泣く女について : essay
「泣く女」と言えば、私が思い出すのはピカソの絵だ。はちゃめちゃな様に一見見えるけど、外見の特徴がしっかり捉えられて、その気の強さや激しい性格までも描かれていて感嘆のため息しかない。
ピカソ 天才!
adoさんが、マツコのテレビに出演?した時、
♪私は泣いたことがない♪
と言うフレーズを歌った時、そのフレーズが嘘だ。だって、泣いたことあるから…と、悩んだと話していた。
はて?
人はどんな時に泣くのだろう?
私は泣いたことがない。
と、言っても、自分に何かしら起きて、悲しくなったり、辛くなったりして泣いたことがないと言うことだ。
人は、悲しかったり、辛かったりしたら泣くものなのだろうか?
ある意味、悲しかったり、辛かったりして泣けるなんて幸せだなぁと思う。
ピカソの「泣く女」の様に、ピカソに沢山の女の人がいることに、あんなにヒステリックに泣けるなんて、羨ましいとさえ思ってしまう。
もし、素直に感情を爆発させたとしても、理路整然と申し立てするとして、泣いたりはしないな。
例えば、
「私一人を愛してくれないなんて、イヤ!」
くらいのものだろう。
それは別に醜態を晒したくないからではなくて、泣きたい気持ちにならないのだ。
泣きたくないのに泣くなんて嘘泣きだ。
他の人のことは分からないけど、私の場合は、安心して泣ける状況でなければ泣けないのだと思う。
どんなハプニングでも、泣いてる場合じゃない、この状況を最善に乗り切らなくちゃ…と、ベクトルが乗り切る方に向いている。
だから、自分で乗り切らなくてもいい状況なら、大いに泣けるのだと思う。
私が全く泣いたことがないかと言えば、そんな訳はなく、名古屋から東京までの新幹線の中で人目も憚らず、ずっと泣いていたことさえある。
なんで泣いていたかと言うと、
米原万里さんの「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」を読んでいたからだ。
涙を拭いて仕切り直しして読み始めるのだが、読んでいるとまた泣けてくる…を繰り返し、読み終わり東京駅に着くまでずっと泣いていた。
他人の話なら、いくらでも泣けるし、泣いていて他人がどう思うかも殆ど気にしていない。
泣いている途中、知らないおじさんがじっと見ていたが、憐れむわけでも、軽蔑するわけでもない様子で、私もおじさんと目が合ってもなんの感情も湧かなかった。
「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」がそれ程泣ける話かと言えば、人によると思う。
私は自分の世界観の狭さをこの本を読んで初めて知った。この世界には、価値観の違う色んな世界があるのだ。それでもみんな適応して生きている。それが大人であろうと子供であろうと…。
♪私は泣いたことがない♪
このフレーズについて、
「沢山泣いた人でなかったら、このフレーズは上手く歌えない。」
と、マツコが言っていた。
でもなんとなく、いい事言ったでしょ的雰囲気が漂っていた。誰だって辛くて泣く事なんかあるわよ。泣いたからってどうなのさって、本音は思ってるんじゃないかな。
泣くってカタルシス効果絶大だもの。
他人が鬱積した情緒を解放し快感を得ているのって本当にどうでもいいと言えなくもない。
とても覚めた目線で見ると、泣くと言う行為はぞっとするものがありそうだ。
カタルシス解放もさることながら、例えば他人をコントロールしたくて泣くなんてこともある。
そう思うとよりぞっとしてしまう。
ところがどうだろう。
自分のためでなく、他人のために流す涙は何故か美しく見えてしまう。
例えそれがカタルシス効果だと思ってもだ。
本来、泣くと言う行為は自分のためにするものではないのかもしれない。
広瀬アリスが、
「とても大切な人なんです。あの人を助けて下さい。」
と、ドラマで、大きな目から一筋スーッと流した涙は、ハッとするほど美しかった。