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noteを書く理由だろうか


ベットから飛び起きて窓を開けると、明らかに昨日までとは違う冷たい風が入り込んできた。
外は小雨がポツポツ降っているのに、木々の小鳥は忙しなくピーピー ピッ…と、鳴いては飛んで飛んでは鳴いている。
小鳥が楽しそうだと雨の憂鬱さが消えて行く。
…と、言っても、今日の小雨が心地よい。
雨は雨だ。晴れの日とは違う音が溢れるだけ…。
小雨と小鳥が森の生活を連れてくる。本当は向かいの窓がすぐ近くにこちらを見ているのに。
黄緑色の木々のが現れて、小雨の音と木の葉から落ちる雨の音。どちらもポツポツなのに違うポツポツだ。
土の香り…違う。
珈琲。
「珈琲が飲みたい。」
緑の木々は次第に薄れお湯を沸かす。
メタルドリップの珈琲サーバーに引いた珈琲を入れる。
最後の一杯分だから、もう香りが弱い。

これは朝起きてから数分の感覚だ。
感覚で、言葉では勿論なかった。
感覚を言葉に書き起こしてみた。
感覚全てを書き起こすには、数分の事なのにもっと沢山の文字数がいる。
感覚全てを正確に書き起こすのは無理だ。
言葉にした裏に、また逆の感覚があったりして、感覚は立体。
色彩や音、空間に、温度、匂い、体の動き具合、視界の悪さ、頭の中と、皮膚と外の世界…それらを同時進行で感じ、感じた感覚に感情が混じる。

言葉は平面なのだ。

多面体を断片で語っても、真実を語り切る事は出来ないし、真実を語った物語の様なものだろう。
しかも、言葉にした途端、ニュルッと真実は逃げて行く。
だから、私が綴る事は真実ではなくて物語。

私は感じた感覚は好きだけれど、そこに感情を添加するのは好きじゃない。確かに感情が湧き上がることもあるのだけれど、感情はあらぬ方向に事を進めてしまう。それでも感情が湧き上がる時は、その感情を手に乗せて、そっと眺め続ける。そうすると感情はスヤスヤと眠る赤ん坊の様になる。感情は赤ん坊の様なものなのかも知れない。泣き出したらそっとなだめて、欲しいものを与えて、優しく撫でる。そしたら静かに眠りについて行く。
赤ん坊を眠らせた後はまた、感覚の世界に戻って行く。

きっと誰でも知っているだろうけど、
自分の感覚でしか世界を見る事は出来ない。
誰かの見ている世界は、決して同じものはない。
自分の感覚を信じる、信じない…って、ことも聞くけれど、自分の感覚でしか生きられないんだから、信じるしかないわけだ。

誰も見ることのない私の世界を書くことが、描くことが、
私のライフワークだ。
誰かの何かに似ることもあるだろうけど、
あえて誰かの模写をしたいとは思わない。
感じた何かを、綴るだけ…。
日記なわけではないし、感覚の記録。
次々に現れる感覚を面白いな…と、感じている。
それを、ヒッソリ星屑の様に残したい。

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