退屈が怖い理由 : essay
退屈。
退屈。
退屈。
本当は退屈が大好きだ。
一番よく覚えている退屈は幼児の時の記憶だ。
早く目が覚めた朝、起き出すと、
「早いから寝てなさい!」
と、叱られるから、じっと布団の中でまた光を見つめていた。
動けない事が本当に退屈と思ったけれど、窓から光線の様に差し込む光を見つめていた。
部屋の埃がキラキラしていて、じっと見ていると埃よりもっと細かな何か。光自体でもあり、今ならニュートリノとかそんな本当は見ることのない物質の様な。それは天の川を小さく小さく凝縮した宇宙にしか思えなかった。
瞼を閉じても光はキラキラと見えていて勝手に上から下に移動した。無理やり眼球を上に向けると光も上に戻っていった。
光を自分がコントロール出来るのだ。意識しないと落ちて行く。
起きる時間を過ぎても私の宇宙を見ていたかったけど、太陽の光はどんどん動いていってカーテン越しに部屋全体を明るくし、起床時間はすぐにやって来た。光を見ていた私は、この世界に溶けていた気がする。そして仕方なくその世界を這い出る。
結局は、退屈なはずが、退屈ではなくなっていたのだけれど。
今でも、退屈にはそんな魔法が隠れている気がする。
だけど、本当の退屈は、永遠の虚無に取り込まれる様で怖くなる。
私が退屈が怖い理由は、永遠の虚無を感じるからだ。
でも、その虚無から抜け出すのは簡単で、何かを観察する事、想像する事、自然の中に溶け込む事であっという間に去って行く。
私個人の退屈は、あっという間に去って行く。
もう一つの退屈は、他者の存在する退屈がある。
「いつもボーとしている」
「暇なのに何もしない」
「時間を無駄にする」
そんな他人の言葉が、私を追い立てて、退屈を許さない。
私自身が退屈な訳でなく、退屈そうに見える私を非難される事が怖かった。
結局は、退屈が怖い訳でなく、他者の視線が怖かっただけ。
そうするうちに、他者の前で寛ぐ事が出来なくて、私は何かをしている様なフリをする様になっていた。
それが癖になり、他者の前では常に何かしていないと、何か考えていないと、落ち着かなくなっていた。
そうするととても不思議で、常に見えない他者が存在してしまい私をチェックしている。三つ子の魂百までもと言うが、きっとこうして出来上がってしまうのだろう。
だから、他者の前でも、ぼんやり寛げる人がとても羨ましかった。
でも今は、私をチェックする他者は存在しないと気付いたから、思い切りぼんやりと他者から見れば退屈を楽しんでいる。
他者から見て私が退屈そうにしていても、別に私は退屈とは感じていない。
感じたものを感じたままで、一切を言葉に訳さず、じっと見つめているのが好きなのだ。
最近は、言葉がとても邪魔だと思う。
ある目の前に現れたものを言葉にしてしまうと、目の前のものは消えてしまう気がするし、消えなくても何か違う形に変化させてしまう気がする。そしてそれを誰かに話してしまうと、それは確実に薄くなるし、消えてしまうこともある。話した相手が理解したと感じる事も殆どないのに、薄くなったり消えてしまうのは、悲しい。
だから、言葉に変換する事なく、眺めるのが好きになっている。
言葉を止めると、世界の輪郭がはっきりするし、何もない空間に広がる何かが見える気がすし、見たいと思う。
そうすると結局、退屈はあっという間に去ってしまっている。