息子と『思い通りにならなくても幸せである』練習をする
息子が100均で買った布のフリスビーで遊んでいる。
しかし、何度やっても真っ直ぐ飛ばない様子で、
「なんでなんだよ❗️」
と、苛立ち始めた。
「真っ直ぐ飛んでるじゃん。」
私は、そんなに苛立たなくてもと思い、声をかけた。
「全然、ダメだよ❗️」
何が?
「だって、フリスビーをこのエアコンの上の隙間に乗せて、下に落とす遊びをしているんだから!」
は?
そんな高度な技をしようとしていたの?
「そんなのママでも出来ないよ。」
そもそも、エアコンの上の隙間に向かって投げたら、取れなくなるしやめて欲しい。
そして、目指している目標が高すぎることに、呆れた。
幸せの基準が高いから、イライラするんだよね。
自分で考えた遊びなのに、それが出来なくて全然楽しくない様子の息子。
「フリスビーで遊べて楽し~😃とはならない訳?」
と、聞いてみたら、
「ならない。エアコンの上に乗ったら幸せ~ってなる。」
なんか、損してる気がする。
息子の様子を見ながら、自分の生きづらさの根元を発見した気がした。
これが出来ないと幸せじゃない。
あれが手に入らないから幸せではない。
思う通りにならないから幸せではない。
息子はゲームをしていても、勝てないと楽しくないと思って、カードをぐちゃぐちゃにしたり、八つ当たりしたりする。
勝つこと=自分の思う通りの結果が出る=幸せになっている。
教えた訳ではないのに、遺伝とは恐ろしいもので4歳と40歳の考え方は全く同じ出所になってしまっている。
これは、いかん。
息子も生きづらさ人生まっしぐらだ。
少しずつ幸せのハードルを下げる練習をしなければならんな。
「よし、ママと一緒に幸せ探しをしよう。ママの後に言ってね。」
「フリスビーで遊べて楽し~😁」
「フリスビーであそべてたのしー。」
「ゆうくんと一緒に遊べて楽し~。」
「ママといっしょにあそべてたのし!」
「ゆうくんが元気で幸せ!」
「ママがげんきで幸せ!」
そうそう❗️
幸せってすぐ隣にあるけれど、時々スゴく遠くの方を探してしまう。
探している内に、苦しくなったり、道に迷ったり、近くにある幸せを手放してしまったりする。
私の生きづらさは、正しくそんな感じ。
ちゃんとここにあるのに、未来の不安や、思い通りにならない今や、手放した過去にとらわれて、正解を探しながら生きているから楽しむ余裕なんてない。
高い目標を目指し過ぎて、勝手にイライラしたり、自分ダメだのレッテルを貼ったり、何度も自分を責めて、これでもかと踏みつけて、上手に出来なければどん底に落ちる。
そんな生き方、辛いに決まっている。
この上なく、楽しくない。
それを分かっているだけに、息子にはそうなって欲しくない。
息子よ、有るもの数えて生きていこーぜー❗️
思い通りにならない事も楽しもーぜ❗️
自分を褒めて伸ばしていこーぜ❗️
そう教えたいのだが、全て己に言い聞かせている声がけだ。
すまぬ、息子よ。
ママの子どもである事で、生きづらさを背負わせる事になるかもしれぬ。
しかし、安心せよ。
その苦しみは、分かってやれる。
大好きな息子が元気でいる。
広々とした家もある。
それだけで充分ではないか。
足るを知しる。忘れないように老子の言葉を壁にでも貼っておこうか。
満足を知っている人の気持ちは豊かである。