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#小説
指先に触れるもの 22
言い切り、幸恵はそっと泰之の涙で濡れる頬に触れる。不意のように溢れ出した涙は際限なく頬を伝って泰之の膝を濡らした。僅かに首を傾げ、幸恵が笑みを深くする。
「泣かないでください。私は孝造さんにあの人の最期を教えていただいて、助けられました。そして貴方にもここまで連れてきていただいた。………本当は、生きている間に来たかった。でも、意気地がなくてどうしても一人で来る事ができなかったんです。駄目な妻です
指先に触れるもの 21
孝造と勝司のいた部隊は爆撃がはじまったその翌日、壊滅的な被害を受け、殆どの兵が無残な死を迎えた。その亡骸を踏み越え、二人は狭いサイパンの地を逃げ惑ったという。
かつては日本の勝ち戦を信じ、戦争が終われば家族の元へ意気揚々と帰ることだけを支えに戦ってきた彼らにとって、その現実はあまりにも残酷だった。
勝司は口癖のように言っていたのだという。この戦争に勝ち国へ帰ったならば、幾人でも子が欲しいと。
指先に触れるもの 20
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「ここは………主人の最期の場所なんです。そう、あれは大東亜戦争の末期、どこもかしこも狂っていた時代のことです」
悼みの滲む声音で語りだした彼女の言葉に、泰之は目を見開いた。反射的に彼女の顔を振り返る。その視線を真正面から受け止め、幸恵は彼の目に浮かぶ困惑と問いを視線で促した。
「あの……大東亜戦争、って………太平洋戦争のこと、ですよね? 主人って………。だって、堀本さん………?
指先に触れるもの 19
凄惨な過去と今の穏やかな南国の空気、それらを抱くのはいつの時代も変らない海と空の存在だ。様々な感情が彼の中で渦を巻き、胸を締め付ける。突き詰めればたった一つの言葉に繋がるのだろう感情は、しかし今は言葉が散乱し過ぎてしまい拾い上げることができなかった。溜め息が唇を突く。
ゆっくりと体の向きを変え、泰之は幸恵の姿を探した。彼女は先程と同じ場所に、胸を押さえて蹲っている。伏せた顔は髪に隠れてよく見え
指先に触れるもの 18
彼女は一つ一つの残された過去の間を泳ぐように歩き、時折、涙を堪えるように眉根を寄せた。岩肌を穿つ弾痕にそっと触れ、その深さを確かめるように指を這わせる。その姿が泰之の中で強い印象を残した。
この場では、どれだけの命が散ったのか。彼らはどんな感情を残して逝ったのか。
彼の中でそっと浮上する思いに答える声はない。当時の記録を当たったところで、そこには数字と淡々と出来事だけが列記されているばかり。
指先に触れるもの 17
「勿論です。私の準備は出来ていますから、北里さんの都合で出発してください」
柔らかく告げられた言葉に頷き返し、泰之はそれならば、と彼女を促す。
「じゃあ、すぐ出発しましょう。時間もったいないし」
幸恵が頷き返すのを確認し、泰之は真っ直ぐにフロントへ鍵を預けに向かった。すぐ後ろに幸恵のついてくる気配がある。
そのことに安堵を覚えながら、彼は昨日レンタカーを借りた店の近くにファーストフード店があ
指先に触れるもの 16
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泰之が慌しく身支度を整えていた頃。幸恵はロビーに置かれたソファに座り、どこかぼんやりとした視線を外へと投げていた。
その目にあるのは、どこか張り詰めたような色と不安。今にも涙が目に浮かび、その白い頬を零れ落ちるのではないか、と思わせる悼みの気配が彼女を包んでいた。
(やはり、不躾だったのでしょうね………)
昨夜、第二次大戦の史跡へ行きたいと告げた後に泰之が見せた表情が、彼女
指先に触れるもの 15
そんな彼の内心を読んだかのように、兵士はやさしい手付きで彼の頭を撫でた。そこには確かに慣れ親しんだ祖父の温もりが感じられる。知らず頬を涙が伝うが、喉の奥に言葉が張り付いてしまったように言葉が出なかった。
「泣くな。いい歳してそんな風に泣くんじゃない。お前だから頼むんだ。わかるな? 頑張れ。怖い思いをさせてすまなかった」
そっと彼の頭を撫でていた手を離すと、男はすぐに踵を返した。真っ直ぐに列の手
指先に触れるもの 14
それは泰之の生きる現代においても変わらない法則なのだろうが、それでも今は情報を得ようとすればインターネットを通じていくらでも得ることができるのだ。今、彼の目の前にある過去のように、完全に国外からの情報を遮断することはそう簡単ではないだろう。
ぼんやりとそんなことを意識の端で考え、泰之は目の前の光景から目を背けた。直視するにはあまりにも辛い光景のように感じられ、泰之は小さく頭を振る。
(この人達
指先に触れるもの 13
彼の指に付着したそれは、血。慌てて周囲に視線を走らせた彼が見たものは、半ば原形を失くした人の残骸だった。
途端、風に浚われるように濃霧が晴れ視界が開けていく。それは呼吸いくつ分、という程度の随分と短い間の出来事だった。
晴れた彼の視界に広がったもの。それは幾度となく夢に見、魘され続けた戦場の光景そのものだった。
同時に音が、臭いが彼を圧迫する。肌に触れる土煙の空気が痛いくらいに肌を刺し、腹
指先に触れるもの 12
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部屋に戻った幸恵は、真っ直ぐに窓へと歩み寄りテラスへ出た。視界を埋めるのは眠りに就いたプールと広場、その奥に見える濃紺の海と白い光を冴え冴えと降らせる月だけ。両隣の部屋は沈黙があるばかりだ。
「………明日、貴方に会いに行きますね。勝司さん……」
囁く声音で虚空に向けて言葉を紡ぐ。痛みと深い後悔が彼女の目を染めていた。布張りのカウチに歩み寄り、そっと腰を落とす。夜の景色に投げられ
指先に触れるもの 11
「そうしたら明日は準備済んだらロビーにいてください。俺もなるべく早く行くんで」
エレベーターが動き出す感覚を壁に凭れて確認しながら、泰之が幸恵に告げる。その言葉に頷き返し、彼女はほんの僅か笑みを深くした。
「わかりました。明日は、お願いいたします」
彼女の言葉にはっきりと頷き、泰之は自分が降りる階が近付いたことを確認する。程なく止まったエレベーターが口を開け、彼は幸恵を振り返りもう一度笑みを作
指先に触れるもの 10
やはりどこか彼女からは特別な印象を受ける。それがなにに起因する感覚であるのかはわからないが、目を離してはいけない、そんな思いが泰之の中で一つの形になった。
「どうしても行きたい場所って? 良かったら俺、付き合いますよ。レンタカー借りてるんで、明日と明後日の昼ぐらいまでなら時間あるし」
その形を確かめるように、探るような言葉を投げれば幸恵は驚いた顔で真っ直ぐに彼の目を見詰め返す。時の流れが緩やか
指先に触れるもの 9
遠慮がちに言葉を投げれば、女は軽く目を見開き泰之に視線を戻す。その目に拒絶の色はなかった。すぐ、元のように笑みを浮かべ女が口を開く。
「ええ。そう言えば私、名乗っていませんでしたね。堀本幸恵と申します」
「堀本、幸恵さん………」
女、幸恵の名前を口中で確認するように呟き、泰之はお世辞でない笑みを返した。
「やさしい名前ですね、貴女にぴったりです。北里泰之です。好きに呼んで下さい」
幸恵がはに