻めをしてしまう。アメリカや南ヨーロッパの観光都市において、その土地特有の鳥とも交尾することで大量発生するジャップ鳥は大日本帝国期のレイプ犯罪を思い起こさせる。しかし、この生命体が公的な機関ではなく市民によって殺害されることは注目すべき点かもしれない。日本国内でもジャップ鳥が散見されると、同じように市民が殺してしまうことにその連続性がうかがえる。しかしながら、日本人がジャップ鳥を殺す行為は、外敵侵入者からの自己防衛という意味合いよりも、西洋諸国でのジャップ鳥に関するメディア報道を受けてのそれである。つまり、西洋から見た日本のイメージとして理解されたくないがための内輪向きな自己防衛と言えるだろう。すでに確認したように、同胞であるにもかかわらず自分たちの生活を脅かすのであれば駆逐するといったいったこの傾向は「ユダヤ鳥」にも見られた。
 「ユダヤ鳥」冒頭同様、窓を開けていると「遠慮なしにとびこんでくる」「厚かましい」ジャップ鳥は、なぜ厚かましいのか。ジーナによると群れをなし徒党を組むことで厚かましくなり、その厚かましさに気づかないという。主人公はその集団から自分自身との距離をとっているようだが、ほかのジャップ鳥は集団になってこそその厚かましさを発揮する。「ユダヤ鳥」は孤軍奮闘、たったひとりでコーエンとの対決をすることになるしこれに対して不満があるわけではないが、対してジャップ鳥には個人の名前をもつ鳥はいない。また徒党を組むというのは、当時の冷戦体制下で、日本の学生運動が特定の政治イデオロギーによって左右され個人の思想が全く効力をもたなかったことを彷彿とさせる。学生一人ひとりの主体性が前面に出されず、一部の指導者的人物の言うことにすべてを捧げるような体制が数年前の日本には実際にあった。筒井はそのことをジャップ鳥に例えたのだろうか。これは個人的な自由主義を唱える西洋社会では浸透しなかったのだろう。ましてや、戦時中ムッソリーニというファシスト指導者の全体主義的な思想を反省したイタリアである。
 以上マラマッドと筒井の作品との相違点を検討してきた。ここで本稿冒頭で示した、人が特定の場で異者、つまりその場所から遠く離れた場所から来た人としての、文化的な困難さや祖国との違和感に対する一旦の結論を付したい。マラマッドや筒井の鳥たちは、アメリカとイタリアという主流西洋社会において、人種的なだけでなく、より思想的なところでも異者となった。では、祖国に帰ったら事が済むかと問うとそうではない。イスラエルでは原理的な思想をもつ人々によって一度移民したユダヤ系市民は再度そこに溶け込むことは難しい。アメリカの実質支配が起こっているとはいえ、中心にいるのは正統なユダヤ教徒である。アメリカ国内のユダヤ教には宗派が多く、どのセクトに属しているかが生活を左右するのはアメリカでもイスラエルでも大きな変わりはないのかもしれない。日本の場合を語るにあたって、ここで筆者の専門領域である在日コリアンの文学に話を展開したい。
 そもそも「在日文学」という文学史上のジャンル名をどのように定義するかということがすでにひとつの政治性をはらむ。そこで、ここでは「1952年のサンフランシスコ平和条約によって日本国籍を剥奪された人々、およびその子孫」により日本語で書かれた文学作品群、とするSonia Ryangの定義に従う。(Ryang 2005)しかしながら、そうした作品は戦争の只中にも存在した。1910年からの大日本帝国の植民地支配によって政治や外交面だけでなく、文化・生活の面でも困難の多かった朝鮮半島では、戦間期には李光洙(り・こうじゅ/イ・グァンス)や張赫宙(ちょう・かくちゅう/チャン・ヒョクチュ)といった、いわゆる二重言語作家の活躍も目立った。彼らが朝鮮語で書く際には、大日本帝国という近代的国家から多くを学びそれを朝鮮人の国に役立てようとする民族的な意味合いが強かったのに対し、日本語で書く際にはそれを達成するためには日本の力を借りる他ないという、今現在韓国内だけで特異な意味を持つ「親日」的な姿勢であった。実際、日本語で書いたこと、またそれが朝鮮語であっても、日本との協力関係にあったというのが理由で、かれらに関する研究は80年代後期の民主化運動の際までタブーとされていた。また、2009年には李光洙は「親日反民族特別法」によって民族の背信者として名を挙げられてしまっている。
 戦後直後から、金達寿(キム・タルス)や金石範、李恢成といった1世2世の在日当事者たちの作品には、自身の植民地体験の過酷さ、それを子どもの目線から見た親との心理的な距離感といった人物たちが描かれる。そのほとんどが民族的、儒教に基づいた家父長的な主題を前面に押し出す作品群は、当初女性の登場人物は暴力をふるう男性/父親の被害者という描かれ方をすることが多かった。しかし、かれらの作品を日本に紹介した批評家たちもまたほとんどが男性だったという事実もあり、これを問題化するような言説は長らく現れなかった。そのような文壇的状況のなか、1995年に元日本軍「慰安婦」の被害者が声を上げたことで、従来の在日文学にも一旦は「女性」という視点が現れた。その嚆矢が李良枝とされ、1997年には「由煕」で、在日作家2人目の芥川賞を受賞した。現在では3世以降の作家たちが小説だけでなくエッセイなどを書き、自主的活動のなかで在日文芸誌『地に舟をこげ』(2006-'12)を出版しており、韓国人作家の作品が日本語訳された、いわゆるK文学の潮流とは一線を画した文芸活動を展開している。
 以上、在日文学というジャンルそのものとその研究動向について述べてきたが、「在日」という属性をもつ人々はしばしば日本と韓国(加えて北朝鮮)とのあいだの存在とされる。日本人からは「朝鮮人」、韓国人からは「半チョッパリ」と呼ばれ、どちらの国にも落ち着くことのない困難が歴史的にその身体に刻み込まれている。
 マラマッド、筒井、在日文学に見られる、双方の文化圏にも歓迎されることなくつねにマージナルな存在としての人物たちは、特定の国、特定の思想に縛られることなく、自分たち個人の特異性を多様性のひとつとして誇示する可能性を秘めていると考える。

参考文献
安藤, あや子. (2002).「ユダヤ移民のロウア・イーストサイド. -アンジア・イージアスカとローズ・コーヘン」. 『ことばと文化』, 3, 65-82.
柴田, 元幸. (2012). 「『仰ぎ見る』翻訳・『対等』な翻訳--外国小説の日本語訳、日本小説の外国語訳」.『れにくさ』, 3, 179-187.
筒井, 康隆. (1978). 「ジャップ鳥」.『ウィークエンド・シャッフル』. KADOKAWA.
馬場, 美奈子. (2001). 「ユダヤ系アメリカ文学に描かれたアイデンティティの諸相--ディアスポラ・ホロコースト・イスラエル」.『アメリカ研究』, 35, 1-19.
ロス, フィリップ. (2021). 『グッバイ、コロンブス』. 朝日出版社.
マラマッド, バーナード, 柴田元幸訳. (2009). 「ユダヤ鳥」. 『喋る馬』. スイッチパブリッシング.
マラマッド, バーナード. (2021)『テナント』. みすず書房.
Malamud, B. (1997). "The Jewbird." The Complete Stories. Farrar, Straus and Giroux.
Ryang, S. (2000). “Introduction: Resident Koreans in Japan.” Koreans in Japan: Critical Voices from the Margin, ed. by Sonia Ryang. Routledge, 1-12.

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