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グリコのオマケじゃなくて グリコね

ずーーーーっと、昔から、
私は死なない気がしていた。

1999年、恐怖の大王が来ようと、
アルマゲドンが起きようと、

「私は死なない。」

…と、感じていた。

だから、一人生き残っても、
生きられる様に準備して生きていた。

まず、
きっと寒冷化する筈だから、土手に穴を掘って、
家を作る。
恐らく食べ物も無くなる筈だから、
私の苦手な虫も食べられるようにならなくては…。

…と、あらゆる想定をして生きてきた。

…が、虫を食べるのは勘弁して!!
野菜に虫が付いていると、その野菜ごと捨てたくなった。
でも、自分で無農薬野菜を作るようになったら、
虫は食べられないけれど、
虫が付いていた野菜は食べられるようになった。

ところがだ。

そんなことも起こらず、
半世紀、生きてしまった。
よく人生の先輩たちは、
「あっという間だった。」
と言うけれど、
私にはとてつもない濃厚な時間が過ぎた気がする。
「80年生きても、そんなに生きた気がしない。」
と言う人がいて、
その感覚も分かるのだけれど、
ちゃんと振り返ると、膨大な抜け殻に驚いてしまう。
私はシッカリと、生きていたのだ。

しかし!!

まだ半世紀。
残りの半世紀があるんだから、
膨大な抜け殻にビックリしてはいられない。
…そう。
私は100歳過ぎても、生きている。

半世紀生きて、ようやく、
自分は自由に生きているんだと気付いた。

仕事の時間に縛られてはいるけど、
きっと私には、適当に合っている気がする。
…今のところ、だけど。
今の仕事も、
いつまで続けるかは分からない。
もしかしたら、明日、何かを見つけて、
辞めてしまうかも知れないし。

欲しいものを買って、
好きな服を着て、
好きな場所に行き、
なんと、料理は、自分が作ったご飯が一番好きだ。
つまりは、いつも美味しいと感じる物を食べている。
部屋には
自分の描いた絵と大好きな友人が描いた絵が飾ってあって、
寛ぐ事も、集中する事もできる。
勿論、暑さ寒さもしのげる。
出勤時間以外は、ルーティンで急かされるものは何もない。

そもそも、
私にはルーティンがほとんど無い。
誘われれば何でもやってみるし…。
誘われなくてもやってみたくなる。
やってみると、何でも面白いと思う。
本当に、その時の気分と、巡り合わせなのだ。
行き当たりばったり、
それが私の常といえば常だ。
3年ごとに、仕事や住む場所を変え、
リセット(?)しながら生きてるようなものだ。
だってさ、面白そうなら、そっちに行きたくなるもの。

ただ、やってみたい事が沢山になり過ぎると、
仕事に行くのがホントに嫌になる。
そこは困り物だ。
やりたい事に集中し過ぎると、
次の日仕事でも、寝るのを忘れてしまい、
結果、寝る時間さえバラバラ。
それでも、仕事に支障を来たす事はないのだけど、
何処かで電池が切れて、寝溜めして充電が必要になる。

自由に生きている分、
お金はないんだけど、
それでも、お金がないから出来ない…とかは、
一度もない。
そのせいか、私はお金に恵まれている…と、思っている。

それを、自由と言わずして、何と言うのだろう?

恐怖の大王も、アルマゲドンもなかったわけで、
しかも、結構自由に生きて、
本当は楽園に暮らしていたのかも知れない。
半世紀生きて、ようやく今気が付いた。
…チョット、ヤバい。

それでも、
出来れば、極限まで自由でいたい。

知り合いに、
「人生後半は下り坂。くだる方が難しい。」
と、言われたんだけど、
その意味は分かるのだが、
それを自分に当てはめて想定するのは難しい。

その知り合いは、
すんなり下り坂を受け入れている。
会社を成功させ老後資金も十分だから、
リタイア方向へ進んでいるのか?…と、思える。

私は、全然、その感じに乗れない。

多分、知り合いは高い、高い階段をずっと登っていたのだろう。
だから、「もうこれ以上は登れない。」と感じ、
降る事を考えたのかも知れない。

私と言えば、
登った階段は3段くらいかな?
登ろうが降ろうが、大差ない。
飛び降りても怪我しないと思う。
良いのか? 悪いのか?
生き方は人それぞれだから、どれでも良し。

3段くらいしか登ってないくせに、
辛いと思う事は沢山あって、
それでも、その感情を手のひらに乗せ、
辛いってこんな様相なのかと、
シゲシゲと眺めると、
あ〜、生きたな〜って、思える。
3段でも、十分、色んな事が味わえるって事だ。

3段は  グリコ
6段は  パイナツプルとチヨコレート

6段くらいは登ってみたいかな。

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