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最後の晩餐を 貴方は誰と食べたいですか?

昔、
村上龍の本で、
「老人が一人で食事を出来るのは、
思い出を反芻しているからだ。」
と言うのを読んで、
少しだけ、ほんの少しだけ分かる気がした。

でも、どこか違和感で、
年を経て、その違和感の正体が見え始めている。


私が生まれた時には、どの家庭にもテレビがあった。
カラーテレビと言っても、モノクロにうっすら色が付いた感じで、
今のカラフルさとは大分違うけれど。
テレビでは、
お父さんは会社に働きに行き、お母さんは専業主婦。
子供達は、
友だち100人出来るかな〜♪       みたいに元気に学校に通う。
親は子供にありったけの愛情を注ぎ、子供は何不自由なく親の愛を受けて育ち、
育った子供達は、老いた親をいたわって親孝行をする。
結婚適齢期には、愛する人と結婚し、また、子供を産み育て、
子孫繁栄を担う。
…そんな世界が当たり前の様に流れ、当たり前だった。

だから、いつの間にか、
そんな世界を、誰もが当たり前の様に過ごしていた。
そこから外れれば、どこか足りない人間の様に思われる。
肌でそれを求める圧力を感じる。
外れてはいけない… そんな、プレッシャーみたいな物を感じていた。
肌で感じていただけではなくて、
実際、
「良い学校に行かなくては。」
「友達がいなくては。」
「恋人がいなくては。」
「結婚しなくては。」
「親孝行しなくては。」
「会社に行ってお金を稼がなくては。」
色んな、当たり前を親だけでなく、周囲からも押し付けられていた。

色んな当たり前。

長年生きてみると、どれ一つ当たり前ではないと知る。

親だって、色んな親がいるし、
そうでもない人と友達にも恋人になる必要はない。
会社で働くのは、会社にもよるし、その人の特性にもよる。
結婚の形だって、LGBTに関わらず、色んな形があっていい。
親孝行だって、離れるべき親だっている。

私は、
最後の晩餐を誰とも、共にする予定はない。

…予定はないと言うのは、未来は分からないからだ。
…たまたま、誰かと最後の晩餐をする事になるかもしれない。

思い出を反芻する気もない。

思い出を反芻する…と言うことは、
忘れられない美しい思い出があると言うことだろう。
別に、反芻すべき美しい思い出はないからだ。
違和感の意味はそう言う事だった。

誰もが、反芻すべき美しい思い出を持つ必要はないのだ。

美しい思い出があって当たり前…ではない。

傍にある、柔らかい温もりがあるのが当たり前だと思っていた。
それがない私は、寂しい人間で、足りない人間だと思っていた。
でも、違う。
当たり前なんてない。
人には、与えられるモノと、与えられないモノがある。
与えられないモノをずっと乞うて生きるって、どうだろう?
一つ欠けたピースがあっても、他のピースはちゃんとある。
本当は、誰にもピースは完全ではない。
どこか欠けている。

反芻すべき美しい思い出がなくても、
目の前には、雲が流れ、太陽は輝いている。
今日も鳥が鳴き、緑が少しづつ成長する。
広い世界が広がっていて、
「それでいいじゃない?」
って、思う。


最後の晩餐を一緒に食べたい人はいないけれど、
メニューは決めていて、
3分搗き米と大豆ご飯
豆乳のシチュー
ズッキーニとトマトと大根の糠漬け
厚焼き卵
野菜炒め
胡麻豆腐
…いつものメニュー。
もちろん、予定変更はありで、
ブロッコリーのバーニャカウダーが食べたくなるかもしれない。
サラダビーツが手に入れば、
ビーツのジュウネンドレッシングのサラダになるかも知れない。

人生って、何が起こるか分からない。
bad news.もgood newsも。
出来ればどちらも楽しみたい。
それが、最後の晩餐に続いている訳だし…。

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