クラスはないけど”暮らす”はある。
通信制高校の職員の時代に、私たちの授業受けに引率してきた当時サポ校いま通信制高校の職員が「言うこと聞かないと単位やらねえぞ」と恫喝していた。生徒が反抗的な態度だったから。
そのあと授業はじまり「はい、山本です。成績評価するのオレでーす」と言われてた生徒にニヤっと笑ったらその子もニヤっとしてた。その子はしっかり授業受けていた。
何ヶ月も一緒にいて信頼関係ひとつ構築できない奴がパワハラしてんじゃねえよって思いましたよ。よくもまあ私の前でそんな嘘で生徒脅せるなと。もちろんサポ校の職員に成績評価できる権限などありゃしない。
恐怖や不安、立場を利用して生徒をコントロールするよう場面見ると我慢できない。サポ校の側に回って7年。古巣の高校と連携しながら「課程を修める=単位を取る」ことの本質的意味を履き違えないことを常に意識しながら対応している。
いくら可愛い生徒でもやるべきことをやらないならインチキして単位を取らせるべきではない。合理的配慮の範疇を逸脱してはならない。そこは中学とは全く違う。単位制高校とは何かというそもそも論である。
通信制高校やサポート校は金で学歴を売る機関ではない。現在も渡された、板書された答えをレポートに書き写すことをスクーリングと呼ぶような言語道断なサポ校の話はいくらでも聞く。
人それぞれだと思うが、私は「この先の幸せ」の足がかりになるために仕事している。正当な努力で自分なりの成果を出し自尊心を高める。それこそが幸せの近道だと考える。努力なしに手に入れたもので本当の幸せは得られない。幸せとは給料の額でも地位や名誉でもない。自分の生を肯定できることだ。
過去現在未来の流れ。過去から変化し未来を見つめる心の余裕と自他を愛し共創する心を育てる。
ただ作業で単位取って卒業するだけで何が残るだろうか。よしんば何かあったとしても持続力はないだろう。
「この先の幸せ」の足がかりになるため何ができるか、模索し生徒と一緒に作り上げていく。守りの時は終わった。本末転倒は避けながら動いていく。
今回札幌では沖縄の時以来の一軒家でゆるい共同生活しながらスクーリングを受講した。大切なのは他人に合わせることではなく、他者を尊重受容しつつ自分で考え行動すること。思考停止しない人間になることである。そこの設計が他校とは全く逆だろう。ひとり行動推奨。
若者は親の心配など一気に飛び越えて出来ることが飛躍的に増えるもの。「自信がないけどやりたいこと」はやってみるべき。旅はその良いきっかけとなる。昨年も、その前も、そんな生徒たちの姿を頼もしく見てきた。
いまさまざま思い悩む中学生も先輩たちがどんな道のりを歩んだか知って欲しい。「自分だけじゃないんだ」「私にも出来るかも」がある。
旅を楽しみ、どんどん出来ることを増やそう。自信がつけば加速的に出来ることが広がっていく。
札幌暮らし、最終日のあとは寿司パーティー。そのあと延々カードゲーム。やりながら本音がポロポロ。この時間がいい。なぜ岐阜開成学院を選んだのか。入学してからどう思っていたのか。
「ココ選んだの間違いじゃなかったって今日あらためて思った。こんな楽しく過ごすことなんかもうないと思ってたから」「嘘くさくない場所にしか行きたくなかった」
日々を共にするからこそ生まれる本音。「クラスはないが”暮らす”のある学校だよな」なんて思ったり。
今後「自分なりのソーシャルアクションを見つける、選ぶ」ための講座を連続で開催していくのもそう。
ひと口にソーシャルアクションと言ってもフェアトレードだけでなく、多様な社会を目指す活動や子育て・シングル世帯支援、防災や被災地への取り組み、地域課題への取り組み、孤独孤立対策などケアや情報発信、提言までさまざまな分野、さまざまな関わりが含まれている。
すでに活動されているさまざまな方のお話を伺い、活動のお手伝いをする中で自分なりのソーシャルアクションを見つけて欲しいというのが狙い。
学校から無理やり、とか受験や就職に有利になるからなどの打算や後ろ向きなものではなく、自分の心の奥から湧き上がってくるような活動に出会えたら面白いなというのが講座を作る動機。さまざまな団体や個人の方と交わりながら、単なる綺麗事ややってる感に終わらない体験を大事にしたい。
「高校生なのにえらいねー、すごいねー」なんて要らんのよ。自分ごととして社会課題に向き合う若者を応援する場にしたい。押しつけや打算で活動することに意味はない。軸は常に”やらせる側”ではなく”やる側”だ。大人の自己満足などクソ喰らえ。
関わる人みんなが横に並んで歩みを進める。
それが岐阜開成学院のあり方だとあらためて心に誓った。